坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 3月 21, 2010

もっとイエスを愛するように、今日も来てくださるイエス

ヨハネの福音書2;1-14
復活のイエス・キリストが、すぐに昇天されずに、またすぐに聖霊様を下さずに、されたことの一番重要なことは、弟子たちを愛されたことでした。倒れた弟子たちの人生を最高に輝く人生へと、使命のある人生へと導かれることでした。それは、全宇宙の運命を変えたイエス・キリストの十字架と復活を伝えることでした。それを伝えるのは弟子しかいませんでした。しかし、弟子たちはイエス・キリストが十字架にかかった後で、完全に使命を失い、もとの漁師へ戻ろうとしていました。そこへ、イエスは攻めるためにではなくて、もう一度使命を回復させるために、弟子たちが「人間を取る漁師になる」奇跡をもう一度、なしてくださいました。わたしたち人間なら、あきらめるような人間を、ほっておくような人間を、神様は絶対に捨てません。絶対にあなたをあきらめないのです。主イエスをもっと、愛せるように、もっと仕えることができるように、してくださるのは、先にやってくださる主イエスの愛です。わたしにとって、いつもやってくださった主イエスの愛にこたえて復活の証人として仕えていきます。

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土曜日, 3月 20, 2010

復活のイエスを信じるクリスチャンを育てよ

ヨハネの福音書20;24-31
主イエスの復活を信じない弟子たちは、家の中に閉じこもり、女性たちの証言も信じられませんでした。しかし、そんな弟子たちにイエスは自ら現れて、ご自分の復活の喜びを伝えてくださいました。そんな中でトマスがその場所にいませんでした。彼は、イエス・キリストを目で見るまでは復活を信じない、と言いました。なんと人間は目に見える現実や、不安や計算に縛られていることでしょうか?トマスのような生き方は人間的には、現実的には堅実かもしれません。安定しているかもしれません。しかし、信仰の世界には現実を乗り越える平安があります。どんなに難しい現実にも、信仰を持った中にこの世が与えない平安があります。トマスはそれを得ることが出来ませんでした。しかし、主イエスはそんなトマスに福音を伝える使命を与えます。ヨハネの福音書は、イエスを知らない人に、イエスを信じ、神様の永遠の命を得てもらうことを願って書かれた、と締めくくります。はたして、私の信仰はどうでしょうか?目に見える現実に、信仰は堅く立てているのでしょうか?また、そんな信仰を持った人が、自分が伝道した人は、イエス・キリストを信じたとしても、どのようなクリスチャンになるでしょうか?自分の罪の人生が死んで、イエス・キリストの復活の命が生きる人生を生きないといけません。また、伝道して無理やりに信じてもらうのうでなくて、本当に復活のイエス・キリストの命が生きる人生を歩んでもらわないと、本当にその人の人生に最高の祝福が来ません。自分の罪の人生でなくて、現実に縛られる人生でもなくて、復活のイエスを信じ、復活のイエス・キリスト、霊が生きているクリスチャンを育てていきます。

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金曜日, 3月 19, 2010

私がイエスを見つけたのでなくて、イエスが私を探してくれた

ヨハネの福音書20;11-23
マリヤは墓の中におられないイエスを理解することができませんでした。聖書の中の復活のイエスを理解することや、悟ることができませんでした。彼女は、どれほどイエスを愛していたことでしょうか?その嘆き、悲しみは、どれほどだったのでしょうか?しかし、主イエスを理解して、復活を期待することはできませんでした。そんなマリヤに主イエスはたずねてきてくださいます。愛する主イエスを求めて、わかることができない人に、主イエスは自らを示してくださいます。そして、復活の主イエスに最初にあって、復活の証人となることができたのです。更に、弟子たちに主イエスは会ってくださり、自らの十字架の死であるわき腹と手の傷跡を見せます。恐れと不信の中にいた弟子たちに、主イエスは直接に昇天されずに、弟子たち一人一人に現れてくださったのです。それは、私たちへの愛でした。復活の証人となるために、聖霊を受けなさいといわれました。それは、イエスの十字架の罪の許しと関係していました。聖霊の力なしには、人間的に知るだけでなくて、本当にイエスを知ることも、罪の許しもわかりません。信じることもできません。復活の証人になることももちろん、自分の力ではできません。聖霊の力によって、イエスにあってこそ、できることなのです。それは、イエスが自ら尋ねてくれてできたことです。自ら尋ねてくれた主イエスを賛美し、自ら友を訪ねて幾一日を過ごします。
ヨハネの福音

