私の超えるべき障壁は何か?
使徒行伝10:17-33
今日のQT箇所は、使徒ペテロが聖霊様が下った後も「異邦人伝道への幻」を見た後も、意味を図りかねている箇所です。そこへ、コルネリオが送った人たちがヨッパへ訪ねてくる内容です。果たして、ペテロほどの人が、ユダヤ人として会堂教育を徹底して受けて、主イエスの弟子として命をかけたほどの人が、異邦人伝道のために見せられた幻を見ても、「聖なるものと俗なるもの」を自分の今までの教育や信仰や経験からしか判断することが出来ませんでした。また、ユダヤ人が異邦人に招かれていくことについても難しく思いました。今日、私に与えら得た恵みはコルネリオの祈りです。それは、神様の前に覚えられる祈りでした。異邦人への伝道が、全世界への伝道が道を開くようになったのは彼の信仰であり、恵みを受けるにふさわしくないものがひれ伏す謙遜です。私にはそのような信仰が、祈りがあるでしょうか?それを経験したでしょうか?異邦人への壁を破り、律法を完成させる主イエス・キリストの福音を、不可能を可能にする十字架を日ごとに経験しているでしょうか。逆に、ペテロも同じように今までの経験や信仰生活を乗り越える経験をしているでしょうか。私が超えるべき障壁は何でしょうか。福音を伝えるのに自由になっていないことは何でしょうか。それを超えるときに新しい神様の奥義が開かれることを信じます。最近、読んでいる信仰書に「パピルスのかご」という本があります。韓国の韓東(ハンドン)大学と言うキリスト教主義の大学を建てていく際の大きな障壁に当たっていた時の証です。当時、私のいたオンヌリ教会が大きく関わっている(霊的:経済的にも)大学です。何故、私が今のコノ時期にこの本を読まされているのか?考えさせられました。北米日本人宣教というビジョンを持ちながら、VISAや目の前に見える状況は、また経済的なことは「時々、私の心をくじけさせようとします」しかし、神様が越えるべき壁を献身をさらに示すことを教えてくださいました。神様が私の口の告白だけ出なくて、生活の中で無から有を創造される神様として賛美できるように、栄光を言いふらすことが出来るように、全能の神様を宣言しながら進んで行きます。
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