坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 12月 31, 2009

あなたの人生にイエスはロゴスされたか?


ヨハネの福音書1;9-18
神様であるイエス様は人となられて神様の愛が分からない私たちのために受肉されました。私の現実に神様が入ってきてくださったのです。しかもそれは、豊かな神様の愛に義にあふれていました。神様が分からない人のためにイエスが来て下さったのです。神様をわからなければ、主イエスを見ればいいのです。恵みと真理は普通相容れないものです。しかし、ただ主イエス・キリストの十字架に恵みと真理があるのです。罪によって離れていた私を救うために、来て下さったのです。しかも、神様は儀なる方ですから、罪を受け入れることは出来ません。そのために、愛と義を全うするために十字架に架かってくださったのです。その主イエスを受け入れたものは「神様の子」とされる特権を与えられました。そして、神様を知らずに、暗闇の人生を歩いていた私に、光として神様の下さった人生を歩むことが出来るように回復してくださったのです。それは、全ての人への「例外の無い」招待状です。イエス・キリストの栄光によってぼろぼろの私の人生を満たしてくださいました。それは、イエス・キリストの十字架にあります。神様が私の人生に、現実に「みことば」がロゴスした瞬間なのです。しかし、それは救いで終わるだけものではありません。人生の全てを通して導きがあります。神様の御言葉を現実に入ってきた瞬間を、ひごとに味わって生きます。

ラベル:

主に与えられたポジションで生きよ!


ヨハネの福音書1:9-18
バプテスマのヨハネは、「あなたは誰か?」という質問に応えます。それは、自分が救い主でなくて、エリヤでもなくて、荒野で「主が来られる道を整える」叫ぶ声だと言うものでした。それは、自分の使命を知り、正しく行い、生きて、神様の計画に従順して、一番輝く人生を生きる人のアイデンティを持つものでした。人は自分が誰かと言う質問にどのように応えるのでしょうか?自分は社長だとか社員だとか、主婦だとか、学生だとか言えるかもしれません。しかし、社会の地位は状況や都市によって変わるものです。そうでなくて、神様の下さった自分の価値を正しく生きるときに、本当に自分らしく輝けます。無茶な自分の限度を超えて自分を自慢したり、自分の生きるべきでないところにいくことがありません。バプテスマのヨハネにとって、自分が救い主であったり、有名な預言者やスターになることの誘惑が会ったでしょう。しかし、それを拒否して神様の下さったポジションで生きるときに最高の人生が会ったのです。自分を主イエスの前に価値の無いもの告白しました。今日、主に与えられたポジションで生きていきます。神様のみ心を語る僕としていきます。

火曜日, 12月 29, 2009

私の人生を「ことば」で創造された神様


ヨハネの福音書1;1-8
御言葉なる神様は、世界の最初からいや時間と言うもの自体が創造される前から存在され、この宇宙を造られた方です。そして、宇宙を地球を「みことば」によって創造されたように、私をも創造されたかです、私の人生を創造された方です。その方は、人間に特別扱いしてくださいました。それは、人格を持って交わる存在として扱ってくださったのです。人間を神様の形に似せたものとして創造され、神様の息を吹き込まれ、永遠への思いを持つ魂を持つ存在とされたのです。その神様は、神様の創造された愛に溢れ、神様との交わりを持って明るく光り輝く人生から、離れている私たちのために、神様の愛を表すために、人となってきてくださったのです。神様の私たちのあるべき、幸福な、喜びを享受する人生の回復作戦がスタートしたのです。今年、神様のみ言葉によって人生を歩んでいきます。QTの時間を、きよめて回復します。

月曜日, 12月 28, 2009

わくわくする人生を歩みたいか?


箴言5:1-9、9:9-11
神様の命の道を歩みたいか?そして、良い人生を歩みたいかは「知恵」を得るかどうかによります。信頼すべき人と付き合い、愛すべきものを愛し、逆に、信頼してはいけない人やものや偶像から離れるのか?ということです。知恵とは神様を恐れ、神様の道が最善であることを信じることです。逆に、耳障りが良くても「神様の御言葉」でないものから離れないといけません。私の立つべきところ、基礎である主イエス・キリストに立つときに、出会ってはいけない人、通っては行けない人が見えてきます。わくわくする人生、それは主イエス・キリストと共に生きる知恵から来るものです。今朝、QTをしていて感動し、感謝したのは「人間である私がまるで神様のところに苦労し行ってあげて、神様のみ声を聞こうとしている」でなくて、既に神様が待っていてくださるし、語りかけてくださることを覚えたことです。それは、「わが子よ」という愛する父なる神様の呼びかけを通しでした。何と、私は高慢なのか?過去の挫折や痛みや傷、日ごとの傷から解放されず、神様の愛を受け損ねているのかと思いました。神様の愛されている子としてわくわくする、神様の知恵と計画による人生を歩みます。

