木曜日, 7月 30, 2009
使徒行伝23:25-35
今日は千人隊長がカイザリヤの総督に対して手紙を書く場面です。そこには、非常に職務に対して真摯な文章があります。暗い世の中にあっても、難しいことがあっても、正しく裁こうとする人や、行動しようとする人がいるのです。パウロがユダヤ人の陰謀に対して悔しい思いや、痛みを感じても仕方が無い場面において、慰めを受けます。世の中も捨てたものでないような気がします。しかし、それはパウロを愛され、守られ、神様の御心をなされようとする神様の計画、いや神様のBEST PLANでした。神様にある備えの人がいたのです、それは、主イエスの保護と希望を感じます。パウロは囚人として護送されたのですが、考えられない方法で多くの警備によって守られ、しかも馬に乗って移動することになったのです。それは、ローマで証しをすることになっているパウロの働き、そしてさらにスペイン宣教するまでの大きな神様の計画が成就するためなのです。神様の御心による特別な守りと導きを意味する旅となりました。果たして、私たちはどうでしょうか。状況や攻撃によって痛んでしまって、もしくは悔しさに埋もれて、神様のBEST PLANの成就に期待できずにいたり、集中すべき神様の使命を失ったりすることがないでしょうか。キリストの弟子はすべきことに集中します、だから自由です。本質的なことに集中しますから自由なのです。神様のBEST PLANに集中して福音と祈りの旅に出て行きます。
水曜日, 7月 29, 2009
雑音でなく、主イエスのストレートなハートを聞け
使徒行伝 23:12-24
私たちは、QTをするときに、すでに自分の思いや考え、もしくは心の傷、いたみがあることがあります。それらは悪いものでありません。しかし、それがすでに思い込みを持って聖書を読むことがあります。決して悪いものでなく、神様は私たちのその心に、状況に語りかけ、癒し、状況へ、現実へ働いてくださいます。しかし、それがかえって聖書からの中心的なメッセージを聞けなくしたり、神様の御心の中心部分を失うことがあります。中心的なメッセージを聞かずに、枝葉を聞いてしまうことがあります。私の心を空っぽにする必要があります。この世から受けた傷は、いつも懐疑的にさせ、同じ傷を持っていることから聖書を読むときも同じようなメッセージを受け取ることになります。違う聖書箇所なのに、いつも自分の心の傷を抱えている人は同じ話を受けます。私もそういうことがあります。しかし、それでは神様のダイナミックなメッセージや計画や、私への声を聞き損ねます。一部しか聞こえないのです。今日は、神様の偉大な守りを体験することでした。状況は悪くとも、必ず神様の計画はなされるように、若者を通して、時にローマ帝国という神様の権威を否定するようなこの世の組織を通しても、守ってくださいます。私の人生を導き守られる神様の旅路を歩むことを信じます。
私たちは、QTをするときに、すでに自分の思いや考え、もしくは心の傷、いたみがあることがあります。それらは悪いものでありません。しかし、それがすでに思い込みを持って聖書を読むことがあります。決して悪いものでなく、神様は私たちのその心に、状況に語りかけ、癒し、状況へ、現実へ働いてくださいます。しかし、それがかえって聖書からの中心的なメッセージを聞けなくしたり、神様の御心の中心部分を失うことがあります。中心的なメッセージを聞かずに、枝葉を聞いてしまうことがあります。私の心を空っぽにする必要があります。この世から受けた傷は、いつも懐疑的にさせ、同じ傷を持っていることから聖書を読むときも同じようなメッセージを受け取ることになります。違う聖書箇所なのに、いつも自分の心の傷を抱えている人は同じ話を受けます。私もそういうことがあります。しかし、それでは神様のダイナミックなメッセージや計画や、私への声を聞き損ねます。一部しか聞こえないのです。今日は、神様の偉大な守りを体験することでした。状況は悪くとも、必ず神様の計画はなされるように、若者を通して、時にローマ帝国という神様の権威を否定するようなこの世の組織を通しても、守ってくださいます。私の人生を導き守られる神様の旅路を歩むことを信じます。
火曜日, 7月 28, 2009
神様の清さを持つ人がまことの勇気を持てる
使徒行伝23:1-11
今日のQT箇所には、大祭司がパウロを打て、とする箇所があります。それに対して、不当な攻撃にパウロは「白い壁」とはっきりと言います。私たちクリスチャンは黙って打たれることをよしとすることがあります。それは正しいのですが、相手が誤っていることを、罪を犯していることを指摘しないことや、ほおっておくことをヨシトスルノデハありません。パウロはその前にこういいました。「私は神様の前にきよい両親を持って生活をしてきました」そのような人のみが言える、正しい主張と裁きがあります。私たちはこの世の中の誤った裁きや権威の中に苦しめられてきました。そのために黙っていしまうことがあります。自分の立場を守るために、騒動を起こさないために静かにしていることがあります。しかし、まことの権威を持って、裁く人は神様の前に清い生活を送る人です。それは、宗教生活的な、動機の無い、心の無い、何よりも神様との関係の無い、生活ではありません。神様を愛する生活の中に、主イエスの十字架によって歩むものに清い生活があります。その人には、人を正しく裁くと言う権威と責任があります。大祭司は、ここから遠い神様と関係の無い宗教生活をしてしまったのです。パウロに主は言われます。エルサレムで証しをしたように、ローマでも主イエスの証しをすることになります。神様との関係を持っている人には、さらに広く、遠く、大きく、神様の証しをすることになります。それは、勇気を持っての行動です。主イエスはパウロに語られました。「勇気を持ってあかしせよ」と。神様の清さの中にあるまことの勇気を持って行動します。
月曜日, 7月 27, 2009
神様の使命に生きる人だけがまことの権威を用いる
使徒行伝22:17-30
使徒パウロが神様の出会い、そして異邦人宣教への召し、それは神様からのこーリング
①キリキヤでタルソ生まれで、ガマリエルの弟子であり、ディアスポラユダヤ人であるパウロ、ギリシャ語が流暢に仕える人を世界宣教へとエルサレムで幻を通して召された
②ユダヤ人の拒否という状況を通して、神様の召しを確認した。
という話をしたところで、ユダヤ人たちは怒り、彼を殺そうとします。自分の聴きたくない話をされる時に、まことの権威の下にいない人は暴力を用います。そして、自分の思うとおりにしようとします。しかし、神様と言う正しい権威の下にひれ伏す人は違います。神様の使命に生きる人は、まことの人生とまことの権威を用いることができます。なぜなら、一番恐れるべき人を恐れているからです。一番私を幸福に導かれる命かけた主イエスの愛を知っているからです。パウロは自分がローマ市民であることを話し、裁判にかけないで鞭打とうとした相手へ正しい主張をします。権威とは、世の中の人が恐れるものです。また、嫌がるものです。しかし、まことの権威は真理であり、人を不幸にするものでなくて、正しい最高の道へ導きます。下手な社会への恐れがありません。権威へへつらうことがありません。自信があります。それは全能の神様の愛に愛されている、自信です。それが、神様の愛です。まことの権威の下に歩んでいきます。
伝道の基本となる姿勢
使徒行伝22:1-16
今日の聖書箇所は、使徒パウロが福音メッセージを語る内容です。その中ですごく心に迫る福音を伝える姿勢を感じました。それは、
①自分が過去にどのような人であったのか?正直に語る、それは罪びとであった自分をありのままに伝えて、あなたと同じ人、もしくはそれ以上にひどい人だった、ということを語ります。それは、宗教を持っている人が決して聖人君主でなくて、汚い穢れた人であったことを語ります。 ②それは、自分が決して上の立場でなくて、同じ目線に立ち、相手の気持ちを分かる、同じものである、と言う理解する謙遜な心、以前は同じ人であったということです。非常に大事なことですが、意外と忘れがちなことでないでしょうか。
③しかし、そんな私が神様に出会って180度変わる人生を歩んでいる祝福を語ることです。これは、現在進行形の祝福です。
④神様の計画にある祝福の人生を歩んでいる、もっとも自分らしい人生を歩んでいること、それは罪(ハマルティア)的外れな人生から、正しい、一番幸福な人生をメシアなる主イエスに出会うことでつかんだことを証しすることです。
今日は、ある教会での説教の奉仕です。主イエスにある使命、そして正直な、上に立たない奉仕をしていきます。
今日の聖書箇所は、使徒パウロが福音メッセージを語る内容です。その中ですごく心に迫る福音を伝える姿勢を感じました。それは、
①自分が過去にどのような人であったのか?正直に語る、それは罪びとであった自分をありのままに伝えて、あなたと同じ人、もしくはそれ以上にひどい人だった、ということを語ります。それは、宗教を持っている人が決して聖人君主でなくて、汚い穢れた人であったことを語ります。 ②それは、自分が決して上の立場でなくて、同じ目線に立ち、相手の気持ちを分かる、同じものである、と言う理解する謙遜な心、以前は同じ人であったということです。非常に大事なことですが、意外と忘れがちなことでないでしょうか。
③しかし、そんな私が神様に出会って180度変わる人生を歩んでいる祝福を語ることです。これは、現在進行形の祝福です。
④神様の計画にある祝福の人生を歩んでいる、もっとも自分らしい人生を歩んでいること、それは罪(ハマルティア)的外れな人生から、正しい、一番幸福な人生をメシアなる主イエスに出会うことでつかんだことを証しすることです。
今日は、ある教会での説教の奉仕です。主イエスにある使命、そして正直な、上に立たない奉仕をしていきます。
土曜日, 7月 25, 2009
危険が迫っても基礎となる愛と真理
使徒行伝21:27-40
今日の聖書箇所は、パウロが誓願する人々の費用を出し、共に宮へ行く中での誤解と濡れ衣との中で、暴動と命の危険に迫られるということがあります。さらに大変な内容です。QTをしながらも、緊張していくような内容です。ユダヤ人たちのねたみ、そして異邦人を排斥する思い、律法の厳格さを感じながらも、ローマの兵隊が来るまで力があった彼らが、ローマの兵隊が来るとたちまち静まってしまう、権力への弱さを感じます。しかし、それに対してパウロの一貫した変わらない態度、そして落ち着いた姿勢、その自信は何処から来るのか?と思いました。それは、主イエス・キリストの十字架を伝えるものの使命、そこに忠実に歩んできた姿勢、何よりもキリストの福音をいつでも証し、その愛を基礎にした人生でないか、と思いました。意外かもしれませんが、愛は弱いものでも、流されるものでもなく、強いものです。キリストの愛は命がけのもです。私はそのようなキリストの命がけの愛に歩んでいるのか?と思いました。弱弱しい、自分の愛で終わっていないか?と思いました。キリストの愛は話すことを話し、そして何よりも、どんな人にも、どんな時にも、主イエスの愛を信じてもらうことを願います。主イエスの愛を持って勇気を持って歩みます。
今日の聖書箇所は、パウロが誓願する人々の費用を出し、共に宮へ行く中での誤解と濡れ衣との中で、暴動と命の危険に迫られるということがあります。さらに大変な内容です。QTをしながらも、緊張していくような内容です。ユダヤ人たちのねたみ、そして異邦人を排斥する思い、律法の厳格さを感じながらも、ローマの兵隊が来るまで力があった彼らが、ローマの兵隊が来るとたちまち静まってしまう、権力への弱さを感じます。しかし、それに対してパウロの一貫した変わらない態度、そして落ち着いた姿勢、その自信は何処から来るのか?と思いました。それは、主イエス・キリストの十字架を伝えるものの使命、そこに忠実に歩んできた姿勢、何よりもキリストの福音をいつでも証し、その愛を基礎にした人生でないか、と思いました。意外かもしれませんが、愛は弱いものでも、流されるものでもなく、強いものです。キリストの愛は命がけのもです。私はそのようなキリストの命がけの愛に歩んでいるのか?と思いました。弱弱しい、自分の愛で終わっていないか?と思いました。キリストの愛は話すことを話し、そして何よりも、どんな人にも、どんな時にも、主イエスの愛を信じてもらうことを願います。主イエスの愛を持って勇気を持って歩みます。
金曜日, 7月 24, 2009
危急のときに譲る力はどこから来る?
