坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 27, 2009

宣教する人は他の人を立てる

使徒行伝11:19-30
エルサレムに始まった迫害は、かえって福音を伝えるきっかけになりました。世界宣教への拡散をすることになりました。何故でしょう。普通迫害が起こったらかえって福音がとどまるのか?力が弱くなっていくのは普通でないでしょうか。そうならなかったのは、「主がとどまっていたからです」(21,23節)。また宣教するのに、非常に戦略的な方法があることにきがつきます。
①まず、外国に散らばっているユダヤ人にだけイエスの福音を語られたことです、これは否定的な意味もありますが、まず旧約聖書を持ってメシアを待っていたユダヤ人に語られたことが福音の効果的な伝導をもたらしたのは間違いありません。
②バルナバ、パウロも外国にあるユダヤ人の会堂を中心に伝道しました。その中にいた外国人、まずはギリシャ人へと伝道されていたったのです。それは、福音に近い人々や渇望を持つ人々へ伝導されて、さらに福音が外へ広がっていったのです。
③シリヤのアンテオケ教会へと福音が伝えられていきました。ここは世界宣教の最初の派遣教会となった教会で、文化的にも多様な場所にあり、そのような人々が集まっていました。
ふと、今日黙想させられたのは現代の世界宣教は完全に自分の文化や言語の違う宣教の働きもありますが、外国にある同じ文化圏の人へのディアスポラ伝道もあると思います。海外にいる韓国人移民伝道や海外の日系人伝道もそうです。今まで、それらの伝道に少し否定的な思いもありましたが、このように海外の同国民からの更なる伝道もあることを聖書からチャレンジを受ける気がしました。そして、この霊的に未熟なアンテオケ教会に派遣されたバルナバがパウロを探しに行って、ともに牧会した事実です。自分だけの牧会というより、他の人を立てても教会が成長することを願ってのです。はたして、現代の私は他の人を立てることを喜んでいるのでしょうか。教会のために与えることを喜んでいるのでしょうか。このような恵みを受けたアンテオケ教会は、エルサレム教会が飢饉のときに異邦人教会にクローズな姿勢であったにもかかわらずに、喜んで献金を持って愛し、仕えたのです。素晴らしい霊的な指導者の姿勢そのままを習って、与え、他の人を立てる働きをしたのです。私にとってチャレンジでした。キリストの弟子はまさにこのような姿でないか?と思いました。弟子訓練の働きをするものが与える人でなくて、立てる人でなくて、どうしてこのような教会や兄弟姉妹が生まれるでしょう。他の人の祝福のために立てる人となります、主よ、私のプライドを打ち砕いてください。主イエスの教会を立てさせてください。