坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 6月 10, 2009

本当の信仰とは、当たり外れがない

使徒行伝5;12-18
以前に、聖書の学びをしていたときに「キリスト教の祈り」と「他の一般的な祈り」という概念にどのような違いがありますか?という質問をしました。すると、そのときに印象的な答えがありました。それは、「他の祈りはあたれば、かなえばラッキーもうけもの」という感じですが「キリスト教の祈りははずれがありません」という答えでした。本当です、今日の聖書箇所には、使徒たちを通しての癒しが例外なくなされたとあります。例外があったなら、本当の神様の力ではないでしょう。ごまかしやトリックかもしれません。または、悪霊の働きによる癒しかもしれません。例外はなかったのです、なんとすばらしい神様を私たちは信じているのでしょうか。しかし、私たちは現実的に振り返ってみてください。はたして、神様へ祈りや働きをするときに、そして何よりも伝道するときに本当に「いのちのみことば」であることを信じて、確信して、伝えているのでしょうか。どこかに、妥協や疑いがあるのでないでしょうか。本気にさせない何かを持っていないでしょうか。今日の聖書箇所には使徒たちによって「しるし」と「わざ」がなされたとあります。しるしとは、主イエスが私の救い主であることを示すサインです。「わざ」とは神様にしかできない働き、力です。それを使徒を通しして神様ははたかれ、他のクリスチャンは「心をひとつにして」いました。その結果は多くのノンクリスチャン(ユダヤ教の人々)人々の尊敬されて。多くのクリスチャンが増し加えられた事実です。そこで、再び大祭司と仲間たちは「ねたみに燃えてたちがあり」使徒たちを留置場に入れてしまいました。しかし、主の使いが救い出し、解放してくださったのです。そこで、使徒たちはどうしたのでしょうか。家に戻って少し休んだり、おとなしくしたのでしょうか。いえ、彼らは福音を伝え続けたのです。なぜなら、彼らにとって「いのちのみことば」を伝えずにいっらえない力があったのです。彼らを燃やしたのは真実で、事実なる主イエス・キリストの十字架と復活でした。それを伝えずにいられなかったのです。今日、考え見る恵みは
①1私を燃やしているのは、何でしょうか。神様への愛でしょうか?真実なる命のみ言葉を本気で伝えたいという信仰でしょうか?それとも、ねたみや嫉妬、世の中のエネルギーで動いているのでしょうか
2それらは、一時的なものであり、自分を最終的には枯らせ、だめにするものです
しかし、主イエスへの信仰が本気であるならば、それは永遠の祝福へと人生を持ってきます。当たり外れのない信仰を伝えます。神様への愛を持ってめる人生を歩みます。