坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 6月 30, 2009

今、私がここにいる理由

使徒行伝13;13-31
使徒パウロたち一行は、キプロス島での宣教を終えて現在のトルコにある地域(ガラテヤ地方)での宣教を始めようとします。ところが、その矢先にヨハネが一行から離れてエルサレムに帰るという事件が起こります。わりと宣教旅行の最初が終わった段階で帰る彼の心情は何だったのでしょう。思いもかけない宣教旅行の苦難、また霊的な戦いを思うときにパンフリヤのベルガはまさに、ここならまだ帰ることができると思える、実際にそういう場所、地点だったのでしょう。ところが、14節には「しかし彼らはベルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き」とあります。果たして、宣教するときに恐れや実際に霊的な戦いがあります。宣教の祝福よりも恐れが人間的には先立つかもしれません。しかし、前進するときに大きな祝福が待っているのです。何よりも、神様が私を主イエスの証人として呼ばれてここに遣わされた理由があるのです。私に「あなたは進むのか?」と問われた気がしました。新しい神様の働きに進むのに恐れがあります。また、なかなか進むない現状にいらいらします。それでも、進むところに祝福があります。使徒パウロはユダヤ人の会堂に入ってメッセージをすることを勧められます。そこで、旧約聖書のモーセ、エジプト、荒野での訓練と導き、さばきつかさ、サムエル、そしてダビデの話をします。そして、ダビデの子孫として生まれてくださったメシアなるイエス・キリストをエルサレムでユダヤ人の指導者たちが十字架にかけた事件を伝えます。それが、旧約聖書の予言どおりであったことも語ります。ここで、もうひとつ私の心に留まったことは「ダビデが神様のみ心にかなう人であったことです」神様のみ心にかない、神様のみ心を実行する人とはどんな人でしょうか?
①神様と親しく交わり、神様の心に同調する人である
②神様を愛する人である。人と比較することなく。
③神様のみ言葉を聴いて行う人
④神様へ祈る人
⑤神様こそが、神様のみが、最高の人生の価値観であることを確信する
⑥神様の計画が、BEST PLANを受け取って信じて生きる人
旧約聖書の人々も、宣教したペテロたちも神様の計画の中でそれぞれ違う役割を心から守り行い、生きました。神様に用いられる人生を歩みました。神様に用いられる人生を歩みたいです、歩ませてください、進みます。

月曜日, 6月 29, 2009

宣教師を派遣する教会は外国人の教会だった

使徒行伝13;1-12
シリアのアンテオケ教会には、サウロ、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟のマナエンなどいう人々がいました、イスラエル以外の外国の教会として非常に多種多様な人々が同時にいて、一致して、礼拝していたことが不思議に思えるメンバーたちです。サウロは以前に迫害をして律法の専門家のガマリエルの弟子でした。そして、バルナバは慰めの人という意味、クレネ人はテトスの手紙で「クレネ人はうそつき」といわれるような(ルキオはそういう人でなかったでしょうが)評判の悪い人たちでした。そして国主ヘロデの乳兄弟であるマナエンは権力の近くにいる人だったでしょう。こう考えるだけで、こんなメンバーが同じ教会にいてどうやって一致したのでしょうか?それは、神様を愛し、礼拝し、学ぶ中で、聖霊様に従うことのみでした。そういう彼らが礼拝し、断食しているところに聖霊様が「宣教師としてサウロ、バルナバ」を派遣するように言われます。彼らはすぐに断食して祈って神様の働きに送り出します。派遣されたサウロとバルナバはアンテオケ教会にて大事な存在であり、送り出すのが痛い存在でした。いうなれば、主任牧師を送り出すようなことぉしたのです。アンテオケ教会は教会が誕生してから、サウロとバルナバによって養育されて成長して、エルサレム教会の飢饉の時には献金を送るほど成長していました。そのような教会を神様は最初の宣教師を送り出す働きに召されました。宣教師を送り出す教会を
①礼拝と祈りの中で召しを聞きました
②最高のメンバーを他の人々のために送り出しました(いまだに見たことのない人々のために)
③断食を持って祈り送り出しました。霊的な戦いに向けて祈ることを知っていました。
そして、実際にキプロス島での伝道はセルギオ・パウロ総督が神様の教えを待っていました。しかし、そこには霊的な戦いが待っていました。何と、ユダヤ人の魔術師がいて妨害をしようとしたのです。神様に遣わされたなら、必ず福音を待っている人がいます。同時に、福音を妨害しようとするサタンはじっとしていません。霊的な戦いが必ず待っています。サウロやバルナバに恐れが走らなかったでしょうか。しかし、聖霊に満たされてパウロはにらみつけます。人の力では勝てないけど、すでに十字架で与えられた勝利を宣言するならば、必ず勝利を得ることができます。聖霊によって派遣された人は、聖霊によって満たされ続けて、宣教します。私にとってかけているのは、難しい状況でも、自分は恐れても、聖霊様に満たされて勝利を得ることでないかと思いました。主にある宣教の勝利を宣言して歩みます。

神様のBEST PLANを信じて祈れ

使徒行伝12;13-25
今日のQT箇所には、熱いとりなしの祈りが応えられて「ペテロが解放」されたのに信じられない聖徒の話とヘロデが自分の声を神の声と呼ばれても否定せずに、神様に栄光を返さずに「虫に刺されて死ぬ」という事件が出てきます。その結果は、ますます神様のみ言葉が広がっていくという祝福の結末で終わります。果たして、違いはどこから来るのでしょうか。初代教会はヤコブの殉教そしてペテロの逮捕と、ヘロデを神のようにまつる人の声が出てきます。
一見、キリスト教を迫害する力が強いように思え、キリスト教と宣教に大きな危機のように思えますが神様の勝利が待っています。今日、特に祈りについて黙想しました。何故、ペテロのためにあれほど熱く祈っていながら、神様の奇跡を信じることができなかったのか?それは、神様を自分の信仰のサイズに小さくして、自分の経験以上の祈りの答えをを求めていないし、期待もしていないことにあります。神様に祈るなら、祈りの答えを期待して祈るはずがまったく期待もない、熱心な祈りに陥っているのです。その結果奇跡を見て信じられなかったのです。
祈りの答えを早く受けるために、どのようにしたら良いのか弟子訓練で学んだことがあります。
①神様の約束のみ言葉をつかんで祈れ(人間の力や意見でなくて神様のみ心もって祈る)
②期待して祈れ
③神様のBEST PLANを信じて祈れ!それは、自分の願いと違ってもはるかに素晴らしいイザヤ55:8-9にある神様の最高の最善の計画を信じて祈ることです。私たちには理解できない答えで、神様は私を愛しているのでしょうか?と疑いたくなっても、理解できなくても、神様の愛を信じることです。神様の最高のプランは何でしょうか。わたしのために命を十字架でイエスを殺された愛です。そのような方がどうしてすべてのことを下されないことがあるでしょうか。
④従っていくことです。
ヘロデは人生の最後を「神様の声」といわれつつ、虫に刺されて死ぬ情けない、人間の弱さを見せられる結末でした。そして、迫害にかかわらず、さらに福音は広がりました。神様のベストプランを信じて、期待して祈って進んで生きたいと思います。挫折するのでなくて、神様の恵みを信じて歩んでいきます。

土曜日, 6月 27, 2009

祈りによって奇跡を体験する人生を生きているのか?

使徒行伝12;1-12
今日のQT箇所には、二つのタイプの人が出てきます。一つのタイプはヘロデのように「人の顔を見ながら進む人生」ともうひとつのタイプは使徒ペテロや彼のために祈った初代教会のように「神様を見ながら奇跡を体験する人生」それは「祈って神様からの奇跡を体験しながら、そして天使に守られることをも体験する人生」です。私たちはどちらの人生を生きているでしょうか。それとも、どちらつかずの人生でしょうか。どちらつかずの人生はないのです。神様にある奇跡を体験するのかどうかです。初代教会に迫害が迫りました。ヘロデが自分の宗教やローマ帝国の主張でなくて(彼はヨルダンにある王朝の出身です)、ユダヤ人の民衆のごきげんとりのために、使徒であるヤコブを殺しました。そして、さらに自分の政治に有利になるようにペテロをも捕らえて殺そうとしました。初代教会はこの危機に「祈りを持って進みました」それは、何かこの世的な対策をたてることもできない状況であり、頼ろうともしなかったのです。果たして、私はそのような必死の祈りを体験したことがあるでしょうか。自分のために、またとりなしで必死の祈りを体験したことがあるでしょうか。思い起こすとオンヌリ教会で奉仕した時に、サラン教会の特別早朝祈祷会で体験した気がします。主なる神様は私たちの祈りをそこまで待っておられます、そして、天使に助け出させるという奇跡を起こされたのです。私の人生に、奇跡を起こされるような、まるで幻を見ているというほどの祈りをしているのでしょうか?今の私にまさに必要な祈りです。人の顔を見るのでなくて、主の幻を体験する「必死の祈り」をささげていきます。