使徒行伝21;17-26
とうとう、使徒パウロが第三次宣教旅行を終えてエルサレムに到着し、神様が彼を通してなされた異邦人の伝道について話して、聞いた人々は「神様を褒め称える」という内容が最初の聖書本文です。しかし、ここにヤコブや長老たちが集まっている中で、ヤコブはこのような勧めをします。それは、使徒パウロの異邦人宣教を共に喜ぶことができず、かえって使徒パウロが律法をやばることをして、しかもそれを勧めている、という誤解を、もしくはねたみから、攻撃しているという状態があります。そんなパウロを助けるため、またパウロの奉仕している異邦人伝道を妨害させないために、ヤコブはエルサレム教会の中で誓願を立てている4人の頭をそる費用を出し、共に身を清めなさい、という進めと提案をしてくれます。ぱっと聞くと、異邦人伝道を奉仕して、ほめられたり、慰労されたりすることがあっても、自分が費用を出して、さらに奉仕して使えることは聞くほど楽でない気がします。どうして、パウロはすぐに従順することができたのでしょうか。それは、
①異邦人伝道は、主イエスのミニストリーを預かって奉仕しているのであって自分のミニストリーでない
②神様のミニストリーであるために、自分がほめられることや慰労されることよりも、主イエスの使命のために喜んで、ヤコブの提案に従った。
③その秘訣はどこから来るのか?それは、神様によって救われた感謝と、神様の使命をさせていただている、という感謝からです。自分の使命のように背負い込んだりしていないのです。
ある日本の歴史書に、譲るということは我慢することでなくて、感謝という余裕のあるものが、力を持って与えることとありました。まさに、パウロの姿勢はそのようなものがないでしょうか。
私は果たして、パウロのような姿勢で神様に使えているのでしょうか?
また、パウロのような奉仕をする人を批判的に見たり、妨害していないでしょうか。
主イエスへの感謝を持って歩みます。
とうとう、使徒パウロが第三次宣教旅行を終えてエルサレムに到着し、神様が彼を通してなされた異邦人の伝道について話して、聞いた人々は「神様を褒め称える」という内容が最初の聖書本文です。しかし、ここにヤコブや長老たちが集まっている中で、ヤコブはこのような勧めをします。それは、使徒パウロの異邦人宣教を共に喜ぶことができず、かえって使徒パウロが律法をやばることをして、しかもそれを勧めている、という誤解を、もしくはねたみから、攻撃しているという状態があります。そんなパウロを助けるため、またパウロの奉仕している異邦人伝道を妨害させないために、ヤコブはエルサレム教会の中で誓願を立てている4人の頭をそる費用を出し、共に身を清めなさい、という進めと提案をしてくれます。ぱっと聞くと、異邦人伝道を奉仕して、ほめられたり、慰労されたりすることがあっても、自分が費用を出して、さらに奉仕して使えることは聞くほど楽でない気がします。どうして、パウロはすぐに従順することができたのでしょうか。それは、
①異邦人伝道は、主イエスのミニストリーを預かって奉仕しているのであって自分のミニストリーでない
②神様のミニストリーであるために、自分がほめられることや慰労されることよりも、主イエスの使命のために喜んで、ヤコブの提案に従った。
③その秘訣はどこから来るのか?それは、神様によって救われた感謝と、神様の使命をさせていただている、という感謝からです。自分の使命のように背負い込んだりしていないのです。
ある日本の歴史書に、譲るということは我慢することでなくて、感謝という余裕のあるものが、力を持って与えることとありました。まさに、パウロの姿勢はそのようなものがないでしょうか。
私は果たして、パウロのような姿勢で神様に使えているのでしょうか?
また、パウロのような奉仕をする人を批判的に見たり、妨害していないでしょうか。
主イエスへの感謝を持って歩みます。
木曜日, 7月 23, 2009
真の交わりは一人ひとりが弟子となる中で生まれる
使徒行伝21:1-16
今日のQT箇所は、使徒パウロがイスラエル、シリヤに駆け足で戻ってきて「弟子たち」に出会う、再会する箇所です。ここで、面白いのは「弟子たちを見つけ出して」という7日間の滞在をした箇所です。そこでは、彼らが御霊に示されてエルサレムに上らないように、と強く示したことが書かれています。それに対して、パウロの答えは「主イエスの御名のためなら、縛られるだけでなくて、死ぬ覚悟をしている」ということでした。また、同じようにカイザリヤでは預言をする人々が、パウロがエルサレム上ったら、どうなるのか?を預言し、とめます。しかし、パウロは神様の御心を従うことを宣言します。この交わりは本当に美しいものです。それは、パウロと交わった人々が「御霊によって示された」ことを語った点です。それは、自分勝手な意見を述べたのでなくて、人間的な話をしたのでなく、一人ひとりが神様につながった点からパウロと交わりをし、彼のために祈った点です。一人ひとりが主イエスの弟子として歩む中で交わりをして、海岸にひざまずいて祈る姿があったのです。また、逆に、パウロは神様の示された道を苦難があることを知りながらも、弟子たちの進めもありつつも、神様の御心へ従う強さを持っています。私にそのような神様に強く導かれている強さがあるでしょうか。また、弟子として歩む仲での交わりを持っているのでしょうか。神様との新の交わりの仲で弟子となって行きます。
今日のQT箇所は、使徒パウロがイスラエル、シリヤに駆け足で戻ってきて「弟子たち」に出会う、再会する箇所です。ここで、面白いのは「弟子たちを見つけ出して」という7日間の滞在をした箇所です。そこでは、彼らが御霊に示されてエルサレムに上らないように、と強く示したことが書かれています。それに対して、パウロの答えは「主イエスの御名のためなら、縛られるだけでなくて、死ぬ覚悟をしている」ということでした。また、同じようにカイザリヤでは預言をする人々が、パウロがエルサレム上ったら、どうなるのか?を預言し、とめます。しかし、パウロは神様の御心を従うことを宣言します。この交わりは本当に美しいものです。それは、パウロと交わった人々が「御霊によって示された」ことを語った点です。それは、自分勝手な意見を述べたのでなくて、人間的な話をしたのでなく、一人ひとりが神様につながった点からパウロと交わりをし、彼のために祈った点です。一人ひとりが主イエスの弟子として歩む中で交わりをして、海岸にひざまずいて祈る姿があったのです。また、逆に、パウロは神様の示された道を苦難があることを知りながらも、弟子たちの進めもありつつも、神様の御心へ従う強さを持っています。私にそのような神様に強く導かれている強さがあるでしょうか。また、弟子として歩む仲での交わりを持っているのでしょうか。神様との新の交わりの仲で弟子となって行きます。
水曜日, 7月 22, 2009
健全な指導者は与える事で確証される
使徒行伝20;28-38
今日のQT箇所は、使徒パウロが最後の説教をエペソ教会の長老たちに勧めをすることです。それは、大事な教えとして
①自分自身と群れの全体に気をつけるように、と言われます。神様に仕える人が群れの全体に気をつけることは当然としても、実は自分自身の内面や人格、そして大事な家族なをおくなら、それは全体の群れのためにもなりません。個人の事を見れない人がどうして群れの全体を見れるでしょうか?最初は、しっかりとして自分や家族を見ていても、忙しさや自分が得た地位のように勘違いするようになる時に、神様の国でなくて、自分の国を作るようになってしまうのです。
②また、神様の指導者は恵みと神様の御言葉を中心にします。しかし、途中で自分に人を集め、自分が得ることを求めるようになってしまうのです。
まことの指導者は、神様の恵みの中で生きます。また、自分が中心でなくて、神様のみ言葉です。そして、自分に集めるのでなくて、神様に受けたものを分かち合う、与える祝福を知っています。神様の指導者として神様を恐れ、仕えていきます。
今日のQT箇所は、使徒パウロが最後の説教をエペソ教会の長老たちに勧めをすることです。それは、大事な教えとして
①自分自身と群れの全体に気をつけるように、と言われます。神様に仕える人が群れの全体に気をつけることは当然としても、実は自分自身の内面や人格、そして大事な家族なをおくなら、それは全体の群れのためにもなりません。個人の事を見れない人がどうして群れの全体を見れるでしょうか?最初は、しっかりとして自分や家族を見ていても、忙しさや自分が得た地位のように勘違いするようになる時に、神様の国でなくて、自分の国を作るようになってしまうのです。
