坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 7月 28, 2009

神様の清さを持つ人がまことの勇気を持てる

使徒行伝23:1-11
今日のQT箇所には、大祭司がパウロを打て、とする箇所があります。それに対して、不当な攻撃にパウロは「白い壁」とはっきりと言います。私たちクリスチャンは黙って打たれることをよしとすることがあります。それは正しいのですが、相手が誤っていることを、罪を犯していることを指摘しないことや、ほおっておくことをヨシトスルノデハありません。パウロはその前にこういいました。「私は神様の前にきよい両親を持って生活をしてきました」そのような人のみが言える、正しい主張と裁きがあります。私たちはこの世の中の誤った裁きや権威の中に苦しめられてきました。そのために黙っていしまうことがあります。自分の立場を守るために、騒動を起こさないために静かにしていることがあります。しかし、まことの権威を持って、裁く人は神様の前に清い生活を送る人です。それは、宗教生活的な、動機の無い、心の無い、何よりも神様との関係の無い、生活ではありません。神様を愛する生活の中に、主イエスの十字架によって歩むものに清い生活があります。その人には、人を正しく裁くと言う権威と責任があります。大祭司は、ここから遠い神様と関係の無い宗教生活をしてしまったのです。パウロに主は言われます。エルサレムで証しをしたように、ローマでも主イエスの証しをすることになります。神様との関係を持っている人には、さらに広く、遠く、大きく、神様の証しをすることになります。それは、勇気を持っての行動です。主イエスはパウロに語られました。「勇気を持ってあかしせよ」と。神様の清さの中にあるまことの勇気を持って行動します。