神様が共にいるONE STEP HEAD
使徒行伝7;1-16
ステパノは、議会に呼び出されて「偽証」をその通りかと尋ねられた時に「族長であるアブラハムとイサク、ヨセフ」の話を始めます。彼らの共通点は何でしょうか?それは、地上で苦難の人生を歩んだけれども、「神様が共にいる」人生を喜んで歩んだということです。その結果、イスラエルの民がいて自分たちがいることを話します。イスラエルの民のアイデンティそれは何でしょうか。肉体的な血統的なアイデンティをよりも、神様の約束を信じる信仰のアイデンティであるということです。アブラハムは何も現実的に、目に見える形で与えられない時に、メソポタニアの経済的、文化的に豊か生活を楽しむところから、荒野へと導かれました。そして、何よりも彼は従ったのです。また、子供がいないときにあなたの子孫を通して世界の民を祝福しようと言われました。また、ヨセフは「ねたみ」のために「兄弟に売られたのです」しかし、神様が彼と共におられ、救い出され恵みと知恵を持ってエジプトを救い、世界のほかの民を助け、兄弟たちとも再び出会うことになりました。主イエスはどうでしょうか?ご自分の国に来られたのに、私たちは十字架に付けてしまったのです。全ては神様の計画は、今は大変で、苦難があっても、約束は必ず素晴らしいものである、という信仰によるものです。それをもってアブラハムはヨセフは、出て行ったのです。そして、主イエスは裏切られ、裁かれ、十字架に付けられたのです。今朝、「アブラハムが故郷を離れて、私の示す地に出ていきない」というこのチャレンジは、私にって非常に躊躇させる思いや計算しようと考える頭が働いていしまいそうな感じがしました。このみ言葉は、大学を出てから社会人になるときに与えられた御言葉です。自分の墨は慣れた環境から離れて、東京、神学校、そして韓国での奉仕をしてきました。もう一度、この御言葉が与えられることは大きなチャレンジです。でも、「ねたまれても」神様と共にいること、虚しいこの世の快楽を捨てて歩んで生きたいと思います。今まで、受けた私の痛みや傷も主イエスが受けた傷や痛みに比べると何になるのでしょうか?それを、主イエスの十字架で癒してくださったことを覚え、感謝して、主にあるONE STEP HEADを歩んでいきます。
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