信仰生活は漠然としたものでない!(ヨシュア15;20-63)
15:1 ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南のほうのツィンの荒野であった。
15:33 低地では、エシュタオル、ツォルア、アシュナ、
15:2 その南の境界線は、塩の海の端、南に面する入江から、
15:47 アシュドデと、それに属する村落、すなわち、村々。ガザと、それに属する村落、すなわち、村々。エジプト川と大海までとその沿岸。
15:48 山地では、シャミル、ヤティル、ソコ、
15:61 荒野では、ベテ・ハアラバ、ミディン、セカカ、
15:63 ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである
今日のQTは、ユダ部族の相続地のリストでした、一番難しい、面倒くさい、と思えるかもしれないQT,聖書箇所ですが、もしも、自分が与えられる土地だったり、家だったり、親戚の、友人の土地だったり、したらどうでしょう。その気持ちを持って読んでみました。ただ、流さないように、①日本語の地名のほかに英語で地名を書き写しながら、②南と西のFOOTHILLSと、沿岸まで、簡単に地図を書きながら、③村と町の数をCHECKしながら、④自分の知っている地名を逃さないように、QTしました。そこで、感じたのは、信仰生活は漠然としたものでなくて、また概念や思想的なものでなくて、現実的なものである、ということでした。自分が相続地を受け取る、なら必死になって求めて、生きておられる神様を現実に、肌で感じたのでないでしょうか?今日、主の前に具体的に私の相続地を求めていきます。主のリバイバル、教会の祝福を求めます。また、ユダ部族は、エブス人を追い払えなかった、とあります。それは、リビングライフにあるように巨人であったアナク人を追い張らいながらも、エブス人を追い出せない?(もしくは、追い出さなかった?)おかしな問題がありました。ユダ部族は、ほかの部族よりも熱心に征服をして約束の地を得ました。しかし、わずかな、小さい部族を追い出さなかったことが、あとでつまずきになります、しかも、これはエルサレム、将来に、主を礼拝する首都になる場所でした。わずかな、これくらいが後々につまずきになります、今日、つまずきの原因を、少しくらいの不従順はいいさ、をやめます。100%従順、純粋を目指しまます。
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