坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 6月 14, 2009

神様の臨在は自分の偶像を壊す!

使徒行伝7:37-45
ステパノの説教は続きます。モーセが荒野の集会で「生ける神様のみ言葉」を受ける話が出てきます。エジプトを出たイスラエルの民は幕屋を建てます。それは、主なる神様の臨在です。主なる神様が人間である私たち共に生きられる、という祝福なのです。モーセは荒野の集会(現代的に言うと礼拝)の中で「生ける神様の御言葉」をビジョンを受けたのです。ところが、そんな祝福にもかかわらず、イスラエルの民はエジプトの生活を振り返ることをしました。それは、罪の生活を懐かしむことでした。以前の慣れ親しんだ罪の生活を振り返る時でした。罪に慣れしたしむことは、まるで甘い、そして罪の結果をもたらさない、ような錯角をもたらします。そして、現在の神様に従う道が苦しいような感じを受けさせます。それは、サタンの策略なのです。私にとってエジプトの生活を振り返るとは何でしょうか。
①偽りの自由、それは罪を犯す自由という勘違いします。罪を犯す自分の弱さを神様の強さに連結することがありません。そして、慣れ親しんだ罪の生活から離れることを恐れさせるのです。罪の生活から離れることは痛みがあります。それは、実は回復への痛みなのです。
②果たして、キリストを信じたにもかかわらず罪の習慣を捨てれない、悪いものを処分していないことは無いでしょうか。
③古い自分や、心の傷など人間関係など今も縛られていないでしょうか?神様は自由になることを願い、自由に既に十字架によってしてくださったのです。それは、自分は自由になれないと思っていないでしょうか。繰り返される罪に挫折して無いでしょうか。それを偶像のようにして自分はできないと思っていないでしょうか?既に十字架において神様はゆるしと自由を宣言されたのです。
④イスラエルは、自分の言うことを聞いてもらう都合の良い神様である牛を作ったのです。
⑤私たちは、今は苦しくても神様の計画を信じて、過去の自分を振り返らず、自分のための偶像(過去の傷、習慣、人間関係、自分を縛っているもの、罪や捨てていない習慣)を捨てて、神様と共にいる臨在の中に住む祝福を得ることを願っておられるのです。それは、信仰を持って宣言するだけで、神様は下さるのを待っておられるのです。今日、神様にある自分は出来ないという偶像を捨てて、神様の礼拝の中で生ける神様のビジョンを持っていきます。