②また、神様の指導者は恵みと神様の御言葉を中心にします。しかし、途中で自分に人を集め、自分が得ることを求めるようになってしまうのです。
まことの指導者は、神様の恵みの中で生きます。また、自分が中心でなくて、神様のみ言葉です。そして、自分に集めるのでなくて、神様に受けたものを分かち合う、与える祝福を知っています。神様の指導者として神様を恐れ、仕えていきます。
神様の計画にある優先順位
使徒行伝20;13-27
あるスポーツ選手がこういうことを言った事があります。「夢や目標が見つかったら、そのためにしないといけないこと、してもいいこと、したらいいこと」が分かる、それが分かったら、優先順位が決まって、そのために一生懸命努力すべきことがわかる。はたして、私たちクリスチャンの人生はそのような優先順位を持っているのでしょうか。そのためには、神様の私を用いていくださる計画を知らないといけません、またその神様の計画が最善であることを信じる信仰が私たちの土台をささえます。パウロの宣教旅行はわずか1節ほどあの広いトルコを移動していることがあります(13-15節)。そきには、人として色んな思いが入ることも十分にあったでしょう。また、今回の旅行にはエペソによらないようにしたことから、ミレトに長老たちを集めることがあります。神様の計画に無いことや、神様の計画のために優先順位をつけることが必要です。私には時に、情に弱いことがあります。そのために優先順位をつけるのが難しいことがあります。また、自分の人生に対する現実への計算によって動けないときがあります。神様の計画によって動くよりも、恐れが先立ちます。しかし、神様の計画によって動く人には迷いや、恐れがありません。神様の計画を勇気を持って歩みます。
あるスポーツ選手がこういうことを言った事があります。「夢や目標が見つかったら、そのためにしないといけないこと、してもいいこと、したらいいこと」が分かる、それが分かったら、優先順位が決まって、そのために一生懸命努力すべきことがわかる。はたして、私たちクリスチャンの人生はそのような優先順位を持っているのでしょうか。そのためには、神様の私を用いていくださる計画を知らないといけません、またその神様の計画が最善であることを信じる信仰が私たちの土台をささえます。パウロの宣教旅行はわずか1節ほどあの広いトルコを移動していることがあります(13-15節)。そきには、人として色んな思いが入ることも十分にあったでしょう。また、今回の旅行にはエペソによらないようにしたことから、ミレトに長老たちを集めることがあります。神様の計画に無いことや、神様の計画のために優先順位をつけることが必要です。私には時に、情に弱いことがあります。そのために優先順位をつけるのが難しいことがあります。また、自分の人生に対する現実への計算によって動けないときがあります。神様の計画によって動くよりも、恐れが先立ちます。しかし、神様の計画によって動く人には迷いや、恐れがありません。神様の計画を勇気を持って歩みます。
教会を愛される神様の愛
使徒行伝20;1-12
使徒パウロがマケドニヤにて、宣教旅行をしている中で「多くの励まし」をして旅していったことが書かれています。そこで、トロアスというところでパウロが最後の交わりとして、人々と長く朝まで離すことが出てきます。ここまでは、よかったのですが、ユテコという青年が屋上から落ちて死ぬという大変な事件が出てきます。神様の恵みのある時までは良かったのですが、急にとんでもなく、大変な事件によって恵みがストップすることがあります。こんなことは、私たちの中にもないでしょうか。こんな大きな事件でもなくて、教会のキャンプをしていてふいのアクシデントによって恵みの時間がストップすることがあります。そんな時に、神様はこの青年を生き返られせてくださいます。それは、神様の教会を愛する配慮です。一人の魂を愛され、守られ、教会という共同体を支えてくださる神様の愛なのです。私の人生は、言葉は教会という共同体を愛して、励ます歩みをしているでしょうか。危機のときにかえって神様の愛を持って、かえって共同体が励まされ、さらにキリストの愛によって成長する時となりました。私の人生を教会を励ますときになりますように祈ります。
使徒パウロがマケドニヤにて、宣教旅行をしている中で「多くの励まし」をして旅していったことが書かれています。そこで、トロアスというところでパウロが最後の交わりとして、人々と長く朝まで離すことが出てきます。ここまでは、よかったのですが、ユテコという青年が屋上から落ちて死ぬという大変な事件が出てきます。神様の恵みのある時までは良かったのですが、急にとんでもなく、大変な事件によって恵みがストップすることがあります。こんなことは、私たちの中にもないでしょうか。こんな大きな事件でもなくて、教会のキャンプをしていてふいのアクシデントによって恵みの時間がストップすることがあります。そんな時に、神様はこの青年を生き返られせてくださいます。それは、神様の教会を愛する配慮です。一人の魂を愛され、守られ、教会という共同体を支えてくださる神様の愛なのです。私の人生は、言葉は教会という共同体を愛して、励ます歩みをしているでしょうか。危機のときにかえって神様の愛を持って、かえって共同体が励まされ、さらにキリストの愛によって成長する時となりました。私の人生を教会を励ますときになりますように祈ります。
火曜日, 7月 21, 2009
あなたは影響力のあるクリスチャンか?
使徒行伝19;23-41
あなたは、キリストの影響力をまわりに与えるクリスチャンでしょうか?それとも、世間から影響力を受けるクリスチャンでしょうか。使徒パウロは偽の訴えによっておとしめられた内容です。そのときに言われたことが、全アジアを混乱に落とした、というのです。確かに、全アジアをそのように大きな影響力を与えました、それは、福音の影響力です。サタンはそのような福音の影響力をほおって起きません。黙っていたら、攻撃されないかもしれません。いや、逆に相手からの攻撃を受容してしまうのです。神様の愛を影響力を受けているでしょうか。その愛を流しているのでしょうか。神様の愛を受ける時に影響力を与える人になることができます。神様の影響力を流すものになります。
あなたは、キリストの影響力をまわりに与えるクリスチャンでしょうか?それとも、世間から影響力を受けるクリスチャンでしょうか。使徒パウロは偽の訴えによっておとしめられた内容です。そのときに言われたことが、全アジアを混乱に落とした、というのです。確かに、全アジアをそのように大きな影響力を与えました、それは、福音の影響力です。サタンはそのような福音の影響力をほおって起きません。黙っていたら、攻撃されないかもしれません。いや、逆に相手からの攻撃を受容してしまうのです。神様の愛を影響力を受けているでしょうか。その愛を流しているのでしょうか。神様の愛を受ける時に影響力を与える人になることができます。神様の影響力を流すものになります。
神様の前の価値
使徒行伝19;13-22
今日の聖書箇所は、使徒パウロが悪霊を追い出し、病を癒すのを見たユダヤの祭司長スケウの7人の息子たちがまねをして、悪霊にお前たちを知らない、とひどい目にあったことが出てきます。思うに、宗教指導者の息子たちのこの悪霊を追い出す行為をしようとしたことは、まさに神様の力を利用する宗教という名前を借りた恐ろしい罪を感じます。宗教指導者の一代目はともかく、かえって何も神様の関係の無い2代目が悪用する話が、聖書にたびたび出てきます。それは、下手をすると現代の宗教、私たちの教会の中に出てくるかもしれません。また、自分が神様の力を、神様と私の関係を持つことなく、神様の力を利用しようとするかもしれません。私たちは聖霊様の力を勘違いすることなく、人格的な交わりを体験して、生活することが大切であり、祝福であり、喜びなのです。主イエスを信じたときに、永遠に私と共にいる、と約束を下さったのです。その結果が、信仰に入った人が、自分たちの以前の生活をさらけ出し、告白し、魔術を行ったものが書物を捨てた、という事件です。それは、銀貨5万枚という大変なお金、価値でした。しかし、それらを捨てても新しい神様の関係を邪魔するものを捨てたい、そして罪を告白する信仰の共同体にみなが出て行ったのです。その結果は、神様のみ言葉は驚くほど広がったのです。
①信仰の共同体に告白するところに力がありました
②神様の前に私が捨てるべきものは何でしょうか?