宣教する人は他の人を立てる

使徒行伝11:19-30
エルサレムに始まった迫害は、かえって福音を伝えるきっかけになりました。世界宣教への拡散をすることになりました。何故でしょう。普通迫害が起こったらかえって福音がとどまるのか?力が弱くなっていくのは普通でないでしょうか。そうならなかったのは、「主がとどまっていたからです」(21,23節)。また宣教するのに、非常に戦略的な方法があることにきがつきます。
①まず、外国に散らばっているユダヤ人にだけイエスの福音を語られたことです、これは否定的な意味もありますが、まず旧約聖書を持ってメシアを待っていたユダヤ人に語られたことが福音の効果的な伝導をもたらしたのは間違いありません。
②バルナバ、パウロも外国にあるユダヤ人の会堂を中心に伝道しました。その中にいた外国人、まずはギリシャ人へと伝道されていたったのです。それは、福音に近い人々や渇望を持つ人々へ伝導されて、さらに福音が外へ広がっていったのです。
③シリヤのアンテオケ教会へと福音が伝えられていきました。ここは世界宣教の最初の派遣教会となった教会で、文化的にも多様な場所にあり、そのような人々が集まっていました。
ふと、今日黙想させられたのは現代の世界宣教は完全に自分の文化や言語の違う宣教の働きもありますが、外国にある同じ文化圏の人へのディアスポラ伝道もあると思います。海外にいる韓国人移民伝道や海外の日系人伝道もそうです。今まで、それらの伝道に少し否定的な思いもありましたが、このように海外の同国民からの更なる伝道もあることを聖書からチャレンジを受ける気がしました。そして、この霊的に未熟なアンテオケ教会に派遣されたバルナバがパウロを探しに行って、ともに牧会した事実です。自分だけの牧会というより、他の人を立てても教会が成長することを願ってのです。はたして、現代の私は他の人を立てることを喜んでいるのでしょうか。教会のために与えることを喜んでいるのでしょうか。このような恵みを受けたアンテオケ教会は、エルサレム教会が飢饉のときに異邦人教会にクローズな姿勢であったにもかかわらずに、喜んで献金を持って愛し、仕えたのです。素晴らしい霊的な指導者の姿勢そのままを習って、与え、他の人を立てる働きをしたのです。私にとってチャレンジでした。キリストの弟子はまさにこのような姿でないか?と思いました。弟子訓練の働きをするものが与える人でなくて、立てる人でなくて、どうしてこのような教会や兄弟姉妹が生まれるでしょう。他の人の祝福のために立てる人となります、主よ、私のプライドを打ち砕いてください。主イエスの教会を立てさせてください。

宗教人として生きるのか?VISIONを持つ人として生きるのか?

使徒行伝11;1-18
今日のQT箇所には、異邦人伝道をしてきたペテロを非難するところからスタートします。律法を守ることに自分の宗教アインディをいまだにおき続けているユダヤ人クリスチャンには難しい問題でした。しかし、もっと難しいことは「人が救われているのに喜ぶどころか、非難をする」信仰の姿勢にあります。私たちはともすると今までの宗教生活や信仰の経験においてものを判断します。ペテロは非難されたことに「神様の異邦人を救いへ導かれた証」をします。そこで、ユダヤ人クリスチャンたちも納得せざるを得ない状況になります。今朝の私へのチャレンジは
①主イエスのために奉仕するときに、時に批判がある。内部からの攻撃もあること
②そういう時に批判を恐れずに、聖霊様のなされた新しいビジョンを大胆に証せよ
神様のなされたことは必ず示されることを確信せよ
③聖霊様の新しいシャワーをあびて、罪を日ごとに悔い改めいないと、すぐに私も宗教人の生活をすることになる(宗教人とは宗教の行いを心が伴わずにする人生、そしてその宗教行為の満足は神様でなくて、自分にあることです)
④聖霊様のビジョンを受けて進む人は受動的です。信じます。明るく積極的です。挑戦的です。前に向かいます。そして何よりも満足は自分でなくて神様に喜んでいただくことにあります。心の動機は神様への愛にあります。愛を持つ人は恐れがなく、神様の大きなみわざを見ることができます。心の中心が主イエスにあります。
日ごとに、新しい主イエスの十字架に血によって歩みます。

主イエスの弟子と呼ばれるのはイエスを伝えるため

使徒行伝10;34-48
使徒ペテロは、「これではっきりわかった」という箇所から今日のQTが始まります。それは、イスラエル人以外であっても、全世界の人が神様を怖れかしこみ、義を行うならば、神様は主イエスの義を与え、救いへ導かれるということです。そして、聖霊を受けることができるのです。その神様の心が分かったということです。そして、何よりも、他の誰でもない自分たちを弟子として呼ばれてイエスの十字架と復活の証人とされた理由をわかったということです。私たちは、果たして主イエスの弟子として呼ばれたことの意味を分かっているでしょうか。神様の願いと心を知って、従っているのでしょうか。異邦人でも主イエス・キリストの十字架の事件を知っていました。しかし、それが全世界の人々の救いのためである、という十字架の愛を知っていることがありませんでした。それを伝えてほしい、その大事な責務をあなたに任せられた、という神様の情熱を受け取る人がイエス様の弟子です。イエス様の心を胸に描いて生きる人が弟子です。イエス様のことを伝えるために出て行く人が弟子です。聖霊を受けたのに、今までの自分の立場や経験にとどまる人が主イエスの弟子でありません。主イエスに集中するならば、その心を受けて失われた人々のところへ行き、その人々が救われて賛美することを願います。主イエスの弟子は、友なる主イエスの願いを持って新しい場所へ向かいます。自分の立場や自分の経験から出て行かずに、同じ場所にとどまることがありません。新しい命を得て常に成長します。私はどうでしょうか。同じ場所にいる安心感を持っていたい、新しいタイプの自分の知らないクリスチャンに出会うときに、自分の殻を破れずにいることが多くあるきがします。そして、何よりも宣教に出て行くことに、開拓に心配があります。失敗への怖れです。信仰に立つことを怖れ、ためらいます。神様の福音のために、失敗を恐れずに進みます。今日SEOULから新しい出発をしていきます。

火曜日, 6月 23, 2009

私の超えるべき障壁は何か?

使徒行伝10:17-33
今日のQT箇所は、使徒ペテロが聖霊様が下った後も「異邦人伝道への幻」を見た後も、意味を図りかねている箇所です。そこへ、コルネリオが送った人たちがヨッパへ訪ねてくる内容です。果たして、ペテロほどの人が、ユダヤ人として会堂教育を徹底して受けて、主イエスの弟子として命をかけたほどの人が、異邦人伝道のために見せられた幻を見ても、「聖なるものと俗なるもの」を自分の今までの教育や信仰や経験からしか判断することが出来ませんでした。また、ユダヤ人が異邦人に招かれていくことについても難しく思いました。今日、私に与えら得た恵みはコルネリオの祈りです。それは、神様の前に覚えられる祈りでした。異邦人への伝道が、全世界への伝道が道を開くようになったのは彼の信仰であり、恵みを受けるにふさわしくないものがひれ伏す謙遜です。私にはそのような信仰が、祈りがあるでしょうか?それを経験したでしょうか?異邦人への壁を破り、律法を完成させる主イエス・キリストの福音を、不可能を可能にする十字架を日ごとに経験しているでしょうか。逆に、ペテロも同じように今までの経験や信仰生活を乗り越える経験をしているでしょうか。私が超えるべき障壁は何でしょうか。福音を伝えるのに自由になっていないことは何でしょうか。それを超えるときに新しい神様の奥義が開かれることを信じます。最近、読んでいる信仰書に「パピルスのかご」という本があります。韓国の韓東(ハンドン)大学と言うキリスト教主義の大学を建てていく際の大きな障壁に当たっていた時の証です。当時、私のいたオンヌリ教会が大きく関わっている(霊的:経済的にも)大学です。何故、私が今のコノ時期にこの本を読まされているのか?考えさせられました。北米日本人宣教というビジョンを持ちながら、VISAや目の前に見える状況は、また経済的なことは「時々、私の心をくじけさせようとします」しかし、神様が越えるべき壁を献身をさらに示すことを教えてくださいました。神様が私の口の告白だけ出なくて、生活の中で無から有を創造される神様として賛美できるように、栄光を言いふらすことが出来るように、全能の神様を宣言しながら進んで行きます。

VISIONは、両方の人に与えられる

使徒行伝10;1ー16
今日出てくるコルネリオはローマの百人隊長でした。そして、彼の特徴は
神様に届く、覚えられる祈りをしている人であったのです(イスラエル人には考えられないことだったでしょう)そのような彼の人格と信仰は、①イスラエルの人口で作られた港町でローマの百人隊長をしている異邦人ながら
②敬虔な人であった(軍人でありながらも、このような生活と人格を保つのは難しいでしょう)
③神様を恐れ、かしこみ(しかも家族すべてがです。信仰の教育をした家長であることがわかります、意外と難しいことです)
④多くの施しをしていた(献身と神様への愛からの人々の愛を意味します)。彼が金持ちだからしているのでなくて、お金があってもしない人は多くいると思います。
⑤いつも祈っている人であったとあります。
コルネリオの信仰は、祈りは、神様に覚えられて、異邦人宣教の窓を最初に開く祝福の通り管となります。私たちはこのような人生と信仰を生きているのでしょうか?私たちの祈りと人生は、多くの人々へ新しい福音の窓を開くことになるのです。そのような期待と霊的な責任感を持って生きているでしょうか。また、もう一つ覚えることがあります。彼は神様のVISIONを分かち合う「敬虔な部下」を持っていたのです。そして、神様からいただいた祈りからの答えを全て話して、任せていくような信頼できる関係を持っていたのです。コルネリオのような霊的なリーダーシップを私は持っているのでしょうか?主イエスにある霊的なドリームチームを教会で持っているでしょうか?神様の祝福はこのようなところに注がれ、用いられます。そして、逆にイスラエルの国内巡回伝道、牧会をしていたペテロに神様の幻が見せられます。神様の幻は自分だけに見せられるものでなくて、相手にも見せられていくものです。神様が自分にも相手にも確信を与えてかみさまのみわざが進んで行きます。しかし、今日のペテロの反応は「律法で汚れたものとして、禁じられたものを神様から食べるように」と言われて拒絶したペテロたちユダヤ人たちには、本当に異邦人を受け入れるのに壁があったことを思わされます。聖霊様が下ってピリポがサマリヤ伝道をしながらも、未だに異邦人伝道、世界宣教までは完全に道が開いていなかったことを覚えます。それは、私たちの先入観、偏見、時にそれが信仰的であると言う誤解やその壁が福音をとどめることになります。特に、信仰的であると思っている時に単に宗教的な命の無い、神様との命が流れていない働きになり、福音をとどめ、多くの人を傷つけます。私の信仰生活ははたして、命のない信仰生活になっていないでしょうか。神様はそのようなユダヤ人たちにあえてはっきり示すためにあえてエルサレム教会のペテロを選ばれたと思います。異邦人を愛された神様は、異邦人を受け入れないユダヤ人に分かるように配慮されました。神様の愛の前に開かれた人生と姿勢と教会を建てあげていきます。



