坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 27, 2009

主イエスの弟子と呼ばれるのはイエスを伝えるため

使徒行伝10;34-48
使徒ペテロは、「これではっきりわかった」という箇所から今日のQTが始まります。それは、イスラエル人以外であっても、全世界の人が神様を怖れかしこみ、義を行うならば、神様は主イエスの義を与え、救いへ導かれるということです。そして、聖霊を受けることができるのです。その神様の心が分かったということです。そして、何よりも、他の誰でもない自分たちを弟子として呼ばれてイエスの十字架と復活の証人とされた理由をわかったということです。私たちは、果たして主イエスの弟子として呼ばれたことの意味を分かっているでしょうか。神様の願いと心を知って、従っているのでしょうか。異邦人でも主イエス・キリストの十字架の事件を知っていました。しかし、それが全世界の人々の救いのためである、という十字架の愛を知っていることがありませんでした。それを伝えてほしい、その大事な責務をあなたに任せられた、という神様の情熱を受け取る人がイエス様の弟子です。イエス様の心を胸に描いて生きる人が弟子です。イエス様のことを伝えるために出て行く人が弟子です。聖霊を受けたのに、今までの自分の立場や経験にとどまる人が主イエスの弟子でありません。主イエスに集中するならば、その心を受けて失われた人々のところへ行き、その人々が救われて賛美することを願います。主イエスの弟子は、友なる主イエスの願いを持って新しい場所へ向かいます。自分の立場や自分の経験から出て行かずに、同じ場所にとどまることがありません。新しい命を得て常に成長します。私はどうでしょうか。同じ場所にいる安心感を持っていたい、新しいタイプの自分の知らないクリスチャンに出会うときに、自分の殻を破れずにいることが多くあるきがします。そして、何よりも宣教に出て行くことに、開拓に心配があります。失敗への怖れです。信仰に立つことを怖れ、ためらいます。神様の福音のために、失敗を恐れずに進みます。今日SEOULから新しい出発をしていきます。