③神様の関係がどれほど勝ちあるものか?大事な関係を壊すものを捨てないといけません
それは、喜びなのです。
神様の関係を持つ中に、本当のリバイバルがあると信じます。
今日の聖書箇所は、使徒パウロが悪霊を追い出し、病を癒すのを見たユダヤの祭司長スケウの7人の息子たちがまねをして、悪霊にお前たちを知らない、とひどい目にあったことが出てきます。思うに、宗教指導者の息子たちのこの悪霊を追い出す行為をしようとしたことは、まさに神様の力を利用する宗教という名前を借りた恐ろしい罪を感じます。宗教指導者の一代目はともかく、かえって何も神様の関係の無い2代目が悪用する話が、聖書にたびたび出てきます。それは、下手をすると現代の宗教、私たちの教会の中に出てくるかもしれません。また、自分が神様の力を、神様と私の関係を持つことなく、神様の力を利用しようとするかもしれません。私たちは聖霊様の力を勘違いすることなく、人格的な交わりを体験して、生活することが大切であり、祝福であり、喜びなのです。主イエスを信じたときに、永遠に私と共にいる、と約束を下さったのです。その結果が、信仰に入った人が、自分たちの以前の生活をさらけ出し、告白し、魔術を行ったものが書物を捨てた、という事件です。それは、銀貨5万枚という大変なお金、価値でした。しかし、それらを捨てても新しい神様の関係を邪魔するものを捨てたい、そして罪を告白する信仰の共同体にみなが出て行ったのです。その結果は、神様のみ言葉は驚くほど広がったのです。
①信仰の共同体に告白するところに力がありました
②神様の前に私が捨てるべきものは何でしょうか?
③神様の関係がどれほど勝ちあるものか?大事な関係を壊すものを捨てないといけません
それは、喜びなのです。
神様の関係を持つ中に、本当のリバイバルがあると信じます。
聖霊のバプテスマが必要な理由
使徒行伝19;1-12
エペソの奥地に行ったパウロに、エペソの人が聖霊のバプテスマを受けなかった、彼らの知っているのはヨハネのバプテスまであった、という話を聞きます。ここで聖霊のバプテスマを2度受ける必要があるとか、いや一度だけで、これは過渡期のものである、という議論を聞きます。しかし、それはさておき、すべてのクリスチャンは、ヨハネのバプテスマは罪の悔い改めのバプテスマです。しかし、人生の主人を主イエス・キリストに、自分が死んで、主イエスに導かれる人生のために、聖霊のバプテスマを受ける必要があるのです。私が人生の主人でなくて、最高の主人である主イエスをお迎えすることが最高の使命のある、幸福な人生です。聖霊様によって、自分でなくて他人でもなくて、ただ主イエスのみが主人とする人生を歩みます。
エペソの奥地に行ったパウロに、エペソの人が聖霊のバプテスマを受けなかった、彼らの知っているのはヨハネのバプテスまであった、という話を聞きます。ここで聖霊のバプテスマを2度受ける必要があるとか、いや一度だけで、これは過渡期のものである、という議論を聞きます。しかし、それはさておき、すべてのクリスチャンは、ヨハネのバプテスマは罪の悔い改めのバプテスマです。しかし、人生の主人を主イエス・キリストに、自分が死んで、主イエスに導かれる人生のために、聖霊のバプテスマを受ける必要があるのです。私が人生の主人でなくて、最高の主人である主イエスをお迎えすることが最高の使命のある、幸福な人生です。聖霊様によって、自分でなくて他人でもなくて、ただ主イエスのみが主人とする人生を歩みます。
月曜日, 7月 20, 2009
持つべき知識と人格
使徒行伝18;24-28
今日のQT箇所には、アポロという素晴らしい知識を持ち、賜物を持ち、そのような素晴らしい神様の器が出てきます。しかし、それ以上に素晴らしいのは「プリスキラ」と「アグラ」が主イエス・キリストの道を正しく教えたということです。素晴らしい神様の器を見たときに、素晴らしいと思うと同時に人には嫉妬が起こりやすいものです。また、聖霊に満たされないかぎりにその人を祝福することはできません。彼ら夫婦は惜しむことなく、神様の器のためにさらに神様の道を伝え、さらに用いられるための道を備え、手伝ったのです。また、それとアポロが謙遜に神様の道を教えられたときに、たとえ、相手がどのような人であろうとよく聞いたことなのです。せっかくの賜物や知識も人格が自分の基礎に無いと用いられません。神様の謙遜な人格は聖霊様の豊かな祝福です。神様の人格をいただいて、相手を立てる、相手を教える、相手から聞く祝福を得ます。
今日のQT箇所には、アポロという素晴らしい知識を持ち、賜物を持ち、そのような素晴らしい神様の器が出てきます。しかし、それ以上に素晴らしいのは「プリスキラ」と「アグラ」が主イエス・キリストの道を正しく教えたということです。素晴らしい神様の器を見たときに、素晴らしいと思うと同時に人には嫉妬が起こりやすいものです。また、聖霊に満たされないかぎりにその人を祝福することはできません。彼ら夫婦は惜しむことなく、神様の器のためにさらに神様の道を伝え、さらに用いられるための道を備え、手伝ったのです。また、それとアポロが謙遜に神様の道を教えられたときに、たとえ、相手がどのような人であろうとよく聞いたことなのです。せっかくの賜物や知識も人格が自分の基礎に無いと用いられません。神様の謙遜な人格は聖霊様の豊かな祝福です。神様の人格をいただいて、相手を立てる、相手を教える、相手から聞く祝福を得ます。
日曜日, 7月 19, 2009
二つの人生
使徒行伝18;12-23
今日のQT箇所には、二つの人生があります。一つはアカヤ地方の総督であるガリオのような他人のことに関心も持たず、自分自陣のことにもまことには関心の無い人物であり、自分の人生に責任を待たず、そして神様のために請願をかけてまで、命をかける人生を選ぶパウロです。はたして、私はどちらの人生を選び歩んでいるでしょうか。どちらでもない、問題の無い人生を繰ろうとするのは人間のさがかもしれません。しかし、神様の義をいただき、人生の意味を知り、キリストの愛を伝えたいと思うなら、そのような人生ではありません。キリストの王なる人として、キリストの奥義の管理者として歩もうとします。すると、私の人生は神様の奥義の管理者として、臆する人生を、歩んではいけないのです。しかし、何と私は臆病なのか、?失敗しないでいこうとして、かえって何もできない失敗を歩んでいるような気がします。神様の福音の使命を得て歩んでいきます。
今日のQT箇所には、二つの人生があります。一つはアカヤ地方の総督であるガリオのような他人のことに関心も持たず、自分自陣のことにもまことには関心の無い人物であり、自分の人生に責任を待たず、そして神様のために請願をかけてまで、命をかける人生を選ぶパウロです。はたして、私はどちらの人生を選び歩んでいるでしょうか。どちらでもない、問題の無い人生を繰ろうとするのは人間のさがかもしれません。しかし、神様の義をいただき、人生の意味を知り、キリストの愛を伝えたいと思うなら、そのような人生ではありません。キリストの王なる人として、キリストの奥義の管理者として歩もうとします。すると、私の人生は神様の奥義の管理者として、臆する人生を、歩んではいけないのです。しかし、何と私は臆病なのか、?失敗しないでいこうとして、かえって何もできない失敗を歩んでいるような気がします。神様の福音の使命を得て歩んでいきます。
主のためにテントメーカー生活を送っているのか
使徒行伝18;1-11
パウロは、コリントで伝道する中で「アクラ」と「プリスキラ」というイタリヤから退去させられたイエスを伝えるクリスチャン夫婦に出会います。コリントはギリシャの地域です、後に彼らはエペソに伝道したり、福音のためにあちこちの国を移動する人生を送ります。それは、今の転勤の地方移動や町の移動の範囲ではありません。はたして、私たちは福音のために町を移動したり、教会のために家を引っ越したことがあるのでしょうか。福音のために自分の人生のスケジュール調整をしたことがあるのでしょうか。小さいささげものをしたことがあるでしょうか。また、ペテロは、ユダヤ人の拒否や迫害にあうまでは、コリントでまずユダヤ人とギリシャ人、多くの異邦人を会堂を通して伝道しました。それは、私にとって日本人と韓国人が違う国であるアメリカで福音を聞くようなものです。そして、神様は言われます。この町には多くの私の民がいるから恐れずに語りなさい、と言うのです。私も、恐れずに神様の福音を異邦の町で、韓国人の妻と日本人である私夫婦を通して遣っていただくことを願い、決心します。
パウロは、コリントで伝道する中で「アクラ」と「プリスキラ」というイタリヤから退去させられたイエスを伝えるクリスチャン夫婦に出会います。コリントはギリシャの地域です、後に彼らはエペソに伝道したり、福音のためにあちこちの国を移動する人生を送ります。それは、今の転勤の地方移動や町の移動の範囲ではありません。はたして、私たちは福音のために町を移動したり、教会のために家を引っ越したことがあるのでしょうか。福音のために自分の人生のスケジュール調整をしたことがあるのでしょうか。小さいささげものをしたことがあるでしょうか。また、ペテロは、ユダヤ人の拒否や迫害にあうまでは、コリントでまずユダヤ人とギリシャ人、多くの異邦人を会堂を通して伝道しました。それは、私にとって日本人と韓国人が違う国であるアメリカで福音を聞くようなものです。そして、神様は言われます。この町には多くの私の民がいるから恐れずに語りなさい、と言うのです。私も、恐れずに神様の福音を異邦の町で、韓国人の妻と日本人である私夫婦を通して遣っていただくことを願い、決心します。
宗教心に厚い人生を送っていないのか?
