神様に出会わないと的外れの人生を生きる
使徒行伝9:1-9
神様に会わない人生は、的外れの人生を生きる人生となります。サウロは「イエス・キリストの弟子」たちをシリヤのダマスコ(現在の首都)からイスラエルのエルサレム(当時の首都)までつれてくる殺害の意に燃やされていました。それほどまでに、イエス・キリストの福音は迫害を通してますます広がっていたのです。それは、サウロの「神様に対する熱心」でした。全く間違った熱心だったのですが、彼にとって非常に熱い熱心でした。神様を信じながら、そのような方向に行き、人を殺そうとしても、それが自分が神様に熱心であると思うほどに錯覚していたのです。罪とは神様と関係が切れていることです。罪とはギリシャ語で「ハマルティア」という正しい方向へ行かないこと、的外れを意味します。サウロの人生は、ハマルティア、的外れな人生を生きていたのです。サウロはダマスコに行く道で、「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか?」と言われたときに「主よ、あなたはどなたですか?」と答えました。それは、神様への熱心を持ちながらも「神様を知らない」サウロの人生と生き方でした。自分のするべきことを分からないでいる人生でした。自分の人生の価値、目標、GOALの分からない人生を歩むから、今すべきことを的外れに生きてしまうのです。律法においてはガマリエルに学び、生まれながらのローマ市民が、このような人生を歩んでしまうのです。しかし、そのような迫害をしたステパノを殺したサウロを愛された神様は、出会いと回復のときを持ってくださったのです。そのような深い愛を私も受けたのです。主イエスのみなを賛美します。主イエスに出会った人生は、勝利へのGOALが決まっている人生です。ですから、GOALから逆に今私が何をすべきか黙想し、準備することが出来ます。サウロは宣教師として呼ばれました。私も神様の召しに答え、準備する人生を歩みます。
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