危急のときに譲る力はどこから来る?
使徒行伝21;17-26
とうとう、使徒パウロが第三次宣教旅行を終えてエルサレムに到着し、神様が彼を通してなされた異邦人の伝道について話して、聞いた人々は「神様を褒め称える」という内容が最初の聖書本文です。しかし、ここにヤコブや長老たちが集まっている中で、ヤコブはこのような勧めをします。それは、使徒パウロの異邦人宣教を共に喜ぶことができず、かえって使徒パウロが律法をやばることをして、しかもそれを勧めている、という誤解を、もしくはねたみから、攻撃しているという状態があります。そんなパウロを助けるため、またパウロの奉仕している異邦人伝道を妨害させないために、ヤコブはエルサレム教会の中で誓願を立てている4人の頭をそる費用を出し、共に身を清めなさい、という進めと提案をしてくれます。ぱっと聞くと、異邦人伝道を奉仕して、ほめられたり、慰労されたりすることがあっても、自分が費用を出して、さらに奉仕して使えることは聞くほど楽でない気がします。どうして、パウロはすぐに従順することができたのでしょうか。それは、
①異邦人伝道は、主イエスのミニストリーを預かって奉仕しているのであって自分のミニストリーでない
②神様のミニストリーであるために、自分がほめられることや慰労されることよりも、主イエスの使命のために喜んで、ヤコブの提案に従った。
③その秘訣はどこから来るのか?それは、神様によって救われた感謝と、神様の使命をさせていただている、という感謝からです。自分の使命のように背負い込んだりしていないのです。
ある日本の歴史書に、譲るということは我慢することでなくて、感謝という余裕のあるものが、力を持って与えることとありました。まさに、パウロの姿勢はそのようなものがないでしょうか。
私は果たして、パウロのような姿勢で神様に使えているのでしょうか?
また、パウロのような奉仕をする人を批判的に見たり、妨害していないでしょうか。
主イエスへの感謝を持って歩みます。
とうとう、使徒パウロが第三次宣教旅行を終えてエルサレムに到着し、神様が彼を通してなされた異邦人の伝道について話して、聞いた人々は「神様を褒め称える」という内容が最初の聖書本文です。しかし、ここにヤコブや長老たちが集まっている中で、ヤコブはこのような勧めをします。それは、使徒パウロの異邦人宣教を共に喜ぶことができず、かえって使徒パウロが律法をやばることをして、しかもそれを勧めている、という誤解を、もしくはねたみから、攻撃しているという状態があります。そんなパウロを助けるため、またパウロの奉仕している異邦人伝道を妨害させないために、ヤコブはエルサレム教会の中で誓願を立てている4人の頭をそる費用を出し、共に身を清めなさい、という進めと提案をしてくれます。ぱっと聞くと、異邦人伝道を奉仕して、ほめられたり、慰労されたりすることがあっても、自分が費用を出して、さらに奉仕して使えることは聞くほど楽でない気がします。どうして、パウロはすぐに従順することができたのでしょうか。それは、
①異邦人伝道は、主イエスのミニストリーを預かって奉仕しているのであって自分のミニストリーでない
②神様のミニストリーであるために、自分がほめられることや慰労されることよりも、主イエスの使命のために喜んで、ヤコブの提案に従った。
③その秘訣はどこから来るのか?それは、神様によって救われた感謝と、神様の使命をさせていただている、という感謝からです。自分の使命のように背負い込んだりしていないのです。
ある日本の歴史書に、譲るということは我慢することでなくて、感謝という余裕のあるものが、力を持って与えることとありました。まさに、パウロの姿勢はそのようなものがないでしょうか。
私は果たして、パウロのような姿勢で神様に使えているのでしょうか?
また、パウロのような奉仕をする人を批判的に見たり、妨害していないでしょうか。
主イエスへの感謝を持って歩みます。
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