坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 6月 01, 2009

なぜ、聖霊が下る必要があるのか?

使徒行伝2;1-13
私たちは、聖霊をいただくことをパワーのように考えたり、もしくは自分が奉仕をするのに必要な霊的エネルギーのように勘違いすることがないでしょうか。確かに、聖霊様の力は必要です。人間の力とは比べ物にならない、すごいものです。しかし、それだけと、単なるお仕事のような教会奉仕や、一番怖いことは神様のための奉仕でなくて、自分の仕事を活性化するパワーになります。なぜ、聖霊様が下されたのでしょうか。それは、私たちのために生きるためでなく、神様のために生きるためなのです。自分が死んで神様が生きるためなのです。使徒たちはイエスが生きて共におられるときには、自分が生きていました。誰が一番偉いのか?という議論をしていました。神様の国をイスラエルの再建のみに考えて、その再建の日には自分たちがどのような偉い位置にいるのか?どのような評価がされるのか気になっていました。そこには、神様との不和と同時に、人間関係、弟子同士の不和がありました。イエス・キリストが十字架にかかった時には逃げ出しました。ペテロはイエスのために死ぬといいながら、たった数人の平民によってイエスとともにいた、と言われただけでイエスを三度知らない、と言いました。惨めな人間的な熱心は敗れたのです。このような弟子たちが変えられたきっかけは何でしょうか?聖霊様が下さった事件です。それは、自分が死んで、キリストが自分のうちに生きることでした。罪の弱い自分が死んで、自分は弱くても万軍の主である強いイエスが生きることで勝利する人生に変えられたのです。
聖霊様は人格的な神様です。パワーやエネルギー体であはありません。人格の交わりをされる神様です。その時に、イエスに似せられた人格になるのです。イエスの心を持った人になるのです。聖霊様が下って、自分の願いどおりの人生でなくて(それは自由な人生に見えますが、錯覚なのです)、神様の願われる人生(神様が最高のあなたらしい人生を、愛に満ちた、他の人と調和の取れた、そして宇宙一の勇気にあふれた人生)を送ることができるのです。聖霊様が下ったときに、すべての民族の言葉で話しだしました。バベルの塔でバラバラになった言葉は(人間の欲望のためにばらばらにされた)、使徒行伝で、神様の愛を伝えるために、イエスの人格と心を持って生きたいと願う人々、弟子たちに下りました。私は、どのように言葉を使うのでしょうか?自分の栄光のためでしょうか?それとも神様のためでしょうか?愛と平和の言葉でしょうか?それとも、自分が成功するために人を蹴落とすのか?自分を高めるのでしょうか?聖霊様が心に住む人は、自分のために出なくて神様のために生き、神様の愛を伝えるために、他の人のためにその賜物を使います。その言葉を神様の栄光のために使います。人を建て上げる人になります。今日、私の言葉をイエスの愛を伝えるために使います。