心の砕かれた人はゆるす
使徒行伝7:46-60
ステパノの殉教の聖書箇所を今朝、早朝祈祷会の後に読みました。その時に、自分でも分からない、言葉にすることのできない感情と涙が溢れ流れてきました。自分の献身と何と違うことなのであろうか?そして、殉教していくステパノが最期まで聖霊に満たされて地上にいながらも、主イエスの顔を見たことを衝撃を受けました。それも、自分を殺す人々の煮えたぎる怒りに出会いながらもです。しかも、イエスの前にひざをかがめ、主なる神様を呼び、死んでいく姿はまるでイエス様と同じです。聖書を読みながら「父なる神よ」と叫び祈りました。今日出てくる人々とステパノはどうしてこうも違うのでしょうか。人々はステパノを裁くために、うそを持って集まりました。それをステパノに指摘された時「耳をふさぎ、大声を上げた」のです。宗教人は自分の立場や社会的地位や、そして自分の罪を指摘された時に自分を守り、耳をふさぎます。はたして、私はそのような命の無い宗教人に陥っていないのか?思わされました。逆に、ステパノは厳しいことを言っていますが、最後まで「彼らのためにゆるし」と祈りをします。神様との関係を持っています。命を懸けて愛するからこそ、ゆるすからこそ、ステパノは厳しいことを言えたのです。相手を愛しているからこそ、命を懸けるからこそ、宗教人にならずに、神様の愛を持って純粋に、大胆に、勇気を持って行動することが出来るのです。人でなくて、神様を見るからこそ、人を見ることが出来るのです。純粋な、そして勇気を持って歩んで生きます。
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