ラベル:

日曜日, 12月 27, 2009

神様の祝福の方式


申命記28:1-14
神様の祝福の方式は、すごく単純なものです。それは、神様の声を聞いて従うことです。しかし、それは簡単でないかもしれません。それは、一部だけ神様の声を守るのでなくて、全部を右や左にそれることなく守ることなのです。完全に守ることなのです。どうしたらいいのでしょうか?難しいように感じます。守れるのでしょうか?その秘訣は意外と簡単なところにあります。それは、神様を愛することにあります。愛する人との約束や同じように生きるためには、その一部や一部の時間だけを守って、他の人や他のものと浮気をすることは出来ませんし、したくもないはずです。神様を愛するときに神様の声を求めます、共に生きることを願います、共に生きれないようなことをすることを避けようとします。何故なら、神様と共に生きることが喜びだからです。そこには、従うという言葉なくして、命を捧げる献身があります。主の名前で呼ばれる人はぞんざいに扱われません。その祝福と守りを信じるなら、主の名前で呼ばれたいと思うはずです。クリスチャンは「キリスト狂い」という意味です。そう呼ばわれることに初代教会のクリスチャンは苦難をも慶んで受けたのです。神様の名前で呼ばれる、キリスト狂いという愛の人生を生きます。そこに、神様から来る祝福があります。祝福の人生を歩みます。

土曜日, 12月 26, 2009

神様がおられてこそ光がある


イザヤ60;1ー4,61:1-3
「起きよ、光を放て」というQTから新年は始まります。それが、クリスチャンとしてのあるべき姿であり、神様からの使命を受けた人生であり、最高に自分らしく輝く人生だからです。しかし、そのためには自分の努力や力や知恵や経験でなくて、神様の光に導かれた人生を歩むときにこそ、輝く人生を歩むことが出来ます。神様の光があってこその栄光です。そこには、罪や汚いものがあっては穢れが照らし出されます。人間は、真理の前に出てくるのを恐れます。それは、罪の自己防衛です。しかし、イエス・キリストの十字架の愛がある時に、ゆるしを確信して出て行けます。そこには、囚われ人には解放を、傷ついたものには癒しを与えるヨベルの年が来ます。来年を主イエス・キリストを伝えることを通して、JUBLIEEの癒しと解放を伝え、主イエスの栄光の年になることを祈ります。GOD BLESS AMERICA AND JAPAN

金曜日, 12月 25, 2009

悲しみの預言者は回復を宣言する


第二歴代誌36:10-23
悲しみの預言者であるエレミヤは、南ユダ王国の王であるゼデキヤに「主の言葉」を語ります。しかし、ゼデキヤ王は「うなじのこわいもの」となり、「反抗し」「心を閉ざし」「主に立ち返らない」行動をとりました。それだけでなくて、主に仕える祭司たちを偶像礼拝へ導き、従わせて、自分の誤った権威と影響力へ連れて行きました。エレミヤは、悲しみの預言をしながら洞窟で哀歌を書き、エジプトに連れて行かれ、またエルサレム落城の際には、王からから井戸に投げ込まれて逆にバビロンに、エジプトに助け出されることになりました。彼の変わらない心は、神様を愛する心は、イスラエルをクリスチャンを、教会を愛する心は、神様の回復する預言を伝え、70年後の回復へ向かうクロス王の宣言へとつながっていきました。この年末を迎えるときに、神様の前に教会、神様の家族と言う共同体の前に素直に心を開き、感謝して、神様の回復のときを宣言して進みます。

木曜日, 12月 24, 2009

言われているうちが花だ


第二歴代誌36;1-9
ヨシヤ王が、エジプトの王であるネコに殺された後に、彼の後に息子たちが王になります。しかし、それは「神様が立てた」のでなくて、「民が選び王にした、エジプトの王に王を変えられ、名前を変えられる」ようなことでした。それは、神様の警告を無視した結果でした。しかも、変えられた王たちはそれでも「主の目の前に悪を行った」のです。厳しい神様の裁き似合うとき私たちはどうすべきでしょうか?それは、神様の愛を信じることです。逆説的ですが、マナセ王は人生の殆んどを神様の前に悪を行いましたが、バビロンへ轢いて連れて行かれたときに、「悔い改めて、謙遜になり、主こそ神であること」を知りました。一番理解の難しいことですが、父なるヒゼキヤの信仰の宗教改革を壊しながらも、あくを行いながらも、裁きにあったときに、神様の前にへりくだり、悔い改めました。そこに、神様の回復が会ったのです。はたして、傷や困難や痛みが、裁きが、神様の警告がある時に、正しく神様の道へと回復しているのでしょうか?それが、成長する道へ進んでいるのでしょうか?神様の言葉のあるうちに、愛に回復していきます。さらに、成長する、きよめられる人生として今の人生、環境を歩んで生きます。

