坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 27, 2009

祈りによって奇跡を体験する人生を生きているのか?

使徒行伝12;1-12
今日のQT箇所には、二つのタイプの人が出てきます。一つのタイプはヘロデのように「人の顔を見ながら進む人生」ともうひとつのタイプは使徒ペテロや彼のために祈った初代教会のように「神様を見ながら奇跡を体験する人生」それは「祈って神様からの奇跡を体験しながら、そして天使に守られることをも体験する人生」です。私たちはどちらの人生を生きているでしょうか。それとも、どちらつかずの人生でしょうか。どちらつかずの人生はないのです。神様にある奇跡を体験するのかどうかです。初代教会に迫害が迫りました。ヘロデが自分の宗教やローマ帝国の主張でなくて(彼はヨルダンにある王朝の出身です)、ユダヤ人の民衆のごきげんとりのために、使徒であるヤコブを殺しました。そして、さらに自分の政治に有利になるようにペテロをも捕らえて殺そうとしました。初代教会はこの危機に「祈りを持って進みました」それは、何かこの世的な対策をたてることもできない状況であり、頼ろうともしなかったのです。果たして、私はそのような必死の祈りを体験したことがあるでしょうか。自分のために、またとりなしで必死の祈りを体験したことがあるでしょうか。思い起こすとオンヌリ教会で奉仕した時に、サラン教会の特別早朝祈祷会で体験した気がします。主なる神様は私たちの祈りをそこまで待っておられます、そして、天使に助け出させるという奇跡を起こされたのです。私の人生に、奇跡を起こされるような、まるで幻を見ているというほどの祈りをしているのでしょうか?今の私にまさに必要な祈りです。人の顔を見るのでなくて、主の幻を体験する「必死の祈り」をささげていきます。