坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 7月 19, 2009

宗教心に厚い人生を送っていないのか?

使徒行伝17;22-34
アテネの人たちは、多くの偶像を作り、囲まれて生きていました。それは、本当に宗教心に厚い意味でなくて、「これも神様、あれも神様、これも真理、あれも頼れるもの」という多元主義の中で生きていました。宗教心に厚いとは、まことの真理の周りをくるくる回る行為のようなものです。まことの神様の周りを回るような人生です。それは、まことの神様に出会うことがありません。その遊びのような宗教生活は、霊的な命の無い人生をおくらせます。私たちは、はたしてそのような霊的な命の無い人生を送っていないでしょうか。もちろん、アテネのような人では無いにしても、宗教の周りをくるくると回る人生を送っていないでしょうか。それは、奉仕をしていても、多くの教会活動に参加していても、礼拝をささげる、神様に出会うときを持っていないのなら、何年も教会に通っても、礼拝の時間が苦痛であったり、行かないといけないものであるから行くという日本人の真面目さのような、神様に満足していただく宗教生活というよりは、自己満足の宗教生活になってしまうのです、それは、自分が犠牲してあげている、という意識を生み出し、何かあると「こころみ」にあってしまうのです。素晴らしい偉大な神様に出あうことなく、神様の計画を知ることも無い、神様と私は関係の無い宗教生活を送っているのです。QTを通して、神様の愛を受ける、計画を知る人生を持ちます。