ラベル:

水曜日, 12月 23, 2009

奉仕する人は、神様の召しに忠実に


第二歴代誌35:10-27
過ぎ越しの祭りを行うのに、祭司とレビ人が仕えました。
①:王の命令どおりに行いました。神様にあるリーダーシップに忠実に奉仕しました。
②:おのおの定めどおりに仕えました。神様の奉仕のルールに自分の意見や不平や不満を挟むことなく仕えました。それは、神様の召しに忠実に、喜びを持って仕えたのであると思います。
神様の召しは、比較でありません。私のようなものが神様に呼ばれたことがどれほど貴重なのか?知らないといけません。
③:神様の召しは、一人でなくてチームで呼ばれます。愛し合う中で、共に奉仕する中で呼ばれます。一人で清い奉仕をするのでなくて、人との出会い中で共に仕えます。
④:レビ人や祭司自身も、過ぎ越しの祭りを受ける必要があります。彼らのために仕える人が必要でした。そのフォローアップが必要でした。私たちは奉仕する人たちのために補助をしているのでしょうか?
⑤:毎日、私自身がイエス・キリストの十字架の血潮できよめられているのでしょうか?
召しに忠実で居られるのは、恵み意識と神様への信頼からです。神様の召しとチームで仕えます。

火曜日, 12月 22, 2009

私たちのスタートであり、何度も返るポイント


第二歴代誌35;1-9
ヨシヤ王は、第一の月に「過ぎ越しの祭り」を行います。しかも、国費や人々の税金で「全焼のいけにえ」や「和解のいけにえ」をするのでなくて、自分のお金で捧げたのです。多くの南ユダ王国の王様のキリストへ変える宗教改革の最初が、過ぎ越しの祭りでした。ヨシヤ王もそうでした。何故でしょうか?それは、キリストの十字架の血の購いが、私たちの信仰のスタートであり、いつもそこにかえっていく行動のパワーソースだからです。そして、ヨシヤ王は「神様と人の間」の執り成し人である「祭司」と「レビ人」を「力づけ」ました。そして、身を聖別し、主のみ言葉通りに行うことが出来るように、任命していきました。もう一度、いや日ごとイエス・キリストの十字架の罪の赦しに返っていきます。そして、主の働き人の人生を歩んでいきます。また、主にある兄弟姉妹励ましていきます。

月曜日, 12月 21, 2009

主に従う道を教える霊的リーダー


第二歴代誌34:29-33
ヨシヤ王は、神様のみ心を聞いたときに、ユダ王国の長老たち(リーダーシップたち)を集めます。それは、主に従う道を教えるためでした。そのためにしたことは、主の宮で見つかった「神様の言葉」私たちの固く立つべき礎をシェアすることから始めました。神様のリーダーは生きるべき道を教えます。そのヒケツは、礼拝と御言葉から来ました。そして、そのヒケツの場所である神様のみ言葉を分かち合いました。今週は、神様にある御言葉を華族で分かち合う時間を持っていきます。忙しい年末、年始だからこそ、神様の御言葉の基礎に変える分かち合いの時間を持っていきます。人々に、家族に、神様の道に立つ御言葉を分かち合っていきます。

ラベル:

日曜日, 12月 20, 2009

神様の道を見た瞬間、胸がさかれるのか?


第二歴代誌34;14-28
今日から、また歴代誌のQTです。今日の内容は、主の宮で律法の書が見つかる所からです。ヨシヤ王は、主の律法が見つけられたときに「自分の衣」をさきます。はたして、今までイスラエルには「主のみ言葉」が不在であったのです。ヨシヤ王は神様の道が示されたときに、それと違う自分の人生に胸をさきます。それだけでなくて、「主の御心」を求めに行かせます。神様のみと自分の道が違うことは何と寂しいことでしょうか?しかし、それだけでなくて「神様の道」と「自分の道」が違うときに、悲しみの痛みがないことがもっと怖いことなのです。また、神様の道を求めるために、主の御心を求めるために、「女預言者」のもとへ向かうことになりました。
私たちの心に、私のここに必要なことは、クリスマスに、年末に必要なのは「謙遜な、貧しい」心でないでしょうか。神様のみ心を求める謙遜な心であり、人を通しての痛い言葉に耳を傾ける姿勢でないでしょうか?そのようなヨシヤの心に、神様は哀れみの心で応えてくださいました。神様のみ胸に従って歩んでいきます。

ラベル:

土曜日, 12月 19, 2009

あなたは王様に何を捧げるのか?


