坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 6月 11, 2009

福音のために価値ある人生を生きているのか?

使徒行伝5:29-42
聖書の福音は、逆説的な人生を語ります。価値観がひっくり返る人生を語ります。神様を知らないで生きてきた人生と違う本物の価値観を教えてくれます。神様を信じるとこんな人生があったのか?と思えます。今までどうやって生きてきたのか?と人生を考えさせられることがあります、今日の聖書は、まさにそのような体験をした弟子たちの生き生きした姿を見せてくれます。それは、キリストの福音のために辱めを受けるに値する者となった、という聖書のメッセージから感じます。私たちは、普通、「果たして恥ずかしい思いをする」ことを嬉しいとは思わないことでしょう。また、キリストの福音を伝えることを喜んでも、迫害されることや、友人に伝えて拒否されることや、人間関係が壊れることを恐れるでしょう。自分の立場が失われることを困るのです。弟子たちもそうでした。以前は、自分がイスラエルが再建されて、主イエスの右の座に着くことを夢見ていたことの人生の価値観の大逆転です。何故でしょうか?それは、主イエスの十字架と復活の事件の故です。今までの自分が主張し、目立ち、自分の思い通りの人生から、自分がUPしていく人生から、神様の愛が現され、神様の義が支配し、神様の願いである「罪人の悔い改めとすくい」がなされる人生へと移行して言ったのです。そのために、自分が用いられる人生であり、神様の国の支配の下に喜んで(この喜んでが大事です)生きる人生の目的と移ったのです。主イエスは、自らが辱めを受けられた方です。それは、神様の義によって裁かれるべき人へ(これは神様のまことの権威からです)、神様の愛によって一人子なる主イエスの十字架によって(権威を主張するだけでなくて、責任をとられたのです。しかも、責任をとらなくても絶対に良いはずなのに)私たちに救いを与えてくださいます。ですから、神様は、まことの権威だけでなくて、まことの愛も示された主イエスの全ての名に勝る名を与えられたのです。主イエスの福音のために辱めを受ける、義と愛を矛盾無く全うされた人生は、弟子たちの人生を変えました。果たした、私はそのような福音のために辱めを受けたことがあるのでしょうか?損をしたことがあるのでしょうか?福音のために価値観を変えて生きているのでしょうか?恥ずかしいと思われるほど、命をかけた人生には本当の魅力があります。福音のために私の人生の価値観を変えて喜んで歩みます。