月曜日, 6月 22, 2009

神様との秘密の関係を持つと献身に万倍の祝福がある

使徒行伝9:32-43
ある開拓教会を奉仕されている韓国人の先生がこのようなことを言われました「開拓教会をしているといろいろ大変で、人数のことや経済的なことや、そういう苦労の中で、真心から入ってくる犬にまで神様の祝福が万倍あるように祈る」と言われました。私の結婚式の司式をしてくださった先生が、大型教会にいたときには考えられない苦労をされながらも、このような祝福を語ってくださいました。今日のQT箇所には、ペテロがイスラエル国内を巡回伝道と牧会をしていたことが出てきます。その中で、ルダというところにいた8年の中風にかかっていたアイネヤを癒す奇跡と、それに伴って主イエスを信じる人が起こってくる祝福が出てきます。また、ヨッパ(港町で使徒行伝に良く出てきますね)にいたドルカスという多くの良い技と施しをしていた人が死んだという事件が出てきます。今日私が黙想させられたことは、「いやし」とは神様の御心と全権的な神様にかかっていることでした。私が病気の人のために祈るときに、難しく思うことは「もしも、神様の御心が癒し」でなかったら、ということです。しかし、思わされたことは「いやし」に対する神様の御心は「常にその人への最高の計画であり、愛であること」を思わされました。私が判断することでなくて「神様の愛」を信じて祈ることが大事であり、判断することよりもペテロが普段から神様の関係を強く持っていなければ「いやし」の奉仕に仕えることが出来なかったであろうと思いました。ペテロがアイネヤを癒したときは他の人もその場にいたようです。しかし、死んだドルカスを癒すときには「みなのものを外に出してひざまずいて祈りました」まるで、エリシャがシュネムの女の息子を癒したときのようです(Ⅱ列王記4;25-37)。今日、さらに思わされたことは、「いやし」について判断するよりも、私は神様との誰も入れないくらいに親密で、深刻で、深い、関係にあるのか?物見遊山でない癒しと祈りの中にあるのか?と思いました。そこに、大きな奇跡があり、人を生き返らせるという主イエスのみがなされてきた奇跡をされたのです。それを通して、また多くの人々が救われたのです。神様との奥義を持った弟子は、多くの祝福をもたらします。ドルカスも生きている間に多くのよいわざと施しをしてきました。主イエスにある献身であり、それは愛から来ているものです。彼女がなくなったときに、多くの人々がペテロに助けを求めるほどに、彼女は愛し、愛されました。このような愛の関係を持ってるでしょうか。自分はなげまれるほどの愛を持って共同体に献身しているのでしょうか?ペテロは巡回伝道を持って仕えて来ました。彼の癒しは、自分に力があるのでなく、主権と力と栄光は神様にあることを宣言して癒しました。神様との深い、奥義の関係を持って献身して共同体に使えていきます

日曜日, 6月 21, 2009

神様の召しに答える人生に祝福がある

使徒行伝9;23-31
神様は私たちの人生、一つ一つを大事に計画を下さいました。今日のQT箇所に出てくる「サウロ」と「バルナバ」もそうです。慰めの人と呼ばれたヨハネことバルナバは、サウロがエルサレム教会の使徒たちに受け入れてもらえないときに、サウロの劇的な改心を紹介し、また使徒たちや教会の関係を取り持ちました。そのおかげで、サウロは教会に受け入れてもらい、交わりの中に入って、彼の賜物である外国語を自由自在に使ってギリシャ語を使うユダヤ人に伝道することが出来ました。今日与えられた恵みは、与えられた賜物を使うのは神様の導きを感じ従う心にかかっている、ということです。いくら、ギリシャ語やへブル語が自由に話せても、それを使う心が大事です。まして、神様のために遣うささげる心、それは兄弟姉妹との関係の中で用いられるのです。信仰の成熟した人は人に仕えることが出来ます。それは、比較意識や劣等感と違って神様の中にあるアイデンティを持って自由に仕えることが出来るのです。アノ人の賜物は目立っている、同じ奉仕をしても、アノ人が用いられていると考えるなら不幸です。しかし、人はそう考えがちです。どうしたらいいのでしょうか。それは、神様の計画の中にあって賜物をベストを使って奉仕するときに、神様の大事なみわざがすすみ、本人も幸福だし、神様に栄光も返せるのです。バルナバは人と人の間に立つ、とりなしの働きをしました。そして、世界宣教の器であるパウロを立てました。人を建てる人は実はアマリ多くいません。また、その人が用いられると嫉妬を起こす人もたくさんいます。残念な話です。私たちの人生を最高に輝いて、幸福に生きたいでしょうか?神様と親しくなることです。神様の声を聞いて、したがって生きることです。神様の情熱的な最高にあなたらしく生きる人生が待っているのです。そこには、人との比較意識がありません。神様のみに栄光を返す、礼拝する人生です。今日は、心をオープンにして交わり、偏見をおいて人を建てる礼拝と交わりをしていきます。

土曜日, 6月 20, 2009

visionによって生きる人の人生

使徒行伝9:17-20
そこで アナニヤは出かけて行って,その家にはいり, サウロの上に手を置いてこう言った.「兄弟サウロ. あなたが來る途中でお現われになった 主イエスが,私を遣わされました. あなたが再び見えるようになり, 聖
に滿たされるためです. 」 するとただちに, サウロの目からうろこのような物が落ちて, 目が 見えるようになった.彼は立ち上がって, バプテスマを受け食事をして元氣づいた.サウロは數日の間, ダマスコの弟子たちとともにいた. そしてただちに,諸會堂で,イエスは神の子であると宣べ傳え始めた.
昨日は、神様とつながらない人生は的外れの人生であるとQTの分かち合いを書きました。また、神様の下さった人生のGOALを知らないのは危険である話をしました。神様とつながらない人生は命の無い人生です。目に見えて生きているように見えても、実は霊的に死んでいる人生です。今日は、それでは、神様の計画にある人生をどのように生きるのか?黙想されられました。それは、神様のVISIONで生きる人生です。神様の計画を「信仰の目で見ていく」人生です。今日のQTの登場人物はそれぞれに神様の人生の計画にあっていきます。
①アナニヤは、今まで主イエスの弟子を迫害してきたサウロを癒しに行くときに悩みましたが、神様の計画を聞いて、自分の意見や感情をおいて従いました。私は、自分のスキや嫌いや意見で神様の計画に従うことを拒否していないでしょうか。
②主に呼ばれたときに、アナニヤは「ここにおります」と答えました。主イエスに呼ばれたときに準備している人生を、態度を持つ人が弟子です。私を呼んでくださる人がいるのに、しかも神様であるのがどれほど楽しみなことでしょうか。
③もしも、アナニヤが主イエスの命令に答えなければ、主の選びの器は用いられなかったのです。
はたして、その祝福の従順をしているのでしょうか。サウロの人生、自分の人生と比較することなく神様の計画に従順していったから神様の最高の宣教旅行が、全世界へ広がっていったのです。果たした、私への神様の計画はあの人と比べたら大したことが無い、と判断したり比較していないでしょうか。私の小さな従順は、大きな神様の期待あるのです。
④サウロは、「目からうろこのような」ものが落ちて、バプテスマを受けました。そして、ダマスコの弟子たちと交わりをはじめます。神様の人生が始まっていくのです。彼は今まで全く違う人生を躊躇することなく、自分の人生のプライドをおろして「主イエスが神様の子」であることを語り始めました。
私は、主イエスのために苦難の人生に呼ばれたら喜んで従うでしょうか。昨日までのプライドを捨てて語るのでしょうか。神様に呼ばれた人生を喜んで答えるのでしょうか。
⑤サウロを迎えたダマスコの弟子たちです。彼らは昨日まで自分たちを殺そうとしたサウロと交わりを下のです。人間の理解の限界を超える愛の交わりです。何故なら、まず罪だらけの自分が主イエス・キリストの十字架で救われたからです。その救いを受けたら交わりをオープンにせずにいられません。私は自分のタイプで無い人を受け入れているのでしょうか。神様のVISIONで生きる人は祝福を受けます。神様の期待に喜んでこたえているのでしょうか。宣教の人生でも、苦難の人生も、私の受け入れない人も神様のVISIONで生きていきます。