マタイの福音書2:1-12
東方の博士たちが、イエスを拝みにやってきます。それは、外国人がユダの王様になる子供を拝むのは非常に不思議なことでした。既に、エドム人の王であるヘロデが居ました。それは驚愕の訪問だったのです。それは、彼ら東方の博士たちが旧約聖書を読み、メシアが来られることを喜んで迎えたのです。ところが、当時のユダヤ人たちは東方の博士たちが聖書を読み、メシアを求めて来たのにもかかわらず、最初に祝福を受けて聖書の約束をもらったイスラエルの民が「東方の博士の訪問」によって(まるで黒船の到来によって目覚めさせられた日本の幕末のようですね)聖書を探し求めてヘロデに話すことになります。私たちは果たして、既に救われたものとして神様の約束のみ言葉である聖書から、神様が再び来られてもいいように、準備した人生を生きているのでしょうか?また、どのようにクリスマスを準備しているのでしょうか?東方の博士たちは、数年かけてイスラエルにやってきたと思われます。そして、神様の一人子を迎えて、礼拝するために、準備した宝の箱を開けました。列王記、イザヤ、そしてマタイの福音書と、私のまことの王様を迎える準備が出来ているのでしょうか?神様は最高のプレゼントしてイエス・キリストを送ってくださいました。私の心にある宝の箱は何でしょうか?このクリスマスを聖書を黙想しながら、準備していきます。私自身の献身をもって迎えます。

金曜日, 12月 18, 2009

人の思いと神様の心


マタイの福音書18;18-25
聖霊によってマリヤが身重になったとき、ヨセフは「正しい人」であったためにいろいろ思い巡らしたとあります。彼は正しい人であり、彼女をさらし者にしたくないと思ったとあります。ヨセフが高い倫理観を持ち、それだけでなくて相手へ愛や配慮をすることの出来る常識人であったことを思わせます。果たして、私はそのような愛と配慮を持っている人なのか?とさえ思わされます。
しかし、神様の奇跡は、ありえない神様の最大作戦は人間の常識を超えて働いていました。
ヨセフに、神様は夢を通して「聖霊によって身ごもった男の子は罪から人を救う」という神様の奥義中の奥義を語ってくださいます。人間的には理解できません。しかし、そんな人間を通して神様は共同作業をなさってくださいます。それも、上からのトップダウンの方法でなくて、神様の夢を語ってくださいます。そこに、ヨセフの従順がありました。神様が人間と共に居てくださるのはありえない話です。何故なら、神様は聖だからです。イスラエルの神様として「共に戦う神様」としておられた旧約聖書時代、イエス・キリストが肉体を取ってこられた新約聖書時代、そして続く現在にも聖霊様が共におられます。清くないと共に居ることのできない神様。しかし、そのために自らがイエス・キリストが、十字架にかかってくださり、罪をきよめてくださいました。その主イエス・キリストを賛美します。イエス・キリストを伝えます。神様の夢に従います。

ラベル:

木曜日, 12月 17, 2009

大変な時に「しかし」という逆転劇がおこる


イザヤ9;1-7
今日からクリスマスのQTでした。その最初の言葉は「しかし」という言葉から始まります。今まで歴代誌のイスラエルの滅亡の歴史を体験している状態の苦しい時に、「それで終わらない」という希望のメッセージが来ます。まさに、最高のQTカリキュラムですね。「闇の中を歩いている民に、死の陰を歩んでいる者たち」に「光が来ました」それは、主イエスが来られることによって私の人生に光が、歩むべき人生の道が分からない人に、イエス・キリストと言う神様の愛によって照らされる奇跡が、逆転が起こりました。私の人生に、はたして光は来ているのでしょうか?福音を聞いて、伝えることで、喜びが起こっているのでしょうか?収穫のある人生を歩んでいるのでしょうか?自分自身が人々から解放をされている人生を歩んでいるのでしょうか?それは、イエスキリストが自分の王座を、天国の栄光を捨てたための祝福と愛です。その神様の愛を心より賛美します。ほめたたえます。そのキリストの愛によるハーベストの人生を歩み、伝えます。

ラベル:

水曜日, 12月 16, 2009

リバイバルは聖めから


第二歴代誌34:1-13
ヨシヤ王は8歳で王になり、16歳の時に「神殿礼拝」を回復しようとします。その第一は、
①:「きよめ」からでした
②:その原動力は、「主の目にかなうことを」行うことからでした。
神様を愛することから、神様を愛することからスタートしました。そして、それは偶像を除くこと、それも徹底的に、偶像崇拝を行わせた人々を除くことからスタートしました。ある意味過激と思えるほどの行動でした。はたして、私はそこまで罪を憎み、根源を切り捨てることをしているのでしょうか?そこまでしなくてもいいという、状態で歩んでいないでしょうか。ぬるま湯の信仰生活、きよめの無い生活をしていないでしょうか?
③:また神殿の回復は祭司とレビ人たちの奉仕の回復であり、献金の回復でもありました。
④:共に神殿礼拝に仕えていく回復でした。
信仰生活のリバイバルは、一人でするものでなくて、共同体で共に奉仕し、ささげ、仕えるものでした。ベストを尽くして奉仕をしているのでしょうか?ささげものがあるのでしょうか?きよめを自分から、そして共同体の中で、きよい影響力をもって仕えます。主よ、きよめて用いてください、

ラベル:

悔い改めとは愛に回復すること


第二歴代誌33:10-
ヒゼキヤ王の後に、このマナセが王となりました。しかし、彼の前半の人生は神様以外のものを偶像礼拝し、偶像を神様の宮におき、占いをし、イスラエルの民を迷わせました。そして、主の目の前に悪を行い、主の怒りのためにアッシリヤの将軍の配下により、バビロンに連れて行かれました。その悩みの中で、マナセはおおいにへりくだった時に神様は哀れんでくださり、もう一度イスラエルに戻してくださいました。そして、マナセは後半の人生を「主こそ神である」ことを知る人生へ戻していきました。偶像を除去し、礼拝を回復しました。はたして、神様のあわれみはいかばかりでしょうか?また、マナセのへりくだりはどうでしょうか?本当に素直に神様の前に「謙遜」になっているでしょうか?意外と誤って、悩みの中に会っても「悔い改め」は難しいものです。しかし、神様へ悔い改めるなら、「愛の関係へと回復」してくださることを覚えたいと思います。悔い改めて、ごめんなさいで「以前に罪を犯したもの」という白い目でなくて、礼拝者として、人々に良い影響を与えるものとして生きる真の人生の道が用意されているのです。愛の関係に回復する悔い改めをしていきます。

ラベル:

月曜日, 12月 14, 2009

神様のアイデンティを失うならどうなる?


第二歴代誌33;1-9
イスラエルには、ユダには血統的な民族としてのアイデンティより、神様に選ばれた、信仰者として応えたアイデンティが大きくありました。永遠に神様の名前が於かれるところであるエルサレムに、その神殿に、ヒゼキヤの息子であるマナセは偶像をおきました。ふと、思わされました。
Q:何故、神殿に偶像を於いたのか?わざわざ、そうする必要が会ったのか?人間的な常識ではありえないことのはずです。クリスチャンとしてなら、余計そうでないでしょうか?
ふと、黙想させられたのは「神殿とは私の心でないか」という黙想でした。私の心の中に聖霊様は住まわれています。そこには、偶像が住むことが無いのか?ということでした。クリスチャンとしての至高の召命である人生に、イエス・キリストに似ていく人生を歩むことなく、他の偶像、外に歩んでいく人生が無いでしょうか?神様を伝え、キリストの弟子となって、キリストの弟子を再生産する人生から外れていくときに、最悪の人生になるのでしょうか?また、神様は私の人生や心の一部を臨まれるのでなくて、全てを望まれます。全てに臨まれます。神様のアイデンティを確信して、その人生を歩みます。他のことへ、現実の必要のために歩みません。

ラベル:

日曜日, 12月 13, 2009

低い心に恵みは注がれる


第二歴代誌32:20-33
ヒゼキヤの素晴らしいところは何でしょうか?それは、彼が自分が誰かを知り、神様の恵みを低い心で求めたことです。彼が危機に陥るたびに、「天国に叫ぶ祈り」をしたことです。それに神様は応えてくださいました。アッシリヤのセナケリブは自分の国に帰って自分の鼓舞した偶像の宮で暗殺されました。偶像に頼るものは、偶像によってほろびました。しかし、ヒゼキヤは神様の勝利の後で高慢になってしまいました。そこでも、ヒゼキヤの感謝な部分は、「すぐに悔い改めた」ところです。私たちの心はすぐに悔い改めないところに、心がかたくなになります。かえって、人生が難しくなります。ヒゼキヤの人生の最後は、人々から栄光を受けました。低い心に恵みは注がれ、天国と栄光が来ます。神様の恵みを受けていく低い心になります。

ラベル:

土曜日, 12月 12, 2009

神様の人は自分が奮い立ち、人々を奮い立たせる


第二歴代誌32:1-19
ヒゼキヤの誠実な人生の後に、アッシリヤの王であるセナケリブがユダに攻めて来ました。誠実に人生を歩んだ後に、神様への礼拝を回復した後に、危機が訪れました。普通、祝福がクルとか、続くと思うのでないでしょうか?思わずに、試みに会いそうな瞬間です。
しかし、このような時こそ、信仰の実力が問われます。それは、周りの状況を見るのか?世の中の私への脅かしと神様を信じるな、という偽の声と戦います。それは、自分の感情をゆるがせます。世の中の悪の勢力は、受動的ではありません。能動的です。ですから、私たちは神様のみ言葉を基礎にして立ち上がらないといけません。それは、周りの声に揺らされずに、自分が奮い立ち、周りを奮い立たせます。危機の時に、神様にあって奮い立ちます。

ラベル:

金曜日, 12月 11, 2009

神様の目的の人生を歩むなら


第二歴代誌31;9-21
ヒゼキヤの人生は、神様から素晴らしい評価を受けました。それは、決して失敗や過ちの無い人生ではなくて「心と、忠実に行う人生」でした。イスラエルの捧げ物があふれて、山と詰まれたときに「その」説明を求めました。それは、神様の大きく祝福された人生であり、それを証しできる最大のチャンスでした。思わず祈りました。神様の祝福で生きた人生を証しできるようにしてください、と。そのためには、過ちの無い人生ではなくて「神様の目的にある人生」に忠実に生きることが必要です。私には、そのような力はありませんが、神様へ助けを求めて歩んでいきます。神様に作られた目的の人生へぶれずに歩んでいきます。揺れてしまうこともありますが、神様にあって歩みます。

ラベル:

木曜日, 12月 10, 2009

4ヶ月にわたる捧げ物を見たことがあるか?


第二歴代誌31;1-8
神様のリバイバルがおこると、そこには生活の変化が起こります。実質的な神様の働きやその御手が生活の中に祝福として現れます。それは、
1:自分の中にある、神様の都市にある偶像を捨てます。私の偶像とは何でしょうか?
それは、恐れでないかと思いました。神様にある信仰よりも現実を恐れるものです。
2:それは、絶ち滅ぼすものです。無くなってしまう者です。
3:感謝と賛美。経拝と賛美が溢れる人生となります
4;王であっても、ささげものを自らがします。自発的な献身があります
5:祭司とレビ人はフルタイムで専念させます。
6:4ヶ月にわたるささげものがでてきます。
このような献身を見ているでしょうか?このような祝福を自分の人生で体験しているのでしょうか?このような教会生活を体験しているでしょうか?体験したいのでしょうか?偶像を捨てて、神様に頼る人生を歩みます。

ラベル:

水曜日, 12月 09, 2009

アンコールチャーチとは何か?



第二歴代誌30;13-27
ヒゼキヤの礼拝への招待状に応えた民たちは、神様の民であるイスラエルとしての正当な自分の自画像を取り戻しました。それは、神様を信じる人です。それは、キリストの十字架によってのみ、私の罪がゆるされることを信じ、告白します。神様の願われる律法を自ら喜んで守ります。何よりも
1:喜んで礼拝をささげます
2:心からの行動を捧げます
3:礼拝の中での祈りが応えられます
4:天国に届く礼拝がささげられます
5:自分自身を聖別します。
6:自由に告白があります。
7:CELEBRATIONがあります
8:ささげものがなされます
9:強い賛美があります
10:聖餐式の交わりがあります
11:個人でなくて、チームで、礼拝をささげます
12:礼拝が終わって、さらに礼拝を続けるアンコールを要請しました。
それを導いたのは、ヒゼキヤです。彼は、22節「主の務めに良く通じているレビ人の心に語りかけた」とあります。リーダーは人の心に語りかけます。知識ではありません。そして、誰にでも語るのでの出なくて、神様の務めに通じている人に集中して、用いるリーダーシップが必要です。礼拝のために準備できていない人が居ました。彼らに奉仕のために語ってのでありません。彼らを赦される神様へ祈ったのです。何と素晴らしい愛の方でしょうか?私たちは、このようなアンコール礼拝に招かれたのなら、どのような準備をしていくのでしょうか?どのような服装をしていくのでしょうか?友人に「かわいい服側や髪型を褒められても嬉しいのに」どうでもいい格好で行くのでしょうか?神様のためにもっとささげたいという礼拝をしていきます。

火曜日, 12月 08, 2009

あなたは一人で礼拝に行く人か?礼拝に友人を招待する人か?


