坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 6月 03, 2009

聖霊様は教会を誕生させる

使徒行伝2:37-47
使徒行伝の教会を見ますと、本当に生き生きしている教会の姿、本来の教会はこのようなものだあるのだ!という感動が来ます。それは、聖霊様の自由に活動される教会の姿です。どのようなものか?
①福音のメッセージに素直に感動します。人の心を帰るのは人の力でなくて聖霊様の力、働きです。ここでは、「心を刺され」とあります。聖霊様は人の心の罪を示し、イエス・キリストの十字架に導かれます。②そして、信じる者にすぐに聖霊様を下さいます。お金が必要でも、信仰生活が長いことが必要でもなく、年功序列もでもありません。奉仕活動の義務や、善行が条件でもありません。神様は下さることが最高に好きで、最善のものを下します。
③ペテロは与えられた聖霊を自分のものとしませんでした。すべての信じる人に注がれることを惜しまずに、話しました。聖霊様に満たされた人は嫉妬しません。人の比較意識からは自由なのです。むしろ、愛を持って最高のものを進めたいと思います。教会は、兄弟姉妹の集まりはオープンな共同体となります。④すべての全世界への宣教へのビジョン(39節)を持ちます。全世界への救いを信じ、その約束を知ります、人間の力によって知るのでなくて、聖霊様はみ言葉を知らせ、解釈させ、御言葉によって神様の心、神様の視野、目を与えます。⑤救いを伝えることを願うのが聖霊様の思いです。⑥曲がった時代の中で、救われ、キリストの弟子として歩みます。ここには、A聖書の教えと霊的なリーダーの指導に従って生きることを幸福とします。B信仰生活は一人でするのでなくて、共なる共同体の中で歩みます。C心をひとつにして、礼拝をささげますD献身を自らする愛にあふれます。Eそこには、喜びと真心があふれますF賛美をします⑥そこには、さらに救われる人が起こされる再生産がなされます。何故なら生きている共同体だからです。このような初代教会のような教会が今も可能でしょうか。自分は長い間、聖書の教会の姿と自分の姿のギャップに失望していました。しかし、神様の熱情的な愛は、親がはたから見ると駄目な子供であろうが自分の子供は最高の人生を歩んでほしい、と思われるように、完全な者となること、最高の人生、教会になることを願っておられます。そのために助けとなる聖霊様が私の上に、教会の上に折られるのです。ですから、答えは可能だということです。私が信じるかどうかが大事なのです。今日IKEAというお店に行ってきました。SELF SERVICEのお店ですごくSIMPLEなのに非常に魅力があるように感じました。高級な物があるわけでなく、お手ごろ価格でいい物を買えるようになっています。店員が多くいるのでありません、普通なら不便に感じることを感じないようにしているお店の雰囲気、説明のしかた、文章にはセンスがあるように感じました。大きな資金をかけない様にしているように感じたりもしました。このような姿から何か教会が学べないか思いました。エルサレム初代教会には組織も、建物も資金もありませんでした。あったのは生き生きとした信仰と神様への愛、兄弟姉妹への愛でした。そこには、クリスチャンでない人にも魅力の感じるものがありました。私たちにできないのでしょうか!現代のエルサレム教会のような生き生きとした教会が、日本の全世界に立てられることを祈ります。私の言葉、行動、愛によってされる証が、他の人へ魅力的に映っているでしょうか?キリストへの愛がと真心を持つ教会へ、なっていきます。まずは、家庭が教会のように歩んでいきます