金曜日, 6月 19, 2009

神様に出会わないと的外れの人生を生きる

使徒行伝9:1-9
神様に会わない人生は、的外れの人生を生きる人生となります。サウロは「イエス・キリストの弟子」たちをシリヤのダマスコ(現在の首都)からイスラエルのエルサレム(当時の首都)までつれてくる殺害の意に燃やされていました。それほどまでに、イエス・キリストの福音は迫害を通してますます広がっていたのです。それは、サウロの「神様に対する熱心」でした。全く間違った熱心だったのですが、彼にとって非常に熱い熱心でした。神様を信じながら、そのような方向に行き、人を殺そうとしても、それが自分が神様に熱心であると思うほどに錯覚していたのです。罪とは神様と関係が切れていることです。罪とはギリシャ語で「ハマルティア」という正しい方向へ行かないこと、的外れを意味します。サウロの人生は、ハマルティア、的外れな人生を生きていたのです。サウロはダマスコに行く道で、「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか?」と言われたときに「主よ、あなたはどなたですか?」と答えました。それは、神様への熱心を持ちながらも「神様を知らない」サウロの人生と生き方でした。自分のするべきことを分からないでいる人生でした。自分の人生の価値、目標、GOALの分からない人生を歩むから、今すべきことを的外れに生きてしまうのです。律法においてはガマリエルに学び、生まれながらのローマ市民が、このような人生を歩んでしまうのです。しかし、そのような迫害をしたステパノを殺したサウロを愛された神様は、出会いと回復のときを持ってくださったのです。そのような深い愛を私も受けたのです。主イエスのみなを賛美します。主イエスに出会った人生は、勝利へのGOALが決まっている人生です。ですから、GOALから逆に今私が何をすべきか黙想し、準備することが出来ます。サウロは宣教師として呼ばれました。私も神様の召しに答え、準備する人生を歩みます。

木曜日, 6月 18, 2009

神様が用いる人

使徒行伝8:26-40
神様が用いられる人は、
①神様との関係が親しい人、私の友人(女性)がこのようなことを言いました。今年の目標は神様と熱愛中。果たして、私たちの信仰は神様との直接の関係が強いものでしょうか。それとも、いつも教会を通して、牧師を通して、教会の人々を通して神様の恵みをもらう関係なのでしょうか?神様との関係が直接にある人は、御言葉や祈りを通して恵みをいただく人は神様の幸福な人生を歩みます。
②聖霊様の導きに敏感な人です。伝道者ピリポは今日のQT箇所で、サマリヤで伝道が用いられたときに「聖霊様がエルサレムからガザに行く道」に行けといわれた時に、「人間的に伝道が用いられるときにもっといたい」というこもなく、すぐに従って行きました。その結果はエチオピアの財産全部を管理する宦官に伝道することになりました。それは、彼の救いのみならずにエチオピアの伝道につながったのです、現在もエチオピアは国民の宗教の中でキリスト教の人が多い国です。神様の導きに従う人は、多くの恵みを他の人にも流します。
③聖霊様の導きに従うことに、神様の計画が最善であることを信じたからこそ従ったのです。従うと言う単語は、私たちにとって難しいことを、無理やりに、嫌なところに連れて行かれる、イメージがあるかもしれません。しかし、最善のことがなされることを信じるなら「従う」とか考えません。神様の愛や最善を信じるなら、聖霊様の声を聞きたくて仕方が無いのです。
④聖霊様の導きに「すぐに」従うことをピリポはしました。従うことを伸ばすのも、不従順なのです。と言うよりも、自分が損をするのです。
神様の親しい関係を持つことが、神様の素晴らしい愛と私への計画を知るなら、もっと多くの祝福を得ることが出来ます。ピリポは続いてユダの町々で用いられ続けました。神様の親しい関係をさらに持って行きます。

水曜日, 6月 17, 2009

本当の権威はただで与える

使徒行伝8;14-25
魔術師シモンは、お金を持っていて「聖霊の権威」を与える力を自分のものにしようとします。世の中ではそうでしょう。サタンの力やメッセージはそうでしょう。しかし、使徒たちは聖霊を与えてくださるように祈ったのです。自分の権威を持ったりするためには、与えないほうが良いでしょう、しかし、神様の下さった権威はタダで与えることなのです。自分の力やグループを持つためでなくて、ただ主イエスが主人であるためには、FREEなのです。福音は最も高価なものでありながらも、FREEなのです。福音の権威にある人生を、FREEの人生を生きているのでしょうか?自分の権威にしていないでしょうか。私の罪の代価をあがなってくださった十字架の権威の下に生きていきます。

聖霊の下る意味はイエスを主とする

使徒行伝8;14-25
サマリヤの人々が「神様のみ言葉」を受け入れたことを聞いたエルサレム教会の使徒たちは、さっそくペテロとヨハネを遣わします。ここで気になるのはユダの地方で神様のみ言葉を受け入れた人々もいただろうに、そちらに行くより、サマリヤに2人を遣わした事はどういう意味でしょうか。それはサマリヤがイスラエルの中では異邦人と混血した地方で、イスラエルの人々には外国として思われて、別の人々とされている地域でした。そこの人々に神様の福音を受け入れた時に、「未だに聖霊様が下っていない」ことがありました。そこで、使徒たちは聖霊が下るように祈ります。この聖書箇所は聖霊様が一度下るののみなのか?それとも、聖霊のバプテスマは二度あるのか?多くの神学的な論争を生み出す箇所です。それは、どちらの議論や体験を考えても、どちらも非常に納得の良い話で、ここでさておきQTです。
何故、神様のみ言葉を受け入れたのに、未だに聖霊様が下らずに、さらに聖霊様が下る必要があったのでしょうか?それは
①イエス・キリストの十字架によってCONTROLされる人生になるために
②自分中心の人生から、イエス・キリストを主人として生きる人生になるために
③神様と共に生きる人生のためにです。それこそ、人生の力なのです。しかし、エネルギー体のようなものが聖霊様ではありません。神様の夢を共に見、神様の働きを共にするようになるためには、一人ではなくて人格者なる、神様である聖霊様と歩む祝福があります。
しかし、そうでなくて、自分のために利用としようとした魔術者であるシモンのように聖霊様をエネルギーにしようとするなら大きな間違いと痛みの人生を歩むことになります。私の主人は聖霊様である喜びを味わっているのでしょうか?聖霊様に委ねる人生を歩みます。

火曜日, 6月 16, 2009

殉教することは世界宣教のスタートになる

使徒行伝8:1-13
ステパノの殉教の死は、その日のうちに12使徒以外をエルサレムに集まっていたクリスチャンたちをユダ・サマリヤの各地に(首都からイスラエル国内へと)散らせました。普通ならば、クリスチャンの力と団結は弱くなるはずですが、逆に彼らはイエス・キリストを伝えながら各地に散らばっていきました。彼らのエルサレム教会での信仰生活は、礼拝や交わりやグループ化されていくだけでなくて、一人で神様からの恵みを受けて、迫害の中でも伝道していくほどに信仰の実力がたくわえられていました。その中で、7人の執事であったピリピはユダでなく、サマリヤ伝道いや、サマリヤはユダヤ人に嫌われた地域であり、混血の地域とされて(列王記参照)宣教に行くことになります。後に聖霊を受ける事件でも関連してきます(8;16)。ピリポはサマリヤの人々に、「神様のみ言葉」を語り、驚きべきイエスを指し示す「しるし」を行い、「汚れた霊の追い出し」を行い、「病」の癒しを行い、サマリヤの町には喜びが起こったとあります。ステパノの殉教は確かに痛い事件でしたが、かえって、神様の愛を霊的に肉体的に閉じ込められている町に喜びを伝える宣教のポイントとなりました。それは、一人の敬虔な人の殉教を神様は覚えてくださり、その殉教を通してかえって全世界に福音を伝える事件としてくださったのです。何故なら、サマリヤだけでなくて全世界に霊的に閉じ込められている街はたくさんあり、喜びが町に来ることを待っているからです。山から町まで、川から谷へと町から、全世界へ福音を伝えていきます。私に与えられた恵みはこうです。自分が行くべき宣教地はどこか?また、宣教は自分が死んでこそ、大きな祝福を生み出すのでないかと思いました。そして、ステパノを葬った敬虔な人々のことです。彼らは敬虔な人であって、純粋に悲しみを知り、そして悲しみのために他の人日の目を気にせずに、行動する勇気のある人でした。私にとってかけていること、私が死ぬべきところは「勇気を持って行動」することでないかと思いました。年齢を重ねると計算し、安全な道を探そうとします。神様の道はインディジョーンズのように絶壁の谷を歩かされて、進むと橋の架かるような祝福の道です。宣教の道を歩みます。絶壁の道を一歩歩んでいきます。

月曜日, 6月 15, 2009

心の砕かれた人はゆるす

使徒行伝7:46-60
ステパノの殉教の聖書箇所を今朝、早朝祈祷会の後に読みました。その時に、自分でも分からない、言葉にすることのできない感情と涙が溢れ流れてきました。自分の献身と何と違うことなのであろうか?そして、殉教していくステパノが最期まで聖霊に満たされて地上にいながらも、主イエスの顔を見たことを衝撃を受けました。それも、自分を殺す人々の煮えたぎる怒りに出会いながらもです。しかも、イエスの前にひざをかがめ、主なる神様を呼び、死んでいく姿はまるでイエス様と同じです。聖書を読みながら「父なる神よ」と叫び祈りました。今日出てくる人々とステパノはどうしてこうも違うのでしょうか。人々はステパノを裁くために、うそを持って集まりました。それをステパノに指摘された時「耳をふさぎ、大声を上げた」のです。宗教人は自分の立場や社会的地位や、そして自分の罪を指摘された時に自分を守り、耳をふさぎます。はたして、私はそのような命の無い宗教人に陥っていないのか?思わされました。逆に、ステパノは厳しいことを言っていますが、最後まで「彼らのためにゆるし」と祈りをします。神様との関係を持っています。命を懸けて愛するからこそ、ゆるすからこそ、ステパノは厳しいことを言えたのです。相手を愛しているからこそ、命を懸けるからこそ、宗教人にならずに、神様の愛を持って純粋に、大胆に、勇気を持って行動することが出来るのです。人でなくて、神様を見るからこそ、人を見ることが出来るのです。純粋な、そして勇気を持って歩んで生きます。

日曜日, 6月 14, 2009

神様の臨在は自分の偶像を壊す!