使徒行伝17;22-34
アテネの人たちは、多くの偶像を作り、囲まれて生きていました。それは、本当に宗教心に厚い意味でなくて、「これも神様、あれも神様、これも真理、あれも頼れるもの」という多元主義の中で生きていました。宗教心に厚いとは、まことの真理の周りをくるくる回る行為のようなものです。まことの神様の周りを回るような人生です。それは、まことの神様に出会うことがありません。その遊びのような宗教生活は、霊的な命の無い人生をおくらせます。私たちは、はたしてそのような霊的な命の無い人生を送っていないでしょうか。もちろん、アテネのような人では無いにしても、宗教の周りをくるくると回る人生を送っていないでしょうか。それは、奉仕をしていても、多くの教会活動に参加していても、礼拝をささげる、神様に出会うときを持っていないのなら、何年も教会に通っても、礼拝の時間が苦痛であったり、行かないといけないものであるから行くという日本人の真面目さのような、神様に満足していただく宗教生活というよりは、自己満足の宗教生活になってしまうのです、それは、自分が犠牲してあげている、という意識を生み出し、何かあると「こころみ」にあってしまうのです。素晴らしい偉大な神様に出あうことなく、神様の計画を知ることも無い、神様と私は関係の無い宗教生活を送っているのです。QTを通して、神様の愛を受ける、計画を知る人生を持ちます。
アテネの人たちは、多くの偶像を作り、囲まれて生きていました。それは、本当に宗教心に厚い意味でなくて、「これも神様、あれも神様、これも真理、あれも頼れるもの」という多元主義の中で生きていました。宗教心に厚いとは、まことの真理の周りをくるくる回る行為のようなものです。まことの神様の周りを回るような人生です。それは、まことの神様に出会うことがありません。その遊びのような宗教生活は、霊的な命の無い人生をおくらせます。私たちは、はたしてそのような霊的な命の無い人生を送っていないでしょうか。もちろん、アテネのような人では無いにしても、宗教の周りをくるくると回る人生を送っていないでしょうか。それは、奉仕をしていても、多くの教会活動に参加していても、礼拝をささげる、神様に出会うときを持っていないのなら、何年も教会に通っても、礼拝の時間が苦痛であったり、行かないといけないものであるから行くという日本人の真面目さのような、神様に満足していただく宗教生活というよりは、自己満足の宗教生活になってしまうのです、それは、自分が犠牲してあげている、という意識を生み出し、何かあると「こころみ」にあってしまうのです。素晴らしい偉大な神様に出あうことなく、神様の計画を知ることも無い、神様と私は関係の無い宗教生活を送っているのです。QTを通して、神様の愛を受ける、計画を知る人生を持ちます。
日曜日, 7月 12, 2009
霊的な目を開かせてください
使徒行伝17;16-21
アテネで、シラスとテモテを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなことに憤りを感じました。同じ状況を見て、町を見て、人を見て、見る人によって違うことを感じることがあります。私たちは、ぼっとしていると瞬間的に大事なサインを見逃すことがあります。霊的に目覚めている必要があります。そこで、私がどのようにすべきなのか?目覚めて知る必要があります。そのためには、どうしたらいいのでしょうか?パウロは、アテネで偶像を見て憤りを感じながらも、そこで怒って過激な行動をしたり、感情に任せた行動や言動をしたりしませんでした。そこで、彼がしたことは「イエス・キリストと彼の復活」でした。私たちにとって、一番すべきことは何でしょうか?それは、主イエスの十字架と復活です、それを怒りや憤りでなくて、愛を持って伝えることです。イエスの真理を持って伝えることです。神様がパウロを一人でアテネに送られたのも、偶然でなくて、神様の計画にある状況です。主よ、私の目を開き、神様の計画を見させてください。伝えるべき主イエスの復活を語らせてください。
アテネで、シラスとテモテを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなことに憤りを感じました。同じ状況を見て、町を見て、人を見て、見る人によって違うことを感じることがあります。私たちは、ぼっとしていると瞬間的に大事なサインを見逃すことがあります。霊的に目覚めている必要があります。そこで、私がどのようにすべきなのか?目覚めて知る必要があります。そのためには、どうしたらいいのでしょうか?パウロは、アテネで偶像を見て憤りを感じながらも、そこで怒って過激な行動をしたり、感情に任せた行動や言動をしたりしませんでした。そこで、彼がしたことは「イエス・キリストと彼の復活」でした。私たちにとって、一番すべきことは何でしょうか?それは、主イエスの十字架と復活です、それを怒りや憤りでなくて、愛を持って伝えることです。イエスの真理を持って伝えることです。神様がパウロを一人でアテネに送られたのも、偶然でなくて、神様の計画にある状況です。主よ、私の目を開き、神様の計画を見させてください。伝えるべき主イエスの復活を語らせてください。
土曜日, 7月 11, 2009
困難があってもやりがいを感じることは
使徒行伝17:1-15
今日の聖書箇所は、パウロとシラスたちの第二次宣教旅行で「テサロニケ」と「ベレヤ」での伝道した内容です。この中で、二つの都市での伝道に共通点があります。それは、ねたみからのユダヤ人の迫害と聖書を語るパウロとシラスの熱い姿勢です。おかしな話ですが、私たちは迫害や困難にあって神様の福音を語る姿勢が弱くなったり、反対勢力に気をつけながら伝導しようとすることがないでしょうか。もしくは、伝道をすることをやめてしまったり、福音を伝える中で傷ついて倒れることがないでしょうか。しかし、パウロたちは変わらない「いつもしているように」会堂で聖書に基づいてイエス・キリストを伝えたのです。その結果、テサロニケに教会が誕生することになりました。また、ベレヤでは「非常に熱心に福音を聴き、果たしてそのとおりかと毎日聖書を開く」人々に出会い、伝道できたのです。聖書を聞く人の姿勢は、人や町によって違うでしょう。しかし、私たち福音を伝える人がまちまちの態度でなく、イエス・キリストの福音を伝えることを喜んでいるのか?困難の中で、さらにキリストを体験しているのか?傷ついて倒れていないか?思うときに、大きな違いを生みます。そして、何よりも福音を待っている人がいます。困難を乗り越える主イエス喜ぶ生活をします。さらに、聖書を読み熱心に伝えれる生活をして、準備をしていきます。
今日の聖書箇所は、パウロとシラスたちの第二次宣教旅行で「テサロニケ」と「ベレヤ」での伝道した内容です。この中で、二つの都市での伝道に共通点があります。それは、ねたみからのユダヤ人の迫害と聖書を語るパウロとシラスの熱い姿勢です。おかしな話ですが、私たちは迫害や困難にあって神様の福音を語る姿勢が弱くなったり、反対勢力に気をつけながら伝導しようとすることがないでしょうか。もしくは、伝道をすることをやめてしまったり、福音を伝える中で傷ついて倒れることがないでしょうか。しかし、パウロたちは変わらない「いつもしているように」会堂で聖書に基づいてイエス・キリストを伝えたのです。その結果、テサロニケに教会が誕生することになりました。また、ベレヤでは「非常に熱心に福音を聴き、果たしてそのとおりかと毎日聖書を開く」人々に出会い、伝道できたのです。聖書を聞く人の姿勢は、人や町によって違うでしょう。しかし、私たち福音を伝える人がまちまちの態度でなく、イエス・キリストの福音を伝えることを喜んでいるのか?困難の中で、さらにキリストを体験しているのか?傷ついて倒れていないか?思うときに、大きな違いを生みます。そして、何よりも福音を待っている人がいます。困難を乗り越える主イエス喜ぶ生活をします。さらに、聖書を読み熱心に伝えれる生活をして、準備をしていきます。
金曜日, 7月 10, 2009
絶望の瞬間に神様の救いは来る!