第二歴代誌30;1-12
ヒゼキヤは、ユダ王国だけでなくて「過ぎ越しの祭り」に礼拝に参加するように招待をします。それは、主に立ち返るなら主は愛し、回復してくださる、人生の回復、国の回復を確信し、人々を招待しました。自分のあるべきアイデンティを回復するように招待しました。その反応は、
1:人々は彼らをあざ笑い、という反応
2:ある人々は、へりくだってやってきたのです。
はたして、私は礼拝への招待状を人々に送ったでしょうか?その前に、結果を考えたり、悩んだりしていないのでしょうか?礼拝へ共に行こう、という招待状を送っているほどに感激や恵みが溢れているのでしょうか?人生への回復へのキリストの十字架の招待へ応えるなら、人々を招かずにはいられません。神様の招待状を送ります。礼拝が始まることを伝え、人々を招待していきます。

月曜日, 12月 07, 2009

義務や形からでなくて人をたてよ


第二歴代誌29:25-36
生きている共同体には、組織には、生き生きと人を立てて、次の世代の人を立てていく喜びがあります。不足なように見えても、満ち溢れます。そこには、全焼のいけにえをささげるまで、賛美と感謝が止まりませんでした。ヒゼキヤ王は、賛美のためのチームを立てました。それは、預言者と先見者を通して、与えられた神様のメッセージによるものでした。それに従うヒゼキヤ王と民たちがいました。ここから与えられる恵みは、
①人を立てるのは神様の命令であること
②神様の働きはチームですることで、単独ですることではありません。
③人を立てるのは、霊的なリーダーを通しての神様の声による指名でした。今風に言えば、墨子先生や霊的なリーダーからのメッセージでしょうか。
④霊的なリーダーからのメッセージに従順することで、神様のチームは出来ました。私は霊的なリーダーを信じ、従っているのでしょうか。
心から進んでの礼拝と捧げ者は、すぐに行うことを持って現れました。従順を遅らせることは不従順です。昔は、従順を遅らせても、いいように思っていました。大方の部分では恵みは失われないように思っていました。いや、思い込んでいたのかもしれません。しかし、タイミングを遅らせての従順は不従順です。そこには、神様の恵みの大半、いや全部を失うことがあります。すぐなお心を持って従い、喜びの礼拝を捧げます。

日曜日, 12月 06, 2009

礼拝するために日々立ち上がれ!


第二歴代誌29;12-24
ヒゼキヤ王のリーダーシップは、12節「レビ人を立ち上がれました」神様の人のリーダーシップは、人を神様の道へ導きます。神様の関係を回復させるようにします。その順序は、
①まず、自らきよめること
②聖所なら神殿をきよめること
③日ごとに礼拝をするように、和解と罪のいけにえをささげるようにします。
礼拝するためには、神様の関係をきよめることから始まります。礼拝するためには、神様にある罪のことが解決される必要があります。日ごとに、今日の礼拝のために立ち上がります。

土曜日, 12月 05, 2009

神様のリーダーは人々を神様の関係を回復させる



第二歴代誌29:1-11
ヒゼキヤ王は、29歳でエルサレムで王位につき、29年間王でした。まず、彼が最初にしたのは
①:第一年の第一の月(一番最初にしたこと、であることを強調します)
②:主の宮の門を修復したこと(神様との関係に入っていく大事な部分である)神様との関係を回復することを求めました。
③:霊的なリーダーシップを持って人々を集めました。
④:南ユダ王国の人々の問題を示し(神様との関係が壊れていること)
⑤:改革へと人々を導きました。もしも、霊的なリーダーが正しい役割をすることが出来ないのなら、
南ユダ王国は父親の王様の間難しい時期を過ごしたのです。しかし、正しい役割をすることが出来たのは神様の霊的なリーダーとして
⑥:自分自身をきよめることからスタートしたのです。
⑦:聖所をきよめ、周りをきよめました。
⑧:不信の罪は、悪を行い、主から背を向ける(関係を壊すことです)
それは、毎日の関係です。夫婦関係や両親の関係も毎日のものです。愛する人との関係は一日でも欠かせないものです。神様の関係も同じです。毎日、神様へささげもの(十字架の犠牲による)をささげているのでしょうか?愛する関係ならそれは負担でなくて、喜びです。
⑨:一番大事なことは、祭司とレビ人を集めて、彼らの職分と身分と働き(信仰のアインデンティ)を回復させたことです。そこから全ての回復が始まりました。神様との関係の再契約がなされました。しかし、それは私たちに何か良いことがあったのでなくて、罪の中にあり背信の私たちが、立ち返るだけで無条件に主イエスが受け入れてくださったのです。神様の愛の中に関係を、毎日深めます。そして、主イエスにある私の職分を、身分を、働きを、自分の人生そのもののアインデンティを回復させてください。

金曜日, 12月 04, 2009

意地を張らずに生きているのか?