使徒行伝7:37-45
ステパノの説教は続きます。モーセが荒野の集会で「生ける神様のみ言葉」を受ける話が出てきます。エジプトを出たイスラエルの民は幕屋を建てます。それは、主なる神様の臨在です。主なる神様が人間である私たち共に生きられる、という祝福なのです。モーセは荒野の集会(現代的に言うと礼拝)の中で「生ける神様の御言葉」をビジョンを受けたのです。ところが、そんな祝福にもかかわらず、イスラエルの民はエジプトの生活を振り返ることをしました。それは、罪の生活を懐かしむことでした。以前の慣れ親しんだ罪の生活を振り返る時でした。罪に慣れしたしむことは、まるで甘い、そして罪の結果をもたらさない、ような錯角をもたらします。そして、現在の神様に従う道が苦しいような感じを受けさせます。それは、サタンの策略なのです。私にとってエジプトの生活を振り返るとは何でしょうか。
①偽りの自由、それは罪を犯す自由という勘違いします。罪を犯す自分の弱さを神様の強さに連結することがありません。そして、慣れ親しんだ罪の生活から離れることを恐れさせるのです。罪の生活から離れることは痛みがあります。それは、実は回復への痛みなのです。
②果たして、キリストを信じたにもかかわらず罪の習慣を捨てれない、悪いものを処分していないことは無いでしょうか。
③古い自分や、心の傷など人間関係など今も縛られていないでしょうか?神様は自由になることを願い、自由に既に十字架によってしてくださったのです。それは、自分は自由になれないと思っていないでしょうか。繰り返される罪に挫折して無いでしょうか。それを偶像のようにして自分はできないと思っていないでしょうか?既に十字架において神様はゆるしと自由を宣言されたのです。
④イスラエルは、自分の言うことを聞いてもらう都合の良い神様である牛を作ったのです。
⑤私たちは、今は苦しくても神様の計画を信じて、過去の自分を振り返らず、自分のための偶像(過去の傷、習慣、人間関係、自分を縛っているもの、罪や捨てていない習慣)を捨てて、神様と共にいる臨在の中に住む祝福を得ることを願っておられるのです。それは、信仰を持って宣言するだけで、神様は下さるのを待っておられるのです。今日、神様にある自分は出来ないという偶像を捨てて、神様の礼拝の中で生ける神様のビジョンを持っていきます。

土曜日, 6月 13, 2009

神様が遣わされる人になるためには

使徒行伝7;17-36
神様が用いられる人になるためには、どうしたらいいのでしょうか?それは、神様の計画と約束を信じる信仰が必要です。時に、忍耐と準備の期間を通る必要があります。必ず、神様の計画によってしかならないことを信じる必要があります。今日、ステパノはモーセを通してそのモデルを見せてくれています。まずモーセは、
①自分でイスラエルを顧みる思いを持ちました。そこで、危険を冒してまでイスラエルの奴隷を救おうとしたのです。しかし、自分をリーダーとして認めてくれると思ったイスラエルの人は受け入れてくれませんでした。40歳の働き盛りのモーセにとって大きな挫折だったでしょう。また、モーセはエジプトのあらゆる学問をえたにもかかわらず、それを用いることも無い羊飼いをしないといけませんでした、どんな絶望だったことでしょうか。それも、モーセへの神様の準備期間だったのです。
②モーセは、自分の人間の力や時に神様に用いられることがないことを学ばないといけませんでした。それは、80歳になってシナイ山(後に出エジプトして十戒をえる)で神様に出会うまでは引退生活や将来への希望を失っていく年齢でした。
③そんな人間的な希望を失ったモーセを神様は呼ばれました。あえて、あなたの人間的な力で奉仕するのが神様のみ業をかえってじゃましていることを教えられたのです。神様に頼るしかないことを教えられたのです。モーセは神様に出会ったときに恐れました。
④モーセを神様のリーダーとして用いるのは、「神様の出会いが必修である」そして「神様の時に人間のときではありませんでした」「神様の力にのみ頼ることが出来るように」そして一番重要な「神様が立てられてこそ」仕えることが出来ました。神様との出会いは「聖い神様の出会い」であり、礼拝する人生でした。礼拝者として呼ばれた中で、主なる神様との特別な関係の中で奉仕者となったのです。明日の礼拝のときに、聖い神様の前に自分の靴を脱いで歩みます。

神様が共にいるONE STEP HEAD

使徒行伝7;1-16
ステパノは、議会に呼び出されて「偽証」をその通りかと尋ねられた時に「族長であるアブラハムとイサク、ヨセフ」の話を始めます。彼らの共通点は何でしょうか?それは、地上で苦難の人生を歩んだけれども、「神様が共にいる」人生を喜んで歩んだということです。その結果、イスラエルの民がいて自分たちがいることを話します。イスラエルの民のアイデンティそれは何でしょうか。肉体的な血統的なアイデンティをよりも、神様の約束を信じる信仰のアイデンティであるということです。アブラハムは何も現実的に、目に見える形で与えられない時に、メソポタニアの経済的、文化的に豊か生活を楽しむところから、荒野へと導かれました。そして、何よりも彼は従ったのです。また、子供がいないときにあなたの子孫を通して世界の民を祝福しようと言われました。また、ヨセフは「ねたみ」のために「兄弟に売られたのです」しかし、神様が彼と共におられ、救い出され恵みと知恵を持ってエジプトを救い、世界のほかの民を助け、兄弟たちとも再び出会うことになりました。主イエスはどうでしょうか?ご自分の国に来られたのに、私たちは十字架に付けてしまったのです。全ては神様の計画は、今は大変で、苦難があっても、約束は必ず素晴らしいものである、という信仰によるものです。それをもってアブラハムはヨセフは、出て行ったのです。そして、主イエスは裏切られ、裁かれ、十字架に付けられたのです。今朝、「アブラハムが故郷を離れて、私の示す地に出ていきない」というこのチャレンジは、私にって非常に躊躇させる思いや計算しようと考える頭が働いていしまいそうな感じがしました。このみ言葉は、大学を出てから社会人になるときに与えられた御言葉です。自分の墨は慣れた環境から離れて、東京、神学校、そして韓国での奉仕をしてきました。もう一度、この御言葉が与えられることは大きなチャレンジです。でも、「ねたまれても」神様と共にいること、虚しいこの世の快楽を捨てて歩んで生きたいと思います。今まで、受けた私の痛みや傷も主イエスが受けた傷や痛みに比べると何になるのでしょうか?それを、主イエスの十字架で癒してくださったことを覚え、感謝して、主にあるONE STEP HEADを歩んでいきます。

金曜日, 6月 12, 2009

用いられるときも、危急のときも天使のような顔

使徒行伝6;1-15
今日の使徒行伝の主人公とテーマは誰で、何でしょうか?ステパノが主人公として登場します。それは、エルサレム教会でギリシャ語を使うやもめがなおざりにされていたために、使徒たちが7人の執事を選んで解決をした事件から登場します。そして、その執事であるステパノが伝道して襲われることが今日の聖書箇所です。今日の聖書箇所は、現代の教会にも多くのことを教えてくれます。それは、初代教会でさえも問題があったということです。問題の無い教会は存在しないとこと、そして問題に対してどのように対応するのかが大事であると言うことです。使徒たちはこの問題に対して非常に賢く対応しました。現状はこういうことです。
①まず、祈りとみ言葉の奉仕がなおざりにされることを恐れ、ますます専念するようにした。まずは優先順位をゆるがせなかった、ということです。牧会者の専念すべきことをずれませんでした。
②教会の中でチームワークを持って仕える人々を立てた
③人々を立てるときに、単に仕事の出来る人を立てたのでなく、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人を立てなさい」人を立てたのです。これでは、現代の教会の牧会者と変わることがありませんね。
④御霊とは神様からのギフトに満ち神様の関係がよく、知恵に満ちたは「ギリシャ語を使うユダヤ人はおそらく外国生まれか育ちの人であり、彼らと対応できる」人たちであり、配給のような現実的に難しい問題を解決できる知恵を持った人であり(優秀な方ですね)、評判の良いとは人間関係をはずしては考えることの出来ない素晴らしい人格者です、こういう信徒リーダーを建てました(まるで献身者でもおかしくありませんね)。
⑤こういう人が、さらに初代教会のリーダーになって行きました。リーダーとしての育成、訓練もなされた言ったわけです。
こう思うときに、私の知っている現代教会でも信徒リーダーから育てられていくようなシステムがあればと思わされました、非常に素晴らしい霊的な再生産でないでしょうか。また、何よりも使徒たち(現代的に言うと牧会者たち)が優先順位を間違えず、他の全ての人も全員一致でそのことを承認した、ということが素晴らしい教会のモデルを見せてくれています、どれほど、私たちは牧会者への配慮と「御言葉」と「祈り」に専念してもらっているでしょうか。そのために自分が出来ることは何でしょうか?牧会者へのパラダイムを聖書から持っているでしょうか?
さて、その中に出てくるステパノは執事でありつつも、「恵みと力に満ち、不思議なしるしと技を行い、御霊に満たされて、知恵を持って伝道」していきました。そのために、律法学者、長老、民衆たちに襲われて議会に連れて行かれることになりました。その時に彼の顔は「御使いのようだった」とあります。黙想しました、果たして、私の顔はいつも聖霊に満たされているのか?祝福されて、恵まれた時や、用いられているときならともかく、危機的状況でどんな顔をしているのか?緊張して怖い顔をしているのでないかと思いました。ステパノが執事として用いられるときだけ聖霊に満たされたのでなくて、議会で死の危険に出会うとき、人々の偽りの証言に貶められる時、怒りの表情でなくて「御使いのような凛とした顔」であった、神様のしもべであったことは、驚きに値します。それはステパノが普段から聖霊様に満たされていたことを意味します。今日、私の顔を心から出てくる聖霊様におゆだねします。顔は作るものでありません。自分のうちに満ちているもので出るものです。主にある笑顔を持って歩みます。

木曜日, 6月 11, 2009

福音のために価値ある人生を生きているのか?

