坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 06, 2009

福音の力の前にひざまずく人は幸福だ!

使徒行伝4:1-12
私たちは自由に生きたいと思います。しかし、現実には人間関係に縛られたり、この世の波に合わせて生きることが多くあるかもしれません。私のために生きるという、自由を持っているつもりでも、実は別な不自由につきまとまとわれることがないでしょうか?本当に自由に生きるとは何でしょうか?それは、神様の子供として生きるアイデンティを持つときに得ることができます。また、主イエス・キリストの福音の前に自分が膝をかがめて降参するときに、本当の勝利があります。現実生活には難しい戦いがあります。しかし、私たちの霊的な生活には引き分けはありません。負けるか、勝利するかです。霊的生活に少し罪に妥協とか、少し神様にあって勝利とかはありません。神様につくのか?この世を支配するサタンの勢力につくのかどちらかです。どちらかにつかないといけません。神様につくのか?この世を支配するサタンにつくのか?です。今日の聖書箇所は、2つの反応があります。それは、①ペテロたちが福音を語ることに困り果てて、使徒たちを捕らえるサドカイ人と祭司たち、②福音を大胆に語るペテロたちです。最初の祭司たちはまさに宗教の専門家であるのに、主イエス・キリストがメシアとして来られたことを受け入れず、自分たちの宗教的な立場を守るだけに生きた人たちでした。目の前に主イエスの福音を一番に聞ける人が拒み、一番の迫害者となっていきました。果たして、自分たちの立場や素直になれないことが、どれほど恵みを拒み、捨てて、その迫害者となっていることでしょうか?私たちクリスチャンは気をつけていないとすぐに恵みの意識から離れた宗教者(それは神様の生きた交わりのない人)になってしまいます。逆に、ペテロはどうだったのでしょうか?彼は主イエスが十字架にかかる前に、「イエスを三度知らない」と言い、「イエスの死後は隠れて住んでいる人」でした。しかし、復活の主イエスにお会いし、聖霊様を受けた彼は非常に力強く主イエスをあかします。
①大胆に勇気を持って民の指導者、祭司の前に証をした。非常に男らしい、世界で最もかっこいい男になっています。復活のイエスに会う前のペテロには考えられない姿です。
②相手が偉い人であっても、聞きにくい話でも主イエスの十字架と復活である真実を語ります。
③人の顔色を恐れない、自分の立場や命を失うことを恐れない、それだけの価値ある福音を語ります。その理由である④十字架と復活を宣言します。
⑤旧約聖書のメシア予言を語っています。この奥義を知ったペテロはどれほどうれしかったことでしょうか。そのメッセージを語りたいという希望にあふれているのでしょうか。
⑥イエス・キリスト以外に救いがないことを伝えます。
果たして、私は神様の福音の前に膝をかがめて、このリバイバルの現場に使えたい人でしょうか?それとも、自分のプライドを持って自由になれずに恵みを拒み、迫害している人なのでしょうか?ペテロはイエス・キリスト以外に救いがないから、恐れることもなくすべてをかけて生きれたのです。そのような人生を歩んでいるのでしょうか?福音の現場に立ち人生を歩みます。自分のプライドを置いて、最高の価値である恵みにひれ伏します。