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木曜日, 3月 18, 2010

イエスを愛する人は最初にイエスを出会う。

ヨハネの福音書20;1-10
聖書の中で、女性の活躍が目立つことがあります。われわれ男性を顔負けにさせることがたくさんあります。それは、十字架の最後で一番近くに女性たちがいたこと、そしてイエスの復活の事件を理解は出来なかったものの、最初に墓に行って目撃したのが女性だったことです。それは、十字架の事件が立って3日目に朝早く夜が明けないうちに、墓に行こうとしたその情熱、神様への愛から感じることがあります。本当に純粋に、計算無しに愛し、主イエスを黙想し、もしかして(弟子たちもそうかもしれませんが)十字架にかかって死なれたイエスを思って夜を明かして、思っていたのでないかと思います。そして、夜も明けぬうちに墓に行ってイエスを会いに行こうとしたのだと思います。逆に、弟子たちは恐れて、気持ちがあってもイエスの墓に最初に行こうとはしませんでした。男性と女性の違いかな?とも思いますが、これほどまでに、主イエスを求める思い出、夜を明かして、朝まだ暗いうちに行こうとしているのでしょうか?わたしにそのような渇望があるのでしょうか?イエスへの愛があるのでしょうか?祈祷題があるからでなくて、礼拝に、神様にあいたくてじっとしていられない、いてもたってもいられない、そのような状態でしょうか?早朝祈祷会にいくのも、いてもたってもいらない、’ことがあるのでしょうか?
また、残念なことに、女性たちも弟子たちも「聖書の言う、予言である復活を信じてはいませんでした」この墓が空っぽになっている事実を見ても、信じることが出来ませんでしたし、理解も出来なかったのです。それは、情熱だけでは足りないのです。聖霊様の助けなしには、人は変わらず、聖書を読んでも、悟らず、真理を逃してしまうのです。今朝、こう祈ります。主イエスを愛する純粋な渇望を与えてください。そして、聖霊様の助けなしには、理解できない聖書の心理を悟らせて下さい。わたしの人間の力では不足で、罪あるものにはふさがれています。主イエスの十字架の罪の許しによって、真理の扉を開いてください。墓の扉を開いてください、主イエスを愛し、復活の主イエスを賛美させてください。死と悪魔、罪に勝たれた主イエスを賛美します。アーメン、ハレルヤ!

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水曜日, 3月 17, 2010

100%の従順を完成させるのは愛だ!

ヨハネの福音書19;31-42
主イエスは、聖書のみ言葉を一つもたがえることなく、完成されました。それは、ひとつも妥協することなく、だいたいの従順でなくて、完全に従ったからこそ、十字架の罪の許しが完成されたのです。もしも、一つでもわたしたち人間のようにだいたいの従順(従順とはいえません)していたら、世界中の人がつっこみ、誰も信じる人がいなかったでしょう。しかし、主イエスは100%の従順をされたのです。完成されたのです。時には、従うでなくて、いつも従うことで十字架の罪の許しの人生を完成されて、わたしたちが信ずることに慣れたのです。もしも、イエスが完全に従うことが無ければ、わたしは信じることは無かったでしょう。しかし、私の人生は、従順はどうでしょうか?なんと状況に左右されて、自分の弱さに倒れて、時に従順、だいたいの従順を自分の弱さのせいにしていないでしょうか。その横で、罪を犯すことがあるのでないでしょうか?その従順と言う難しい、ミッションインポシブルの用に見えることを完成させたのは、何でしょうか?それは、神様への、わたしたちへの愛でした。もしも、結婚していて浮気をして、不倫をして、たまの失敗だから、少しくらいと言う言い訳が通るでしょうか?絶対に通りません。愛するゆえに従順されたのです。それをみた、アリマタヤのヨセフやニコデモははじめて、自分が主イエスの弟子であり、信じることを、一番危険なイエスが十字架にかかった後にしたのです。それは、イエスと同じ信仰を持つとして処罰されることや、命の危険や、立場を失うことを意味していました。しかし、主イエスの愛のゆえになされた十字架の従順に彼らは答えたのです。そこに、計算は無かったでしょう、愛ゆえに反応したのです。愛ゆえに献身していきます。

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火曜日, 3月 16, 2010

名誉でも、出世でもなく人生を完成させるのは愛だ!

