自分が砕かれた時に自由が待っている
使徒行伝3:17-26
主イエス・キリストは十字架にかかって、苦難のしもべとなってくださいました。しかし、それは苦難を受けるべき理由があって十字架にかかったのではありません。むしろ、十字架にかかる理由がまったく無いどころか、神様の栄光に住まわれるべきだったのです(こんなことを私人間が言うこともおこがましいですが)。なぜ、十字架にかかられたのでしょうか?愛の故です。私への永遠の愛の故です。そこには、自分が砕かれる魂である最高のモデルとして、主イエスがおられます。その動機は愛なのです。私たちは何と、神様の愛のメッセージに聞いてこなかったことでしょうか。イスラエルの民には、預言者がたびたび送られて、神様の悔い改めと愛のメッセージを語りました。しかし、それらの預言者の人々を殺してきたのです。そして、主イエスが最後に神様の子供として、神様の愛がわからない私たちのために送られたのです。私たちはこれを拒んでいいのでしょうか。今朝、私に与えられたメッセージは聞き従うことでした。霊的なリーダーである主イエスはもちろんですし、教会の霊的なリーダーもそうです。そして、また私の人間関係もそうです。最近、私の人間関係はどうかと思いました。何と砕かれていないのだろうか?平和な人間関係をもてていないのでないかと思いました。本当に親しい、小さい人間関係、ふとした出会いでの人間関係に砕かれているのか?と思いました。自ら悔い改めをしました。そこには、恥ずかしいけれど愛の回復と本当の自由がありました。悔い改めないときには平安も自由もありません。しかし、砕かれた最高のモデルである主イエスに祈るときに私は変えられます。自分から、まず砕かれた愛で進んでいきます。
主イエス・キリストは十字架にかかって、苦難のしもべとなってくださいました。しかし、それは苦難を受けるべき理由があって十字架にかかったのではありません。むしろ、十字架にかかる理由がまったく無いどころか、神様の栄光に住まわれるべきだったのです(こんなことを私人間が言うこともおこがましいですが)。なぜ、十字架にかかられたのでしょうか?愛の故です。私への永遠の愛の故です。そこには、自分が砕かれる魂である最高のモデルとして、主イエスがおられます。その動機は愛なのです。私たちは何と、神様の愛のメッセージに聞いてこなかったことでしょうか。イスラエルの民には、預言者がたびたび送られて、神様の悔い改めと愛のメッセージを語りました。しかし、それらの預言者の人々を殺してきたのです。そして、主イエスが最後に神様の子供として、神様の愛がわからない私たちのために送られたのです。私たちはこれを拒んでいいのでしょうか。今朝、私に与えられたメッセージは聞き従うことでした。霊的なリーダーである主イエスはもちろんですし、教会の霊的なリーダーもそうです。そして、また私の人間関係もそうです。最近、私の人間関係はどうかと思いました。何と砕かれていないのだろうか?平和な人間関係をもてていないのでないかと思いました。本当に親しい、小さい人間関係、ふとした出会いでの人間関係に砕かれているのか?と思いました。自ら悔い改めをしました。そこには、恥ずかしいけれど愛の回復と本当の自由がありました。悔い改めないときには平安も自由もありません。しかし、砕かれた最高のモデルである主イエスに祈るときに私は変えられます。自分から、まず砕かれた愛で進んでいきます。
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