第二歴代誌28;16-27
アハズ王は、イスラエルの属国であったエドムから攻められて、そしてダビデの時代に勝利をしていたぺリシテから(ダビデの時代にはぺリシテに勝利することが大事な条件でした)もまちまちを略奪されました。そして、偶像礼拝をするゆえに勝利しているのだと勘違いしたアッシリヤの王には、同盟しようとしたところが、逆に攻められて悩むことになりました。それは、主に対する不信の罪からくる裁きでした。主に対す不信は、別のところへ助けを求めます。しかし、主を信じない人生は、何の助けにもならないものに頼ろうとして、かえって攻撃されたり、裏切られたり、します。その結果は、王様として認められない人生でした。神様に対して意地を張って生きるのは、神様の赦し、受け入れてくださり、回復してくださる神様の愛を信じれない、知らないからです。神様のまことの人生の回復をすけることの祝福や得を知らないからです。神様の愛を信じ、歩みます。

木曜日, 12月 03, 2009

あわれみの姿に感動する



第二歴代誌28:1-15
南ユダ王国のアハズ王は、ダビデの道(まことの神様のみを礼拝する)を歩まずに、イスラエルの王(神様と反対の偶像礼拝、自分の好き勝手な道)を歩みました。そこで、神様はイスラエルの民を使って凝らしめをされました。それは、神様の憐れみでした。神様は他の異邦人を通して凝らしめをされるのでなくて、あえてイスラエルを用いました。それは、まるで神様を信じる民であるはずの南ユダ王国が、偶像礼拝に陥るときに北イスラエル王国より劣ること、同じ境遇になるように感じさせられます。そこで、惨めな敗北と多くの損害にも関わらずに、神様はイスラエルの民に「あわれみ」を注ぐように、預言者オデデを送り、神様の声を語ります。それは、南と北に分かれていても同じイスラエルの民であり、神様の前に自分は完全でなく、罪を裁く権利の無いものであることを示します。そして、イスラエルの民は神様を知るものとして「あわれみ」を注がれます。それは、神様のご性質を知るもののみが出来る行為でした。異邦人の民では出来ないことだったでしょう。神様の裁きの中にも、回復の愛、憐れみがあります。そこでの神様の愛を知るものとして、私は人をさばく前に憐れみを注いでいるのでしょうか?憐れみを施すものとして指名されたものとして、神様の憐れみを持って今日を行きます。

水曜日, 12月 02, 2009

失敗から学ぶこと。繰り返して同じ失敗をしないこと



第二歴代誌27;1-9
影響を受ける人の仲で、反面教師と言うのがあります。今日のQT箇所では、父親ウジヤ王が晩年神様を恐れず、神様の立てた祭司を尊重せずに、自分で香を焚いたために、「ツッラファト」になったことを覚えて、息子のヨタムは神殿に入ろうとしなかったとあります。そして、神様の前に「自分の道を確かなもの」としたとあります。それは、どういうことでしょうか。確実で、安全で、神様の前に正しい道を歩むならば、周りの人々へ正しい、良い影響力を与えることになります。私は神様から学ぶ、正しい面を選び、間違った部分を捨てているでしょうか?神様の前に正しい影響力を与えるのでしょうか?それとも、反面教師なのでしょうか。しかし、人は繰り返し過ちを犯します。そのたびに、神様の愛の元に回復しているのでしょうか。悔い改めというプロセスを通して、十字架と言う通路を通して、神様の愛に帰っているのでしょうか?過ちを通して、一番学ぶべきことは神様の愛の元にいるということです。今日、何よりも神様の愛に憩います。

素晴らしい仕方で助けを得るとは?


第二歴代誌26:11-23
ウジヤの人生成功の秘訣は、自分は誰で?誰に助けを求めるのか?という、己と他人と神様を知っていたということです。これは、本当に難しいことです。人間は自分の力を過信し、自分のプライドのために現実や、状況を正しく見ることが出来ないものです。そして、正しく忠告をしてくれる人には怒り、逆恨みをしてしまうものです。それをしなかった理由は、自分の人生に神様を認める謙遜さ、自分があるのは、神様のおかげであることを知り、信じていたからです。神様が創造者であり、自分の人生を計画され、守ってくださっていることを信じていたからです。しかし、それを失ったときに、彼は自分の生きるべきポジションを失い、周りの人々からの忠告や、何よりも神様の関係を失ってしまいました。神様の召し、神様の与えられたポジションで生きないときに、最悪の結果が起こります。それは、周りはもちろん神様へ不敬の罪です。それは、偶像礼拝よりも恐ろしい罪なのです。
①神様の立てられた霊的なリーダーのポジションまで犯していないでしょうか?牧師や霊的な指導者の立つべきことや、判断すべきことに進入して難しいことをしていないでしょうか?
②神様の与えられたポジションで生き、奉仕し、家庭生活をし、仕事をし、歩んでいるでしょうか?
何よりも、神様の与えられた環境と召しの中で生きる喜びを享受しているのでしょうか?神様を恐れる、神様を神様とする人生を歩んでいるのでしょうか?神様の召しの人生をいきます。