ヨハネの福音書19;25-30
主イエスの最後を、十字架を最後までついて言った人の中で、特筆すべき人は
①兵士たち、そして反対派のローマの人たち、
②ユダヤ人たち、宗教学者
③今日の主人公である女性たち
④主イエスの愛された弟子がいます
もちろん、他の人たちもいたことでしょう。しかし、最後までついていった人たちの中で、女性たちの信仰は特筆すべきものがあります。彼女たちは、最後までついていきました、男性達の信仰と違うものがあります。特に、主イエスの母であるマリヤ、そして罪を許されたマクダラのマリヤがいました。彼女たちの信仰と心、何よりも愛は自分たちの立場や、自分たちへの宗教学者の避難を受けても、いいという愛がありました。主イエスはそんな母に、愛された弟子に「あなたの息子がいます」といい、母を託されました。そして、主イエスの愛された弟子は母を引き取りました。愛された弟子とは、ヨハネの福音書を書いてヨハネであります。彼の人生は、福音書に書いている彼の行いは、自分が偉いとか?他の弟子たちを出し抜いて天国の右の座に着かせてくださいと、親に言わせるなど、さんざんな行いでした。彼の関心や価値観は自分の名誉と出世にありました。逆に男の人らしいかもしれません。そして、彼は雷の子でもありました。そんな彼が福音書を書いた晩年には、主イエスに愛された弟子と自分のことを名前で、固有名詞で書かなかったのです。彼の価値観の変化は何でしょうか?それは、名誉や出世が彼の人生を決めるのでもなくて、主イエスが十字架上で「完了した」といわれた人生、それはヨハネ、自分自身が、いや北野実自身がかかる十字架を「愛でかかってくださった」ということが、彼の人生を変えたからでないでしょうか?出世でも、人に見られることでもなく、認められることでもなくて、愛が人生を完成させることを信じます。十字架の愛の人生を歩みます。

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月曜日, 3月 15, 2010

イエスの十字架の苦しみのために私に平安が与えられた

ヨハネの福音書19;17-24
主イエスの罪状書きをピラトは「ユダヤ人の王」と書きました。それは、罪を認めることができず、ただユダヤ人の妬みから、地上の王としてこられた方を、殺すことになったのです。しかし、そのような無罪の罪、言われも無い苦難のゆえに十字架に掛けられた主イエスのために、わたしは変わらない平安を得たのです。わたしにとって、心揺らされる悩みや痛みがある日に、主イエスの十字架によって与えられた平安を持って生きていきます。今日、主イエス・キリストの十字架にあっていく平安を与えてください。

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日曜日, 3月 14, 2010

まことの権威を持つ人はひれ伏す人だ

ヨハネの福音書19;1-16
律法学者、パリサイ人、祭司たちは、宗教学者たちは「自分たちには律法がある」として、自分たちの権威や力を利用しました。それをもって、自分の嫌いな人を、真理を宣言する人を、自分の立場を壊す人を、正義を行う人を殺そうとしました。律法を完成された人を殺そうとしました。自分たちの真の権威である、神様から来た預言者を殺し、神様である主イエスを殺そうとしたのです。逆に、ピラトは「主イエスに罪が無い」としながらも、彼の権威はローマ帝国からの借り物であり、ヘロデはおなじであり、まことの権威の元にいたのでありませんでした。そのために、ユダヤ人たちの暴動になりそうな勢いを持ってローマ帝国からの解任を恐れたのです。彼にも、真理を行う勇気がありませんでした。人を恐れたのです。人は自分の思い通りにならないと人殺しさえします。権威を利用します。自分の生き残りのために権威にへつらいます。しかし、主イエスは権威に心から従い、まことの権威に従うときに最高の人生があることを十字架で示されたのです。真の権威を持った人は、恐れがありません。まことの権威に既にしがたい、正しい人生を生きているからです。はたして、わたしはどうでしょうか?すべきことを知りつつも、しないでいるとするなら、それも罪です。真の権威にひれ伏していない証拠で無いでしょうか追い出すべき罪をありつつも、追い出さないでいる。また、言うべきことを言わないでいる、それも罪でないのでしょうか?真の権威の下にいる人は、ひざまづいています。まことの謙遜さと従っている人から来る祝福があります。真理の権威の下に、謙遜に歩みます。言うべき真理を言葉と態度で、伝えていきます。主よ、わたしを助けてください。