使徒行伝16:27-40
地震が起こったために、牢屋の門が開き、看守が絶望して自殺しようとします。しかし、パウロとシラスは「逃げ出していない、私たちはここにいる」と言います。何故、彼らは逃げなかったのでしょうか。それは、自分たちが濡れ衣のためにここにいること、そのために恥ずかしいことがない、裁判にかけらえても、正しく主張することができ、神様の前にも、人の前にも出ることができたからです。そこに、絶望へ進みかけた看守へ「福音」を伝えることができたのです。私はそのような恥ずかしくない、大胆な、勇気を持った信仰を持っているでしょうか。そんな存在として歩んでいるでしょうか。もしくは、絶望の中で主イエス・キリストの救いに出会っているのでしょうか。主イエスを信じなさい、そうすればそのようにしてあなたも、あなたの家族も救われます、という告白を持って「全家族が救いに預かる喜び」を分かち合います。今、私の通う教会において「家族の方が救われる」恵みを聞きました。絶望の瞬間、人間できる限界を超える時に、神様の救いが与えられることを信じます。
地震が起こったために、牢屋の門が開き、看守が絶望して自殺しようとします。しかし、パウロとシラスは「逃げ出していない、私たちはここにいる」と言います。何故、彼らは逃げなかったのでしょうか。それは、自分たちが濡れ衣のためにここにいること、そのために恥ずかしいことがない、裁判にかけらえても、正しく主張することができ、神様の前にも、人の前にも出ることができたからです。そこに、絶望へ進みかけた看守へ「福音」を伝えることができたのです。私はそのような恥ずかしくない、大胆な、勇気を持った信仰を持っているでしょうか。そんな存在として歩んでいるでしょうか。もしくは、絶望の中で主イエス・キリストの救いに出会っているのでしょうか。主イエスを信じなさい、そうすればそのようにしてあなたも、あなたの家族も救われます、という告白を持って「全家族が救いに預かる喜び」を分かち合います。今、私の通う教会において「家族の方が救われる」恵みを聞きました。絶望の瞬間、人間できる限界を超える時に、神様の救いが与えられることを信じます。
木曜日, 7月 09, 2009
無条件に賛美する時に奇跡がある
使徒行伝16-26
使徒パウロとシラス、そしてテモテたちは祈りの場所に行く時に、悪霊につかれた女性に出会います。そして、彼女から悪霊を追い出し、自由にした時に「主人から逆恨みされ、しかも女性を食い物にしていたのに、濡れ衣を着せて牢獄に送られる」ことになります。聖霊に満たされて、常に祈っていて、悪霊を追い出し、霊的な戦いに勝利したのに、神様の素晴らしい働きをしたにも関わらずに、ひどい目にあうことや、迫害に会うことがあります。思わず、何故といいたくなることがあります。しかし、使徒パウロたちは落ち込みませんでした。いや、感情的には落ち込むことはあったかもしれません。しかし、主イエスを賛美することを、祈ることをやめませんでした。牢獄の中で賛美をしました。それは、自分たちの力ではもう、どうしようもない状態だったのかもしれません。もう、どうしようもない状態だったのかもしれません。神様意外に何も起こらない、この状態をどうにかすることができない状態だったのかもしれません。その時に、普通人は「おそれます」もしくは、「神様は自分を愛されているのか?」と不平や不満や疑問を起こします。それは、恐れを持って信仰へと進ませることはありません。彼らは、賛美することを選びました。まさか、そこに神様の地震が起こって奇跡が始まるとは予想できなかったでしょう。しかし、彼らは神様の素晴らしさ、力を賛美することを選びました。恐れに飲まれることはありませんでした。今日、私の中にある恐れでなくて、無条件に神様を賛美して過ごすことを選びます。そのように生きた時に、今日は素晴らしい交わりがあって終えることができました。恐れずに、主を賛美します。
使徒パウロとシラス、そしてテモテたちは祈りの場所に行く時に、悪霊につかれた女性に出会います。そして、彼女から悪霊を追い出し、自由にした時に「主人から逆恨みされ、しかも女性を食い物にしていたのに、濡れ衣を着せて牢獄に送られる」ことになります。聖霊に満たされて、常に祈っていて、悪霊を追い出し、霊的な戦いに勝利したのに、神様の素晴らしい働きをしたにも関わらずに、ひどい目にあうことや、迫害に会うことがあります。思わず、何故といいたくなることがあります。しかし、使徒パウロたちは落ち込みませんでした。いや、感情的には落ち込むことはあったかもしれません。しかし、主イエスを賛美することを、祈ることをやめませんでした。牢獄の中で賛美をしました。それは、自分たちの力ではもう、どうしようもない状態だったのかもしれません。もう、どうしようもない状態だったのかもしれません。神様意外に何も起こらない、この状態をどうにかすることができない状態だったのかもしれません。その時に、普通人は「おそれます」もしくは、「神様は自分を愛されているのか?」と不平や不満や疑問を起こします。それは、恐れを持って信仰へと進ませることはありません。彼らは、賛美することを選びました。まさか、そこに神様の地震が起こって奇跡が始まるとは予想できなかったでしょう。しかし、彼らは神様の素晴らしさ、力を賛美することを選びました。恐れに飲まれることはありませんでした。今日、私の中にある恐れでなくて、無条件に神様を賛美して過ごすことを選びます。そのように生きた時に、今日は素晴らしい交わりがあって終えることができました。恐れずに、主を賛美します。
水曜日, 7月 08, 2009
神様の夢には、備えがある
使徒行伝16;1-15
使徒パウロとシラスは、宣教旅行に向かい第一次宣教旅行で立ち寄ったルステラとイコニウムに再びきます。ここでは、以前に何があったでしょうか。ルステラでは「パウロとバルナバをギリシャ神話でのように神様に仕立てようとした都市」です。また、イコニウムでは「宣教をしていて他からやってきたユダヤ人たちにそそのかされた人々がユダヤ人と使徒たちの派に分かれて石打ちされそうになった」場所です。どちらも、難しく、困難に出会った場所です。もしかして、行きたくない、会いたくないと思えるような状況であったかもしれません。しかし、そこには迫害や困難、命の危険、偶像崇拝の危険があっても、主イエスの福音が伝えられて教会が立てられた場所です。そこには、自分の行きたいとか行きたくないでなくて、神様のビジョンと夢を一緒に持った人が仕えていました。そこには、テモテという若い、新しい働き人が用意されていました。第一次宣教旅行の際にあったかもしれませんが、神様の備えのときに、準備された人材が供えられたのです。今日の黙想は
①困難や迫害のある場所に、自分の会いたくない人や行きたくない場所に行っているのか?
②迫害や困難への自分の対処、扱い方はどうすべきなのか?
③神様の夢を持って自分の人生を従っているのか?
④神様の備えを経験しているのか?パウロたちは第二次宣教旅行ではアジア伝道するはずが、エペソなどギリシャ、マケドニアを行くことになりました、それは、遥かに大きい神様の夢、計画がヨーロッパに広がっていく計画があったのです。そこには、私たちを思って最善の道へ、最高の計画へ導く神様の情熱と愛があったのです。紫布商人ルデヤが備えられて宣教の地へ準備がなされました。泊まる場所もなかった使徒たちに泊まる場所はもちろん、教会、クリスチャンすべてが備えられたのです。現在にこのようなことをしたら大変なことかもしれません。しかし、主の幻を見る人には備えがあります。神様の計画の前に、ビジョンを持って立ち上がっていきます。
使徒パウロとシラスは、宣教旅行に向かい第一次宣教旅行で立ち寄ったルステラとイコニウムに再びきます。ここでは、以前に何があったでしょうか。ルステラでは「パウロとバルナバをギリシャ神話でのように神様に仕立てようとした都市」です。また、イコニウムでは「宣教をしていて他からやってきたユダヤ人たちにそそのかされた人々がユダヤ人と使徒たちの派に分かれて石打ちされそうになった」場所です。どちらも、難しく、困難に出会った場所です。もしかして、行きたくない、会いたくないと思えるような状況であったかもしれません。しかし、そこには迫害や困難、命の危険、偶像崇拝の危険があっても、主イエスの福音が伝えられて教会が立てられた場所です。そこには、自分の行きたいとか行きたくないでなくて、神様のビジョンと夢を一緒に持った人が仕えていました。そこには、テモテという若い、新しい働き人が用意されていました。第一次宣教旅行の際にあったかもしれませんが、神様の備えのときに、準備された人材が供えられたのです。今日の黙想は
①困難や迫害のある場所に、自分の会いたくない人や行きたくない場所に行っているのか?
②迫害や困難への自分の対処、扱い方はどうすべきなのか?
③神様の夢を持って自分の人生を従っているのか?
④神様の備えを経験しているのか?パウロたちは第二次宣教旅行ではアジア伝道するはずが、エペソなどギリシャ、マケドニアを行くことになりました、それは、遥かに大きい神様の夢、計画がヨーロッパに広がっていく計画があったのです。そこには、私たちを思って最善の道へ、最高の計画へ導く神様の情熱と愛があったのです。紫布商人ルデヤが備えられて宣教の地へ準備がなされました。泊まる場所もなかった使徒たちに泊まる場所はもちろん、教会、クリスチャンすべてが備えられたのです。現在にこのようなことをしたら大変なことかもしれません。しかし、主の幻を見る人には備えがあります。神様の計画の前に、ビジョンを持って立ち上がっていきます。
火曜日, 7月 07, 2009
主の働きを諦めないでください
使徒行伝15;30-41
今朝のQT箇所は、なんとバルナバとパウロが第二次宣教旅行に行く前に、「パンフリヤで一行から離れたマルコ」を連れて行く、連れて行かないで、激しい反目になって別々の行動をする、という箇所です。聖書の中で、素晴らしい信仰者であるバルナバとパウロが反目してしてしますなんて、非常に不思議な感じを受けますが、宣教の現場において十分にありうることで、聖書がなんと正直な本であるのか?と思わされます。今日のQTの恵みは、リビングライフの主題と自分の黙想がまさにぴったりのことでした。それは、多くの人が衝突や難しさの中で「伝道を諦めてしまう」しかし、二人はそれぞれのパートナーを見つけて、宣教旅行へ向かった、ということです。本当に心から、主イエスの働きをしたい、と思います。それは、ここ数年の祈りでありますが「福音をを伝えることで生活をできるように」というフルタイムの祈りです。別にパートタイムが悪いとかでなくて、主イエスのために専念できるように願い、祈るのです。私のような罪びとであったものに、弱いものに、経験の少ないものに、そのようなメッセージを下さる主イエスを賛美します。その主イエスだけを伝え、宣教していきます。御言葉を教える弟子をたて、宣教する教会を立てていきます。
