坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 27, 2009

宗教人として生きるのか?VISIONを持つ人として生きるのか?

使徒行伝11;1-18
今日のQT箇所には、異邦人伝道をしてきたペテロを非難するところからスタートします。律法を守ることに自分の宗教アインディをいまだにおき続けているユダヤ人クリスチャンには難しい問題でした。しかし、もっと難しいことは「人が救われているのに喜ぶどころか、非難をする」信仰の姿勢にあります。私たちはともすると今までの宗教生活や信仰の経験においてものを判断します。ペテロは非難されたことに「神様の異邦人を救いへ導かれた証」をします。そこで、ユダヤ人クリスチャンたちも納得せざるを得ない状況になります。今朝の私へのチャレンジは
①主イエスのために奉仕するときに、時に批判がある。内部からの攻撃もあること
②そういう時に批判を恐れずに、聖霊様のなされた新しいビジョンを大胆に証せよ
神様のなされたことは必ず示されることを確信せよ
③聖霊様の新しいシャワーをあびて、罪を日ごとに悔い改めいないと、すぐに私も宗教人の生活をすることになる(宗教人とは宗教の行いを心が伴わずにする人生、そしてその宗教行為の満足は神様でなくて、自分にあることです)
④聖霊様のビジョンを受けて進む人は受動的です。信じます。明るく積極的です。挑戦的です。前に向かいます。そして何よりも満足は自分でなくて神様に喜んでいただくことにあります。心の動機は神様への愛にあります。愛を持つ人は恐れがなく、神様の大きなみわざを見ることができます。心の中心が主イエスにあります。
日ごとに、新しい主イエスの十字架に血によって歩みます。