坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 7月 03, 2009

福音の本質を失わない生き方

使徒行伝14;1-18
今日のQT箇所には、宣教するパウロとバルナバへ2つの正反対の反応が出てきます。一つは、ユダヤ人たちが異邦人たちをそそのかして悪意を抱かせる、もうひとつはルステラでパウロやバルナバが癒される信仰のある人を癒したことを見て、また御言葉を聴いて「神様」とする行為です。最初のイコニオムでの宣教への迫害は、大きな痛みであったことでしょう。悪意を抱かせられる、とはどれほどの痛みや心配、そして宣教への妨害となったことでしょう。人間関係の妨害は、誤解や、でまなどはどれほど大きなものだったでしょうか。しかし、この迫害がかえって他の地域に宣教していくことになります。そして、ルステラで宣教する中でパウロたちを通してなされた奇跡を見て、人々はパウロたちを神にしたてようとします。私たちの気をつけるべきことは何でしょうか?3節「しるしと不思議なわざを行わせ、御恵みの御言葉の証明とされた」ということです。大事なのは奇跡でなくて、しるしが示す、SIGNである神様、御言葉であることなのです。私たちが福音を伝える中で、妨害になるのは迫害もありますが、かえって自分に栄光を返そうとする、賞賛の声から、断固として「そんな虚しいものから、まことの栄光の全能の神様に立ち返って、栄光を」返すことが大事なのです。迫害を受けた後に、賞賛の言葉はうれしいし、人の慰めになるかもしれません。しかし、私たちの慰めはそんな価値のものでなく、永遠の主イエスによる褒め言葉、愛されていることが最高の価値なのです。福音を伝える本質をずれさせることは、迫害よりも賞賛の可能性があるのです。そのために福音を伝えているのではないのです。何と人間はその賞賛の声に弱いことでしょう。たとえば、「先生」と呼ばれて気持ちよくなってしまう危険性もあるのです。神様から救われた喜びと、むなしい人生から脱出することを覚えるなら、それがないはずです。むなしいものへの価値観から転換していきます。キリストの大使として生きます。