今朝のQT箇所は、なんとバルナバとパウロが第二次宣教旅行に行く前に、「パンフリヤで一行から離れたマルコ」を連れて行く、連れて行かないで、激しい反目になって別々の行動をする、という箇所です。聖書の中で、素晴らしい信仰者であるバルナバとパウロが反目してしてしますなんて、非常に不思議な感じを受けますが、宣教の現場において十分にありうることで、聖書がなんと正直な本であるのか?と思わされます。今日のQTの恵みは、リビングライフの主題と自分の黙想がまさにぴったりのことでした。それは、多くの人が衝突や難しさの中で「伝道を諦めてしまう」しかし、二人はそれぞれのパートナーを見つけて、宣教旅行へ向かった、ということです。本当に心から、主イエスの働きをしたい、と思います。それは、ここ数年の祈りでありますが「福音をを伝えることで生活をできるように」というフルタイムの祈りです。別にパートタイムが悪いとかでなくて、主イエスのために専念できるように願い、祈るのです。私のような罪びとであったものに、弱いものに、経験の少ないものに、そのようなメッセージを下さる主イエスを賛美します。その主イエスだけを伝え、宣教していきます。御言葉を教える弟子をたて、宣教する教会を立てていきます。
律法の外見でなくて、意味を伝えよ
使徒行伝15;12-29
エルサレム教会の会議の結果、バルナバとパウロ、そしてユダとシラスは異邦人の教会にこのように伝えます。「偶像にささげた肉、血と、絞め殺したもの、不品行を避けること、これらを注意深く避けていれば~」と言います。それは、偶像礼拝を避けること、唯一の救い主なるイエス・キリストを賛美すること、そして血(旧約聖書はこれを厳しく避けます)、絞め殺したもの、不品行を避けるように言います。それは、律法のエキス、意味を要約したものです。律法を宗教を心無くするのでなくて、その意味を持って罪の生活から離れること、まことの自由を意味します。私のクリスチャン生活は外見だけで、とりあえずこれだけ祈っていれば、QTしていれば、という心のない生活をしていないか?そこには、律法によるクリスチャン生活であり、まことの自由なクリスチャン生活はありません。律法の外見だけを追及する宗教生活には、意味はありません。しかし、律法は神様へ導く、主イエスに導くガイドラインです。主イエスにある自由へ向かう教師です。律法の意味である主イエスに向かい生きます。
エルサレム教会の会議の結果、バルナバとパウロ、そしてユダとシラスは異邦人の教会にこのように伝えます。「偶像にささげた肉、血と、絞め殺したもの、不品行を避けること、これらを注意深く避けていれば~」と言います。それは、偶像礼拝を避けること、唯一の救い主なるイエス・キリストを賛美すること、そして血(旧約聖書はこれを厳しく避けます)、絞め殺したもの、不品行を避けるように言います。それは、律法のエキス、意味を要約したものです。律法を宗教を心無くするのでなくて、その意味を持って罪の生活から離れること、まことの自由を意味します。私のクリスチャン生活は外見だけで、とりあえずこれだけ祈っていれば、QTしていれば、という心のない生活をしていないか?そこには、律法によるクリスチャン生活であり、まことの自由なクリスチャン生活はありません。律法の外見だけを追及する宗教生活には、意味はありません。しかし、律法は神様へ導く、主イエスに導くガイドラインです。主イエスにある自由へ向かう教師です。律法の意味である主イエスに向かい生きます。
月曜日, 7月 06, 2009
教会において必要なこと
使徒行伝15:12ー29
エルサレム会議は、パウロとバルナバの宣教報告を聞くことになります。ここで思うのは、神様の深い配慮です。もしも、エルサレム教会の指導者であり、使徒であるペテロが異邦人伝道を体験せずに、神様の御心を宣言することがなかったら、ここでの宣教はなかったのです。そして、ヤコブが「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません」と「偶像に備えたもの、血、絞め殺したもの、不品行」をさけるようにとパウロ、バルナバ、そしてユダとシラスを遣わすことになります。私は、そのような神様の御心を宣言しているのでしょうか。また、和解の使者として「人を悩まさずに愛と自主的なすすめ」をしているのでしょうか。神様の深い御心を、配慮を今日は黙想していきたいと思います。
エルサレム会議は、パウロとバルナバの宣教報告を聞くことになります。ここで思うのは、神様の深い配慮です。もしも、エルサレム教会の指導者であり、使徒であるペテロが異邦人伝道を体験せずに、神様の御心を宣言することがなかったら、ここでの宣教はなかったのです。そして、ヤコブが「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません」と「偶像に備えたもの、血、絞め殺したもの、不品行」をさけるようにとパウロ、バルナバ、そしてユダとシラスを遣わすことになります。私は、そのような神様の御心を宣言しているのでしょうか。また、和解の使者として「人を悩まさずに愛と自主的なすすめ」をしているのでしょうか。神様の深い御心を、配慮を今日は黙想していきたいと思います。
日曜日, 7月 05, 2009
エルサレム会議の意味
使徒行伝14;19-28
教団の総会、会議というとどんな感じを持つでしょうか。何か、硬い、難しい、真面目にしていないと駄目だ、という感じを受けないでしょうか。私だけでしょうか。今日のQT箇所は「異邦人の救い」に対して、律法を守ることを要求したユダヤ人の要求を解決するために開かれることになったのが、エルサレム会議です。旧約聖書をいただいて待望のメシアであるイエス・キリストを迎え、伝道することができたのがユダヤ人です。ところが、多くのユダヤ人たちは「自分たちも背負うことができなかったくびき」を異邦人に負わせることをしようとしました。それは、「神様を試みる」ことであるペテロは言っています。果たして、私は今までの教会生活、クリスチャンらしい生き方を他の人にも、新しいミニストリーをしている人にも、押し付けることがないでしょうか。他の人の救いよりも、救われた人を共に喜ぶよりも、宗教行為を押し付けることがないでしょうか。エルサレム会議でのペテロの発言は、そしてエルサレム会議の意味は、律法で「自分が負えないくびき」を負わせるのでなくて、恵みによって「相手も自由」にするし、自分が何よりも、自由になることなのです。今日の礼拝、主にある自由の中で礼拝し、交わりをします。
教団の総会、会議というとどんな感じを持つでしょうか。何か、硬い、難しい、真面目にしていないと駄目だ、という感じを受けないでしょうか。私だけでしょうか。今日のQT箇所は「異邦人の救い」に対して、律法を守ることを要求したユダヤ人の要求を解決するために開かれることになったのが、エルサレム会議です。旧約聖書をいただいて待望のメシアであるイエス・キリストを迎え、伝道することができたのがユダヤ人です。ところが、多くのユダヤ人たちは「自分たちも背負うことができなかったくびき」を異邦人に負わせることをしようとしました。それは、「神様を試みる」ことであるペテロは言っています。果たして、私は今までの教会生活、クリスチャンらしい生き方を他の人にも、新しいミニストリーをしている人にも、押し付けることがないでしょうか。他の人の救いよりも、救われた人を共に喜ぶよりも、宗教行為を押し付けることがないでしょうか。エルサレム会議でのペテロの発言は、そしてエルサレム会議の意味は、律法で「自分が負えないくびき」を負わせるのでなくて、恵みによって「相手も自由」にするし、自分が何よりも、自由になることなのです。今日の礼拝、主にある自由の中で礼拝し、交わりをします。
VISIONをSHAREする交わりを持っているか?
使徒行伝14;19-28
使徒行伝14章では、第一次宣教旅行の終わりにパウロが死に掛けるという話が出てきます。ここで、驚くべきことはパウロは殺されかけても「相手を訴えることや復讐をする」ことを選ばなかったのです。宣教旅行の最後にユダヤ人のねたみから殺されてかけても、宣教旅行の最後を「復讐」で終わらせなかったのです。それよりも、さらに宣教へ向かったのです。ここで、私たちが学べるべきことは何でしょうか。
①敵意に復讐で答えないこと
②福音の愛で答えることなのです。そこで、復讐に縛られずに自由に生きることです。
③福音宣教の締めくくりは、今まで伝道して来た地域に戻って
④弟子として、長老たちを立て、祈り、主にゆだねたのです。
⑤いつまでも、主イエスにあって根の残る伝道か、そうでないのか?は主イエスの愛を持って教会を立てるのか?それとも、自分の根を置くのかによります。
⑥シリヤのアンテオケ教会に戻ったパウロを待っていた教会の人々には「神様の宣教のみわざ、異邦人への伝道を分かち合いました」私たちは、このような分かち合いを持っているのでしょうか。パウロは苦難を誇ったり、痛みや傷をなめあうことを絶対にしませんでした。私たちは、私はどのような交わりを持っているのでしょうか。今日は、VISIONを分かち合う交わりを持っていきます。
使徒行伝14章では、第一次宣教旅行の終わりにパウロが死に掛けるという話が出てきます。ここで、驚くべきことはパウロは殺されかけても「相手を訴えることや復讐をする」ことを選ばなかったのです。宣教旅行の最後にユダヤ人のねたみから殺されてかけても、宣教旅行の最後を「復讐」で終わらせなかったのです。それよりも、さらに宣教へ向かったのです。ここで、私たちが学べるべきことは何でしょうか。
①敵意に復讐で答えないこと
②福音の愛で答えることなのです。そこで、復讐に縛られずに自由に生きることです。
③福音宣教の締めくくりは、今まで伝道して来た地域に戻って
④弟子として、長老たちを立て、祈り、主にゆだねたのです。
⑤いつまでも、主イエスにあって根の残る伝道か、そうでないのか?は主イエスの愛を持って教会を立てるのか?それとも、自分の根を置くのかによります。
⑥シリヤのアンテオケ教会に戻ったパウロを待っていた教会の人々には「神様の宣教のみわざ、異邦人への伝道を分かち合いました」私たちは、このような分かち合いを持っているのでしょうか。パウロは苦難を誇ったり、痛みや傷をなめあうことを絶対にしませんでした。私たちは、私はどのような交わりを持っているのでしょうか。今日は、VISIONを分かち合う交わりを持っていきます。
金曜日, 7月 03, 2009
福音の本質を失わない生き方
使徒行伝14;1-18
