VISIONは、両方の人に与えられる
使徒行伝10;1ー16
今日出てくるコルネリオはローマの百人隊長でした。そして、彼の特徴は
神様に届く、覚えられる祈りをしている人であったのです(イスラエル人には考えられないことだったでしょう)そのような彼の人格と信仰は、①イスラエルの人口で作られた港町でローマの百人隊長をしている異邦人ながら
②敬虔な人であった(軍人でありながらも、このような生活と人格を保つのは難しいでしょう)
③神様を恐れ、かしこみ(しかも家族すべてがです。信仰の教育をした家長であることがわかります、意外と難しいことです)
④多くの施しをしていた(献身と神様への愛からの人々の愛を意味します)。彼が金持ちだからしているのでなくて、お金があってもしない人は多くいると思います。
⑤いつも祈っている人であったとあります。
コルネリオの信仰は、祈りは、神様に覚えられて、異邦人宣教の窓を最初に開く祝福の通り管となります。私たちはこのような人生と信仰を生きているのでしょうか?私たちの祈りと人生は、多くの人々へ新しい福音の窓を開くことになるのです。そのような期待と霊的な責任感を持って生きているでしょうか。また、もう一つ覚えることがあります。彼は神様のVISIONを分かち合う「敬虔な部下」を持っていたのです。そして、神様からいただいた祈りからの答えを全て話して、任せていくような信頼できる関係を持っていたのです。コルネリオのような霊的なリーダーシップを私は持っているのでしょうか?主イエスにある霊的なドリームチームを教会で持っているでしょうか?神様の祝福はこのようなところに注がれ、用いられます。そして、逆にイスラエルの国内巡回伝道、牧会をしていたペテロに神様の幻が見せられます。神様の幻は自分だけに見せられるものでなくて、相手にも見せられていくものです。神様が自分にも相手にも確信を与えてかみさまのみわざが進んで行きます。しかし、今日のペテロの反応は「律法で汚れたものとして、禁じられたものを神様から食べるように」と言われて拒絶したペテロたちユダヤ人たちには、本当に異邦人を受け入れるのに壁があったことを思わされます。聖霊様が下ってピリポがサマリヤ伝道をしながらも、未だに異邦人伝道、世界宣教までは完全に道が開いていなかったことを覚えます。それは、私たちの先入観、偏見、時にそれが信仰的であると言う誤解やその壁が福音をとどめることになります。特に、信仰的であると思っている時に単に宗教的な命の無い、神様との命が流れていない働きになり、福音をとどめ、多くの人を傷つけます。私の信仰生活ははたして、命のない信仰生活になっていないでしょうか。神様はそのようなユダヤ人たちにあえてはっきり示すためにあえてエルサレム教会のペテロを選ばれたと思います。異邦人を愛された神様は、異邦人を受け入れないユダヤ人に分かるように配慮されました。神様の愛の前に開かれた人生と姿勢と教会を建てあげていきます。
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