使徒行伝5:29-42
聖書の福音は、逆説的な人生を語ります。価値観がひっくり返る人生を語ります。神様を知らないで生きてきた人生と違う本物の価値観を教えてくれます。神様を信じるとこんな人生があったのか?と思えます。今までどうやって生きてきたのか?と人生を考えさせられることがあります、今日の聖書は、まさにそのような体験をした弟子たちの生き生きした姿を見せてくれます。それは、キリストの福音のために辱めを受けるに値する者となった、という聖書のメッセージから感じます。私たちは、普通、「果たして恥ずかしい思いをする」ことを嬉しいとは思わないことでしょう。また、キリストの福音を伝えることを喜んでも、迫害されることや、友人に伝えて拒否されることや、人間関係が壊れることを恐れるでしょう。自分の立場が失われることを困るのです。弟子たちもそうでした。以前は、自分がイスラエルが再建されて、主イエスの右の座に着くことを夢見ていたことの人生の価値観の大逆転です。何故でしょうか?それは、主イエスの十字架と復活の事件の故です。今までの自分が主張し、目立ち、自分の思い通りの人生から、自分がUPしていく人生から、神様の愛が現され、神様の義が支配し、神様の願いである「罪人の悔い改めとすくい」がなされる人生へと移行して言ったのです。そのために、自分が用いられる人生であり、神様の国の支配の下に喜んで(この喜んでが大事です)生きる人生の目的と移ったのです。主イエスは、自らが辱めを受けられた方です。それは、神様の義によって裁かれるべき人へ(これは神様のまことの権威からです)、神様の愛によって一人子なる主イエスの十字架によって(権威を主張するだけでなくて、責任をとられたのです。しかも、責任をとらなくても絶対に良いはずなのに)私たちに救いを与えてくださいます。ですから、神様は、まことの権威だけでなくて、まことの愛も示された主イエスの全ての名に勝る名を与えられたのです。主イエスの福音のために辱めを受ける、義と愛を矛盾無く全うされた人生は、弟子たちの人生を変えました。果たした、私はそのような福音のために辱めを受けたことがあるのでしょうか?損をしたことがあるのでしょうか?福音のために価値観を変えて生きているのでしょうか?恥ずかしいと思われるほど、命をかけた人生には本当の魅力があります。福音のために私の人生の価値観を変えて喜んで歩みます。

水曜日, 6月 10, 2009

本当の信仰とは、当たり外れがない

使徒行伝5;12-18
以前に、聖書の学びをしていたときに「キリスト教の祈り」と「他の一般的な祈り」という概念にどのような違いがありますか?という質問をしました。すると、そのときに印象的な答えがありました。それは、「他の祈りはあたれば、かなえばラッキーもうけもの」という感じですが「キリスト教の祈りははずれがありません」という答えでした。本当です、今日の聖書箇所には、使徒たちを通しての癒しが例外なくなされたとあります。例外があったなら、本当の神様の力ではないでしょう。ごまかしやトリックかもしれません。または、悪霊の働きによる癒しかもしれません。例外はなかったのです、なんとすばらしい神様を私たちは信じているのでしょうか。しかし、私たちは現実的に振り返ってみてください。はたして、神様へ祈りや働きをするときに、そして何よりも伝道するときに本当に「いのちのみことば」であることを信じて、確信して、伝えているのでしょうか。どこかに、妥協や疑いがあるのでないでしょうか。本気にさせない何かを持っていないでしょうか。今日の聖書箇所には使徒たちによって「しるし」と「わざ」がなされたとあります。しるしとは、主イエスが私の救い主であることを示すサインです。「わざ」とは神様にしかできない働き、力です。それを使徒を通しして神様ははたかれ、他のクリスチャンは「心をひとつにして」いました。その結果は多くのノンクリスチャン(ユダヤ教の人々)人々の尊敬されて。多くのクリスチャンが増し加えられた事実です。そこで、再び大祭司と仲間たちは「ねたみに燃えてたちがあり」使徒たちを留置場に入れてしまいました。しかし、主の使いが救い出し、解放してくださったのです。そこで、使徒たちはどうしたのでしょうか。家に戻って少し休んだり、おとなしくしたのでしょうか。いえ、彼らは福音を伝え続けたのです。なぜなら、彼らにとって「いのちのみことば」を伝えずにいっらえない力があったのです。彼らを燃やしたのは真実で、事実なる主イエス・キリストの十字架と復活でした。それを伝えずにいられなかったのです。今日、考え見る恵みは
①1私を燃やしているのは、何でしょうか。神様への愛でしょうか?真実なる命のみ言葉を本気で伝えたいという信仰でしょうか?それとも、ねたみや嫉妬、世の中のエネルギーで動いているのでしょうか
2それらは、一時的なものであり、自分を最終的には枯らせ、だめにするものです
しかし、主イエスへの信仰が本気であるならば、それは永遠の祝福へと人生を持ってきます。当たり外れのない信仰を伝えます。神様への愛を持ってめる人生を歩みます。

火曜日, 6月 09, 2009

聖さと愛が献げものの意味である

使徒行伝4:36-5:11
今日のQT箇所には、献金をささげる2種類の人が出てきます。①バルナバと呼ばれるキプロス島生まれのレビ人であるヨハネ、②アナニャとサッピラという献金の額を嘘をついた夫婦です。今日の聖書を読むときに、それは厳しすぎるのでないかと思うような事件が起こります。献金の額を偽ってささげたために、神様によって裁きを受ける箇所なのです。しかし、よく考えてみてください。二人は献金の額をささげるのに、なぜ偽る必要があったのでしょうか?それはささげるのが惜しかったのです。それを神様は無理やりにささげよとは言われません。むしろ、自由に使いなさいといわれます。なぜなら、神様は貧乏なお方でないからです。献金とは何でしょうか?喜んでささげるものです。それは、神様の預けて下さった人生、時間を、お金を、支えてくださっていることを感謝するものです。アダムとイブは神様の預けられたエデンの園を歩くときに、治めるときに、管理する時に、自分のものでないことを覚えたでしょう。同時に、神様のすばらしさを賛美したでしょう。そして、そんな素晴らしいものを信頼して任せてくださる神様に感謝して、思い切って奉仕したことでしょう。献金は神様に預けられたものを感謝し、賛美し、使うときなのです。二人は、惜しみ、そして人々の前に賞賛を受けるために、献金を偽ってしました。神様は侮られる方ではありません。神様は清い方です。神様は神様の栄光やきよさを汚されることには、厳しさを持って対応されます。それは、神様の権威を見る瞬間です。まことに信頼できる権威を見せられる時です。あれでもない、これでもない、なあなあの神様ではないです。今日のQTをしながら、私が死んでないのは本当に神様の恵みだなと思います。現在の教会にそうされたらどうなることでしょう。今日の神様の恵みは、私に預けられたものを神様にどのようにお返しし、使えることができるのかと思いました。献金は喜びのはずです。自分の愛する人やことには惜しみなく私たちは使います。愛する神様にささげる人生、物、お金、時間を喜びたいと思います。

初代教会の力

使徒行伝4:23-35
聖霊が下された後に、教会が誕生しました。神様の共同体です。旧約聖書ではイスラエルの民が神様の民として共同体を持って神様に仕え、礼拝しました。信仰とは、一人でするものでなくて、共同体にあって歩むし、成長し、神様に礼拝し、仕えるものです。自分のアイデンティは共同体に属するときに分かるといいます。ですから、クリスチャンにとって教会は自分のアイデンティを示すものです。聖書に出てくる教会の中でも、初代教会は生き生きした姿を持っています。整理しますと、
①迫害とプレッシャーの中でもクリスチャンとして区別されて生きた。
②心と思いをひとつにする
③プレッシャーや危機にたいして祈って対抗する教会であった
(果たして、私はプレッシャーや危機に自分の口や行動で対抗していないでしょうか?神様の御心を求めているのでしょうか?)
④御言葉を語る、伝道する教会であった
⑤主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがある
⑥物を共有して乏しいものが一人もいない。自分の土地や家を売ってささげた教会
⑦使徒の足元に置いたとあります。それは、自分のものでなくて遣い方に口を挟む必要もなく、本当にささげるものであったことを意味します。
現代の教会においても、伝道しますし、恵みがあります。しかし、私を筆頭に「神様にささげる恵み」を知っているのでしょうか?本当にけちでないかと思います。ささげる喜びとほかの人々が祝福される共同体の恵み、愛を知っているのでしょうか?と思いました。まさに、信仰は共同体の中で試されますし、お金はその人の関心を示すのでないかと思いました。私にとって示されることがありました。お金や物が自分のものでなくて、神様に預けられたものとして、教会のために使っていきます。

どんな人々の前でも大胆に生きる秘訣

使徒行伝4:36-5:11
今日の聖書箇所は、①人々の顔色をいつも見ながら、行動する、恐れている人サドカイ人たち(宗教人たち)、②逆に大胆に「人に従うよりも神に従うべきです」と宣言する弟子たちが出てきます。その違いは何でしょうか?人々による人気よりも、大事なことは何でしょうか?それは、弟子たちが主イエスと共にいたということです。それは、反対する宗教者たちが「イエスの力あるわざ」をこれ以上はなされたら、エルサレムの人々が信じてしまう、それくらい説得力のあるものであることを認めていました。そこで、人間の力やプレッシャーを通して押せようとしたのです。しかし、弟子たちは彼らの宗教人たちのプレッシャーにもかかわらず、「神に従うべき」です、と告白できました。なぜでしょうか?まことに怖れるべきかとが自分の味方なら、いや自分が神様の側に立つなら「するべき行動と言葉」が出てくるのです。日ごとに私に来るプレッシャーや力や、そして過去の傷に、人の支配に、神様と共にいることによって癒され、神様の愛を受けて生きていきます。そこに、真の自由と勇気があることを喜びます。

土曜日, 6月 06, 2009

福音の力の前にひざまずく人は幸福だ!

