坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 6月 17, 2009

聖霊の下る意味はイエスを主とする

使徒行伝8;14-25
サマリヤの人々が「神様のみ言葉」を受け入れたことを聞いたエルサレム教会の使徒たちは、さっそくペテロとヨハネを遣わします。ここで気になるのはユダの地方で神様のみ言葉を受け入れた人々もいただろうに、そちらに行くより、サマリヤに2人を遣わした事はどういう意味でしょうか。それはサマリヤがイスラエルの中では異邦人と混血した地方で、イスラエルの人々には外国として思われて、別の人々とされている地域でした。そこの人々に神様の福音を受け入れた時に、「未だに聖霊様が下っていない」ことがありました。そこで、使徒たちは聖霊が下るように祈ります。この聖書箇所は聖霊様が一度下るののみなのか?それとも、聖霊のバプテスマは二度あるのか?多くの神学的な論争を生み出す箇所です。それは、どちらの議論や体験を考えても、どちらも非常に納得の良い話で、ここでさておきQTです。
何故、神様のみ言葉を受け入れたのに、未だに聖霊様が下らずに、さらに聖霊様が下る必要があったのでしょうか?それは
①イエス・キリストの十字架によってCONTROLされる人生になるために
②自分中心の人生から、イエス・キリストを主人として生きる人生になるために
③神様と共に生きる人生のためにです。それこそ、人生の力なのです。しかし、エネルギー体のようなものが聖霊様ではありません。神様の夢を共に見、神様の働きを共にするようになるためには、一人ではなくて人格者なる、神様である聖霊様と歩む祝福があります。
しかし、そうでなくて、自分のために利用としようとした魔術者であるシモンのように聖霊様をエネルギーにしようとするなら大きな間違いと痛みの人生を歩むことになります。私の主人は聖霊様である喜びを味わっているのでしょうか?聖霊様に委ねる人生を歩みます。