今日のQT箇所には、宣教するパウロとバルナバへ2つの正反対の反応が出てきます。一つは、ユダヤ人たちが異邦人たちをそそのかして悪意を抱かせる、もうひとつはルステラでパウロやバルナバが癒される信仰のある人を癒したことを見て、また御言葉を聴いて「神様」とする行為です。最初のイコニオムでの宣教への迫害は、大きな痛みであったことでしょう。悪意を抱かせられる、とはどれほどの痛みや心配、そして宣教への妨害となったことでしょう。人間関係の妨害は、誤解や、でまなどはどれほど大きなものだったでしょうか。しかし、この迫害がかえって他の地域に宣教していくことになります。そして、ルステラで宣教する中でパウロたちを通してなされた奇跡を見て、人々はパウロたちを神にしたてようとします。私たちの気をつけるべきことは何でしょうか?3節「しるしと不思議なわざを行わせ、御恵みの御言葉の証明とされた」ということです。大事なのは奇跡でなくて、しるしが示す、SIGNである神様、御言葉であることなのです。私たちが福音を伝える中で、妨害になるのは迫害もありますが、かえって自分に栄光を返そうとする、賞賛の声から、断固として「そんな虚しいものから、まことの栄光の全能の神様に立ち返って、栄光を」返すことが大事なのです。迫害を受けた後に、賞賛の言葉はうれしいし、人の慰めになるかもしれません。しかし、私たちの慰めはそんな価値のものでなく、永遠の主イエスによる褒め言葉、愛されていることが最高の価値なのです。福音を伝える本質をずれさせることは、迫害よりも賞賛の可能性があるのです。そのために福音を伝えているのではないのです。何と人間はその賞賛の声に弱いことでしょう。たとえば、「先生」と呼ばれて気持ちよくなってしまう危険性もあるのです。神様から救われた喜びと、むなしい人生から脱出することを覚えるなら、それがないはずです。むなしいものへの価値観から転換していきます。キリストの大使として生きます。
今日のQT箇所には、宣教するパウロとバルナバへ2つの正反対の反応が出てきます。一つは、ユダヤ人たちが異邦人たちをそそのかして悪意を抱かせる、もうひとつはルステラでパウロやバルナバが癒される信仰のある人を癒したことを見て、また御言葉を聴いて「神様」とする行為です。最初のイコニオムでの宣教への迫害は、大きな痛みであったことでしょう。悪意を抱かせられる、とはどれほどの痛みや心配、そして宣教への妨害となったことでしょう。人間関係の妨害は、誤解や、でまなどはどれほど大きなものだったでしょうか。しかし、この迫害がかえって他の地域に宣教していくことになります。そして、ルステラで宣教する中でパウロたちを通してなされた奇跡を見て、人々はパウロたちを神にしたてようとします。私たちの気をつけるべきことは何でしょうか?3節「しるしと不思議なわざを行わせ、御恵みの御言葉の証明とされた」ということです。大事なのは奇跡でなくて、しるしが示す、SIGNである神様、御言葉であることなのです。私たちが福音を伝える中で、妨害になるのは迫害もありますが、かえって自分に栄光を返そうとする、賞賛の声から、断固として「そんな虚しいものから、まことの栄光の全能の神様に立ち返って、栄光を」返すことが大事なのです。迫害を受けた後に、賞賛の言葉はうれしいし、人の慰めになるかもしれません。しかし、私たちの慰めはそんな価値のものでなく、永遠の主イエスによる褒め言葉、愛されていることが最高の価値なのです。福音を伝える本質をずれさせることは、迫害よりも賞賛の可能性があるのです。そのために福音を伝えているのではないのです。何と人間はその賞賛の声に弱いことでしょう。たとえば、「先生」と呼ばれて気持ちよくなってしまう危険性もあるのです。神様から救われた喜びと、むなしい人生から脱出することを覚えるなら、それがないはずです。むなしいものへの価値観から転換していきます。キリストの大使として生きます。
木曜日, 7月 02, 2009
神様にKEEPINGTOUCHすると何が起こる
使徒行伝13;42-52
パウロとバルナバがピシデヤのアンテオケのユダヤ人会堂で、神様のみ言葉を伝えた時に「来週も神様の言葉が聞きたい」とリクエストがありました。そこで、二人は彼らと話し合って「いつまでも神様の恵みにとどまるように」と言いました。さて、いつまでも神様の恵みにとどまるとはどういう意味でしょうか?また、そのためにどうしたらいいのか黙想しました。いつまでも、神様の恵みにとどまるとはどういう人でしょうか?それは、自分の罪がイエス・キリストを十字架につけたことをいつまでも、忘れずに、自分のありのままの姿を認める人です。
そして、そんな自分がイエス・キリストの十字架によって理由なしに愛され、許されたことに感動し続け、感謝が日々深まる人です。決して、恵みにとどまるとは「ぬるま湯の信仰」とは正反対のものでありません。それどこから、日ごとに新しい主イエス・キリストの十字架の血潮の癒しを受けるものです。日ごとに、新しい神様の声を聞く人です。パウロとバルナバたちは、次週の会堂での説教でユダヤ人たちから攻撃されます。そして、その時に「永遠の命にふさわしい人」へ神様の恵みが語られることを宣言します。それは、ユダヤ人でなくて異邦人に対して福音が語られるでした。永遠の命にふさわしい、とはどういうことでしょうか。やはり、それは自分のありのままの姿を認め、罪を認め、自分の血統やお金や行動でなくて、恵みによってしか救われないことを告白できる人です。異邦人への宣教の扉がここで大きく開くことになります。パウロたちはこの異邦人伝道について「神様の語られた声」をあかしします。このことは直接的に聖書に出てくるのは、この箇所が最初です。しかし、最初の宣教の召しの時か、日ごとに語られる神様の声を聞いていたのでしょう。神様の恵みにとどまる人は、日ごとに神様の声を聞きます。その関係を持ちます。その結果、多くの人が救われました。神様とのKEEPING TOUCHを日ごとにしていきます。聖書通読の恵みと祈りの時間を確保していきます。
パウロとバルナバがピシデヤのアンテオケのユダヤ人会堂で、神様のみ言葉を伝えた時に「来週も神様の言葉が聞きたい」とリクエストがありました。そこで、二人は彼らと話し合って「いつまでも神様の恵みにとどまるように」と言いました。さて、いつまでも神様の恵みにとどまるとはどういう意味でしょうか?また、そのためにどうしたらいいのか黙想しました。いつまでも、神様の恵みにとどまるとはどういう人でしょうか?それは、自分の罪がイエス・キリストを十字架につけたことをいつまでも、忘れずに、自分のありのままの姿を認める人です。
そして、そんな自分がイエス・キリストの十字架によって理由なしに愛され、許されたことに感動し続け、感謝が日々深まる人です。決して、恵みにとどまるとは「ぬるま湯の信仰」とは正反対のものでありません。それどこから、日ごとに新しい主イエス・キリストの十字架の血潮の癒しを受けるものです。日ごとに、新しい神様の声を聞く人です。パウロとバルナバたちは、次週の会堂での説教でユダヤ人たちから攻撃されます。そして、その時に「永遠の命にふさわしい人」へ神様の恵みが語られることを宣言します。それは、ユダヤ人でなくて異邦人に対して福音が語られるでした。永遠の命にふさわしい、とはどういうことでしょうか。やはり、それは自分のありのままの姿を認め、罪を認め、自分の血統やお金や行動でなくて、恵みによってしか救われないことを告白できる人です。異邦人への宣教の扉がここで大きく開くことになります。パウロたちはこの異邦人伝道について「神様の語られた声」をあかしします。このことは直接的に聖書に出てくるのは、この箇所が最初です。しかし、最初の宣教の召しの時か、日ごとに語られる神様の声を聞いていたのでしょう。神様の恵みにとどまる人は、日ごとに神様の声を聞きます。その関係を持ちます。その結果、多くの人が救われました。神様とのKEEPING TOUCHを日ごとにしていきます。聖書通読の恵みと祈りの時間を確保していきます。
水曜日, 7月 01, 2009
朽ちないイエス・キリストを伝えるから本当のことを言える
使徒行伝13:32ー41
使徒パウロの熱弁は、イエス・キリストが十字架につけたのがユダヤ人の指導者たちであること、またそれが預言の成就となったことを伝えます。それは、きついことを言っているように聞こえます。それを聞いて普通の人は怒る話でしょう。しかし、それは私たちの、いや私の罪のためにイエス・キリストは十字架にかかってくださったのです。紛れもない事実であり、真実なのです。これを言うことは人の罪を指摘しますから、逆恨みされたり、罪の自己防衛システムが働いてしまうことが十分に予想されます。
果たして、私はこのように言われても罪の悔い改めを素直に受け止めて、涙を流して、罪の十字架の許しを受けて、朽ちないイエス・キリストの復活の命を受け取ることが出来るのでしょうか。
また、逆にイエス・キリストを十字架につけたのはわたしだと、あなただと福音を伝えるときに言うことが出来るでしょうか。果たして、イエス・キリストの福音に本気な人は両方言うことが出来ます。何故なら、私が十字架につけたことをゆるしてくださるイエスの愛に命をかけた愛の感動があるからです。許されることを知っているからこそ、告白も出来ます。また、そのような告白をした人は真理を告げる以外にありません。それは、イエスの愛を土台にしての話です。朽ちない永遠の価値を持ったイエスの復活を賛美して、伝えます。その価値観の元に人と付き合い、人生の経済管理をします。
使徒パウロの熱弁は、イエス・キリストが十字架につけたのがユダヤ人の指導者たちであること、またそれが預言の成就となったことを伝えます。それは、きついことを言っているように聞こえます。それを聞いて普通の人は怒る話でしょう。しかし、それは私たちの、いや私の罪のためにイエス・キリストは十字架にかかってくださったのです。紛れもない事実であり、真実なのです。これを言うことは人の罪を指摘しますから、逆恨みされたり、罪の自己防衛システムが働いてしまうことが十分に予想されます。
果たして、私はこのように言われても罪の悔い改めを素直に受け止めて、涙を流して、罪の十字架の許しを受けて、朽ちないイエス・キリストの復活の命を受け取ることが出来るのでしょうか。
また、逆にイエス・キリストを十字架につけたのはわたしだと、あなただと福音を伝えるときに言うことが出来るでしょうか。果たして、イエス・キリストの福音に本気な人は両方言うことが出来ます。何故なら、私が十字架につけたことをゆるしてくださるイエスの愛に命をかけた愛の感動があるからです。許されることを知っているからこそ、告白も出来ます。また、そのような告白をした人は真理を告げる以外にありません。それは、イエスの愛を土台にしての話です。朽ちない永遠の価値を持ったイエスの復活を賛美して、伝えます。その価値観の元に人と付き合い、人生の経済管理をします。