使徒行伝4:1-12
私たちは自由に生きたいと思います。しかし、現実には人間関係に縛られたり、この世の波に合わせて生きることが多くあるかもしれません。私のために生きるという、自由を持っているつもりでも、実は別な不自由につきまとまとわれることがないでしょうか?本当に自由に生きるとは何でしょうか?それは、神様の子供として生きるアイデンティを持つときに得ることができます。また、主イエス・キリストの福音の前に自分が膝をかがめて降参するときに、本当の勝利があります。現実生活には難しい戦いがあります。しかし、私たちの霊的な生活には引き分けはありません。負けるか、勝利するかです。霊的生活に少し罪に妥協とか、少し神様にあって勝利とかはありません。神様につくのか?この世を支配するサタンの勢力につくのかどちらかです。どちらかにつかないといけません。神様につくのか?この世を支配するサタンにつくのか?です。今日の聖書箇所は、2つの反応があります。それは、①ペテロたちが福音を語ることに困り果てて、使徒たちを捕らえるサドカイ人と祭司たち、②福音を大胆に語るペテロたちです。最初の祭司たちはまさに宗教の専門家であるのに、主イエス・キリストがメシアとして来られたことを受け入れず、自分たちの宗教的な立場を守るだけに生きた人たちでした。目の前に主イエスの福音を一番に聞ける人が拒み、一番の迫害者となっていきました。果たして、自分たちの立場や素直になれないことが、どれほど恵みを拒み、捨てて、その迫害者となっていることでしょうか?私たちクリスチャンは気をつけていないとすぐに恵みの意識から離れた宗教者(それは神様の生きた交わりのない人)になってしまいます。逆に、ペテロはどうだったのでしょうか?彼は主イエスが十字架にかかる前に、「イエスを三度知らない」と言い、「イエスの死後は隠れて住んでいる人」でした。しかし、復活の主イエスにお会いし、聖霊様を受けた彼は非常に力強く主イエスをあかします。
①大胆に勇気を持って民の指導者、祭司の前に証をした。非常に男らしい、世界で最もかっこいい男になっています。復活のイエスに会う前のペテロには考えられない姿です。
②相手が偉い人であっても、聞きにくい話でも主イエスの十字架と復活である真実を語ります。
③人の顔色を恐れない、自分の立場や命を失うことを恐れない、それだけの価値ある福音を語ります。その理由である④十字架と復活を宣言します。
⑤旧約聖書のメシア予言を語っています。この奥義を知ったペテロはどれほどうれしかったことでしょうか。そのメッセージを語りたいという希望にあふれているのでしょうか。
⑥イエス・キリスト以外に救いがないことを伝えます。
果たして、私は神様の福音の前に膝をかがめて、このリバイバルの現場に使えたい人でしょうか?それとも、自分のプライドを持って自由になれずに恵みを拒み、迫害している人なのでしょうか?ペテロはイエス・キリスト以外に救いがないから、恐れることもなくすべてをかけて生きれたのです。そのような人生を歩んでいるのでしょうか?福音の現場に立ち人生を歩みます。自分のプライドを置いて、最高の価値である恵みにひれ伏します。

自分が砕かれた時に自由が待っている

使徒行伝3:17-26
主イエス・キリストは十字架にかかって、苦難のしもべとなってくださいました。しかし、それは苦難を受けるべき理由があって十字架にかかったのではありません。むしろ、十字架にかかる理由がまったく無いどころか、神様の栄光に住まわれるべきだったのです(こんなことを私人間が言うこともおこがましいですが)。なぜ、十字架にかかられたのでしょうか?愛の故です。私への永遠の愛の故です。そこには、自分が砕かれる魂である最高のモデルとして、主イエスがおられます。その動機は愛なのです。私たちは何と、神様の愛のメッセージに聞いてこなかったことでしょうか。イスラエルの民には、預言者がたびたび送られて、神様の悔い改めと愛のメッセージを語りました。しかし、それらの預言者の人々を殺してきたのです。そして、主イエスが最後に神様の子供として、神様の愛がわからない私たちのために送られたのです。私たちはこれを拒んでいいのでしょうか。今朝、私に与えられたメッセージは聞き従うことでした。霊的なリーダーである主イエスはもちろんですし、教会の霊的なリーダーもそうです。そして、また私の人間関係もそうです。最近、私の人間関係はどうかと思いました。何と砕かれていないのだろうか?平和な人間関係をもてていないのでないかと思いました。本当に親しい、小さい人間関係、ふとした出会いでの人間関係に砕かれているのか?と思いました。自ら悔い改めをしました。そこには、恥ずかしいけれど愛の回復と本当の自由がありました。悔い改めないときには平安も自由もありません。しかし、砕かれた最高のモデルである主イエスに祈るときに私は変えられます。自分から、まず砕かれた愛で進んでいきます。

愛している人は本当のことが言える

使徒行伝3:11-16
今日の聖書箇所は、あなたがたが「イエス・キリストを殺した」と言う箇所です。果たして、そのとおりですが、そのまま主イエスをあなたが十字架にかけたのだという強い真実なメッセージを伝えるにはどのような信仰が必要でしょうか?それは、私自身が主イエスを十字架につけた人であり、私が殺されても文句の言えない罪びとであることを確信していることです。そして、そこに本当の罪の悔い改めと十字架への賛美と感謝がある人です。また、私を救ってくださった主イエスの十回の愛に答え、神様を愛する人でないといえません。それを伝えたいという愛を持っていないといえません。誰もが、憎まれたくありません。逆恨みもされたくありません。しかし、相手のためのどうしても言ってあげないと、伝えないといけないことがあります。それは、主イエスの十字架の愛を伝えることです。神様を知らない的外れな人生、そこから戻って来てほしいという十字架の愛を拒んでいる、あなたに、十字架にかからないといけないほどに、私の罪は、あなたの罪は大きかった、という事実を、真実を伝えないといけません。私は相手への愛が本当にあるのでしょうか?そして、相手がイエスによる信仰が相手の人生を完全にsる祝福を得ることを願っているでしょうか?自分かわいさに、相手に恨まれることを恐れていないでしょうか?主イエスの十字架に日ごとに自分がかかっているのでしょうか?自分が生きていないでしょうか?主イエスの愛を命かけて伝えていきます。

水曜日, 6月 03, 2009

祈りの聖なる習慣を持つと言葉が変わってくる

使徒行伝3:1-10
使徒ペテロとヨハネは午後3時の時間に祈りの時間に宮に行きました。私たちの一日のスケジュールはどうなっているでしょうか?また、一日の習慣はどのようなものがあるのでしょうか?神様のために喜んでしていることや習慣がどれほどあるのでしょうか?ここ数週間、あっという前に時間が過ぎている気がします。目覚めて歩んでいないと、何と日常生活に流されることであるのか?と思わされました。ペテロとヨハネは神様のための霊的な習慣を持っていました。そんな祈りの習慣を持っている彼らに生まれつきの立てない人が「施し」を求めてきます。普通ならどのような反応をするのでしょうか。お金を施すのか?施せないことを悔やむのか、無関心なのか?いろいろあるでしょう。しかし、ペテロとヨハネの反応は違いました。それは、「金銀は私にないが、あるもんをあげよう。ナザレのイエス・キリストのみなによって歩きなさい」でした。神様にある祈りの習慣、祈っている人は神様との交わりがあります。神様の心を聞いています。そこで、本当に彼に必要なものを与えることができたのです。祈る人は、
①与えるイエス・キリストの愛の心を持っています
②イエス・キリストの名前に力があることを信じて、確信して、宣言することができます。
③霊的な神様の心を持って相手に接し、話すことができます。
私にとって、祈りの時間を回復するようにします。一日、一週間を神様の霊的な習慣を持っていきます。また、与える愛の心を持って歩みます。

