用いられるときも、危急のときも天使のような顔
使徒行伝6;1-15
今日の使徒行伝の主人公とテーマは誰で、何でしょうか?ステパノが主人公として登場します。それは、エルサレム教会でギリシャ語を使うやもめがなおざりにされていたために、使徒たちが7人の執事を選んで解決をした事件から登場します。そして、その執事であるステパノが伝道して襲われることが今日の聖書箇所です。今日の聖書箇所は、現代の教会にも多くのことを教えてくれます。それは、初代教会でさえも問題があったということです。問題の無い教会は存在しないとこと、そして問題に対してどのように対応するのかが大事であると言うことです。使徒たちはこの問題に対して非常に賢く対応しました。現状はこういうことです。
①まず、祈りとみ言葉の奉仕がなおざりにされることを恐れ、ますます専念するようにした。まずは優先順位をゆるがせなかった、ということです。牧会者の専念すべきことをずれませんでした。
②教会の中でチームワークを持って仕える人々を立てた
③人々を立てるときに、単に仕事の出来る人を立てたのでなく、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人を立てなさい」人を立てたのです。これでは、現代の教会の牧会者と変わることがありませんね。
④御霊とは神様からのギフトに満ち神様の関係がよく、知恵に満ちたは「ギリシャ語を使うユダヤ人はおそらく外国生まれか育ちの人であり、彼らと対応できる」人たちであり、配給のような現実的に難しい問題を解決できる知恵を持った人であり(優秀な方ですね)、評判の良いとは人間関係をはずしては考えることの出来ない素晴らしい人格者です、こういう信徒リーダーを建てました(まるで献身者でもおかしくありませんね)。
⑤こういう人が、さらに初代教会のリーダーになって行きました。リーダーとしての育成、訓練もなされた言ったわけです。
こう思うときに、私の知っている現代教会でも信徒リーダーから育てられていくようなシステムがあればと思わされました、非常に素晴らしい霊的な再生産でないでしょうか。また、何よりも使徒たち(現代的に言うと牧会者たち)が優先順位を間違えず、他の全ての人も全員一致でそのことを承認した、ということが素晴らしい教会のモデルを見せてくれています、どれほど、私たちは牧会者への配慮と「御言葉」と「祈り」に専念してもらっているでしょうか。そのために自分が出来ることは何でしょうか?牧会者へのパラダイムを聖書から持っているでしょうか?
さて、その中に出てくるステパノは執事でありつつも、「恵みと力に満ち、不思議なしるしと技を行い、御霊に満たされて、知恵を持って伝道」していきました。そのために、律法学者、長老、民衆たちに襲われて議会に連れて行かれることになりました。その時に彼の顔は「御使いのようだった」とあります。黙想しました、果たして、私の顔はいつも聖霊に満たされているのか?祝福されて、恵まれた時や、用いられているときならともかく、危機的状況でどんな顔をしているのか?緊張して怖い顔をしているのでないかと思いました。ステパノが執事として用いられるときだけ聖霊に満たされたのでなくて、議会で死の危険に出会うとき、人々の偽りの証言に貶められる時、怒りの表情でなくて「御使いのような凛とした顔」であった、神様のしもべであったことは、驚きに値します。それはステパノが普段から聖霊様に満たされていたことを意味します。今日、私の顔を心から出てくる聖霊様におゆだねします。顔は作るものでありません。自分のうちに満ちているもので出るものです。主にある笑顔を持って歩みます。
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