聖霊様は教会を誕生させる

使徒行伝2:37-47
使徒行伝の教会を見ますと、本当に生き生きしている教会の姿、本来の教会はこのようなものだあるのだ!という感動が来ます。それは、聖霊様の自由に活動される教会の姿です。どのようなものか?
①福音のメッセージに素直に感動します。人の心を帰るのは人の力でなくて聖霊様の力、働きです。ここでは、「心を刺され」とあります。聖霊様は人の心の罪を示し、イエス・キリストの十字架に導かれます。②そして、信じる者にすぐに聖霊様を下さいます。お金が必要でも、信仰生活が長いことが必要でもなく、年功序列もでもありません。奉仕活動の義務や、善行が条件でもありません。神様は下さることが最高に好きで、最善のものを下します。
③ペテロは与えられた聖霊を自分のものとしませんでした。すべての信じる人に注がれることを惜しまずに、話しました。聖霊様に満たされた人は嫉妬しません。人の比較意識からは自由なのです。むしろ、愛を持って最高のものを進めたいと思います。教会は、兄弟姉妹の集まりはオープンな共同体となります。④すべての全世界への宣教へのビジョン(39節)を持ちます。全世界への救いを信じ、その約束を知ります、人間の力によって知るのでなくて、聖霊様はみ言葉を知らせ、解釈させ、御言葉によって神様の心、神様の視野、目を与えます。⑤救いを伝えることを願うのが聖霊様の思いです。⑥曲がった時代の中で、救われ、キリストの弟子として歩みます。ここには、A聖書の教えと霊的なリーダーの指導に従って生きることを幸福とします。B信仰生活は一人でするのでなくて、共なる共同体の中で歩みます。C心をひとつにして、礼拝をささげますD献身を自らする愛にあふれます。Eそこには、喜びと真心があふれますF賛美をします⑥そこには、さらに救われる人が起こされる再生産がなされます。何故なら生きている共同体だからです。このような初代教会のような教会が今も可能でしょうか。自分は長い間、聖書の教会の姿と自分の姿のギャップに失望していました。しかし、神様の熱情的な愛は、親がはたから見ると駄目な子供であろうが自分の子供は最高の人生を歩んでほしい、と思われるように、完全な者となること、最高の人生、教会になることを願っておられます。そのために助けとなる聖霊様が私の上に、教会の上に折られるのです。ですから、答えは可能だということです。私が信じるかどうかが大事なのです。今日IKEAというお店に行ってきました。SELF SERVICEのお店ですごくSIMPLEなのに非常に魅力があるように感じました。高級な物があるわけでなく、お手ごろ価格でいい物を買えるようになっています。店員が多くいるのでありません、普通なら不便に感じることを感じないようにしているお店の雰囲気、説明のしかた、文章にはセンスがあるように感じました。大きな資金をかけない様にしているように感じたりもしました。このような姿から何か教会が学べないか思いました。エルサレム初代教会には組織も、建物も資金もありませんでした。あったのは生き生きとした信仰と神様への愛、兄弟姉妹への愛でした。そこには、クリスチャンでない人にも魅力の感じるものがありました。私たちにできないのでしょうか!現代のエルサレム教会のような生き生きとした教会が、日本の全世界に立てられることを祈ります。私の言葉、行動、愛によってされる証が、他の人へ魅力的に映っているでしょうか?キリストへの愛がと真心を持つ教会へ、なっていきます。まずは、家庭が教会のように歩んでいきます

月曜日, 6月 01, 2009

聖霊様は世代を超えてイエスの十字架を超えて語る

使徒行伝2:22ー36
今日の聖書箇所は、ペテロがエルサレムにいた人々を前に「旧約聖書にしるされた神様の定められた計画と予知によって、あなたがたがイエスを十字架にかけた」ことを話します。また、もうひとつは「ダビデがメシアなるイエス・キリスト」を主人としていた信仰を解き明かします。それは、イエスが単に人間でなくて、人の子として十字架にかかるために来られたメシアなる神様の子であることを伝えるためなのです。しかし、何とすごいことでしょうか?ダビデは旧約聖書の時代の人です。どのようにして、イエスを知ったのでしょうか?それは人間でなくて、聖霊様の力です。そのダビデのメシアなるイエスであるという告白をペテロが解き明かせたのも、聖霊様です。聖霊様でなくては、神様の力でなくては、世代を時代を超えて、このようなイエス・キリストが主であること、そして十字架にかかられることを語ることはできません。そして、一番大事なのは他の誰でもない、私が主イエスを十字架にかけたことを認めることができるのは、聖霊様の力です。なぜなら、誰も主イエスは主であると聖霊の力によらなければ告白できないと聖書にあるからです。私は今日も、主イエスを十字架につけたのは私です、と告白し、その主イエスを告白できるでしょうか。ある学者は、この時にエルサレムにいて、聖霊様の事件を見た人は過ぎ越しの祭りである主イエスの十字架にかかられる時にいた人よりも、いなかった人も3分の一か、半分で無いかという人がいます。直接、十字架にかけた人々でなくて、私の罪のために全世界から来た人々(これから使徒行伝の世界宣教で主イエスを伝えにいく現場にいる人々)へ主イエスの十字架の意味を語ったのです。今朝、このように祈ります。どうか、主イエスの十字架の意味を語る働きをさせてください。そして、世界宣教する奉仕、その教会を建てさせたください。私を立ち上がられ下さい。主イエスの十字架は、世代と時代と国を超えて、語られていきます。その働きのひとつに、世界宣教する教会として、弱い私を強く、広く、大きく用いてください。

聖霊が下ると未来を語る

使徒行伝2;14-21
ペテロは聖霊が下ったために、外国の言葉で話すようになった弟子たちを見て、酔っているのでないか?というエルサレムの人々に弁明と説教を始めます。そして、ここにはエルサレムに過ぎ越しの祭りのために集まっていた人々が出てきます。彼らはディアスポラのユダヤ人たちでした。彼らは、外国に住むユダヤ人たちで、バビロン捕囚になってバビロンに連れて行かれたユダヤ人たちが、70年後もそのままイスラエルに帰還せずに、バビロンに住んでいった人々の子孫だったり、他にも、ユダヤの国がなくなったから全世界に散らばったユダヤ人の子孫たちで、外国語のネィティブでありながらも、なおかつユダヤ人としてのアインデティを失わずに生きている人々(ですからこそ、ローマやエジプトやトルコ、キプロスなどからわざわざ、5旬節の時期にエルサレムにやってきたのです)でした。そういう彼らが、聖霊の下った弟子たちが外国語で話し出した時に、嘘やいい加減な言葉でなくて、確かに外国語で話していることを確認できたのです。ちなみに、ここに出てくる外国語で話す言葉を確認した外国人やその外国の地名は、使徒行伝の宣教旅行に出てくる場所になってきます。さて、ペテロが聖霊を受けた弟子たちが酔っているのでなくて、旧約聖書のヨエルからこの聖霊降臨の事件の解釈をします。聖霊が下るとどのようなことが起こるのでしょうか?
①正しく、聖書を解釈するようになります。自分勝手な解釈でなくて、神様の声を聞いて神様の心を語るようになります。聖霊様の助けなしに自分の力では聖書を判ることができません。逆に、聖霊様の助けがあるならば、楽しく、豊かに聖書から神様の声が聞こえ、楽しい神様との交わりとなります。QTとなります。
②聖霊様は神様の御心に従うように助けてくれます、ペテロは数ヶ月前まで(わずか40日から50日前まで)イエスを否認し、イエス・キリストの十字架の後隠れていたような人でした。人間的な熱心の弱さを暴露したような状態でした。漁師に戻ろうとさえしていました。しかし、大胆に群衆の前で話しました
③聖霊様が下ると御言葉を語ります。しかも、大胆にです。
④聖霊様が下ると、未来を語ります。老人は夢を見、青年は幻をみます。そして、主イエスの再び来られる日とその前に艱難を語ります。
⑤主イエスの救いを語ります。未来における最高のメッセージです。人生の最高のGOALを目指すことを語ります。
私たちは、過去に縛られた人生をしているのでしょうか?それとも、主イエスを信じて聖霊様を受けての新しい夢を、ビジョンを語っているのでしょうか?聖霊様によって受けた変化があるのでしょうか?ペテロはわずか少し前には挫折の真っ只中にいました。しかし、聖霊様を受けた時に聖書のみ言葉を語り、聖霊降臨事件を人々の前で、その意味を語ったのです。未来を語るとは、何と期待の持てることでしょうか。素敵なことでしょうか。イエスにある未来を目指して生き、語っていきます。

なぜ、聖霊が下る必要があるのか?

使徒行伝2;1-13
私たちは、聖霊をいただくことをパワーのように考えたり、もしくは自分が奉仕をするのに必要な霊的エネルギーのように勘違いすることがないでしょうか。確かに、聖霊様の力は必要です。人間の力とは比べ物にならない、すごいものです。しかし、それだけと、単なるお仕事のような教会奉仕や、一番怖いことは神様のための奉仕でなくて、自分の仕事を活性化するパワーになります。なぜ、聖霊様が下されたのでしょうか。それは、私たちのために生きるためでなく、神様のために生きるためなのです。自分が死んで神様が生きるためなのです。使徒たちはイエスが生きて共におられるときには、自分が生きていました。誰が一番偉いのか?という議論をしていました。神様の国をイスラエルの再建のみに考えて、その再建の日には自分たちがどのような偉い位置にいるのか?どのような評価がされるのか気になっていました。そこには、神様との不和と同時に、人間関係、弟子同士の不和がありました。イエス・キリストが十字架にかかった時には逃げ出しました。ペテロはイエスのために死ぬといいながら、たった数人の平民によってイエスとともにいた、と言われただけでイエスを三度知らない、と言いました。惨めな人間的な熱心は敗れたのです。このような弟子たちが変えられたきっかけは何でしょうか?聖霊様が下さった事件です。それは、自分が死んで、キリストが自分のうちに生きることでした。罪の弱い自分が死んで、自分は弱くても万軍の主である強いイエスが生きることで勝利する人生に変えられたのです。
聖霊様は人格的な神様です。パワーやエネルギー体であはありません。人格の交わりをされる神様です。その時に、イエスに似せられた人格になるのです。イエスの心を持った人になるのです。聖霊様が下って、自分の願いどおりの人生でなくて(それは自由な人生に見えますが、錯覚なのです)、神様の願われる人生(神様が最高のあなたらしい人生を、愛に満ちた、他の人と調和の取れた、そして宇宙一の勇気にあふれた人生)を送ることができるのです。聖霊様が下ったときに、すべての民族の言葉で話しだしました。バベルの塔でバラバラになった言葉は(人間の欲望のためにばらばらにされた)、使徒行伝で、神様の愛を伝えるために、イエスの人格と心を持って生きたいと願う人々、弟子たちに下りました。私は、どのように言葉を使うのでしょうか?自分の栄光のためでしょうか?それとも神様のためでしょうか?愛と平和の言葉でしょうか?それとも、自分が成功するために人を蹴落とすのか?自分を高めるのでしょうか?聖霊様が心に住む人は、自分のために出なくて神様のために生き、神様の愛を伝えるために、他の人のためにその賜物を使います。その言葉を神様の栄光のために使います。人を建て上げる人になります。今日、私の言葉をイエスの愛を伝えるために使います。