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土曜日, 3月 13, 2010

宗教は裁き、イエスは愛する

ヨハネの福音書18;28ー40
イエスをさばく宗教家たちはイエスを殺そうとしながらも、さばきながらも、「汚れまい」として「過ぎ越しの祭り」を受けれないことが無いようにしました。何と言う感覚でしょう。一般的な、常識的な感覚、人間としても、人を殺そうとしながらも、宗教儀式を受けようとする、しかもそれが「汚れまい」という感覚であったことに理解がまったくできません。まさに、宗教家は命の無い、心の無い、関係の無い、人生を生きます。それは、人間の関係もないし、神様の関係からクル感動や、喜びや感謝が無いのです。そこには、人が集まりません。彼らの告発はイエスを告発するように見えて、実は「自分たちの立場を守る」そして「自分の嫉妬、怒り、殺意」なのです。’イエスの中に何も罪を見出すことも、作ることも出来なかったのです。はたして、わたしは自分の嫉妬や怒りや、不満足から外や他の人を裁いていないでしょうか?しかし、主イエスは愛を持ってその人の罪や足りないところを攻めるのでなくて、ゆるし、愛され、回復されます。普通は人の足りないところを攻めます。しかし、主イエスはそのために真理と愛を持って正しく回復されたのです。そこには、永遠の感動があります。今日、愛を持ってさばかずに歩みます。

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金曜日, 3月 12, 2010

イエスの一貫した態度とペテロの揺れる言葉と心

ヨハネの福音書18;15-27
ペテロはイエスのために、死んでも言いと宣言し、またイエスが捕らえられそうになった時には、役人に打ってかかるような攻撃をしました。人間的には強い行動に見えます。また、大祭司の知り合いを持っていたヨハネとともに、イエスの裁判をされる庭に入って言います。その内容が、言葉も聞こえる距離であったのにもかかわらず、ペテロは三度もイエスを否定することになります。実は、ペテロのが一見は強そうにめる態度が、心のそこでは不安であり、常にゆれうごいていることからわかります。不安になる人は、怒りがあります。怒りから相手を攻撃し、傷つけます。必要の無い傷をつけます。しかし、主イエスは相手に殴られるという暴力や攻撃を受けながらも、決して人のプレッシャーに動かされて物を言うことは無く、ご自分が神様であることを宣言しました。しかし、ペテロは闇の勢力に、人のプレッシャーに揺り動かされ続けていました。最初の否定の時に、ペテロは小さい否定のつもりであったかもしれません。しかし、それは次のうそを必要としました。自分の影響力でなくて、クリスチャンとしての影響力を相手に与える範囲でなくて、実は相手に、この世の影響力に侵入される行動をしていたのです。ペテロはいっそ、この場所を離れるのか?イエス・キリストを最初に宣言してしまればよかったのです。それほどまでに、人のプレッシャー、目に見えるプレッシャーは大きいものです。この世の現実に自分が生き残っていこう、自分の立場をとろう、それは大きいものです。私自身がそのような弱さにかかっているものです。ペテロのことをどうのこうの言える立場ではありません。今日、主イエスを宣言し、神様の全面的な助けを求めていきます。自分が誰か?知って宣言されたイエスのように、自分を知る人生を歩みます。

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木曜日, 3月 11, 2010

最高の秘密を知ったら自信がある

ヨハネの福音書18;1-14
この世の中で、最高に知りたいと思う、最高の秘密の計画を共有できることは何でしょうか?それは、主イエス・キリストの愛の計画を知ることです。イエス・キリストの十字架を、創造の時に三位一体の神様が計画されたことを知ることです。また、私の人生のスタートとゴールと目的を知ることになります。人生の目的を知っている人は、自分が何をしたらいいのか分かります。そのゴールに向かってむなしく生きることはありません。ただしく、目的へ向かって生きることになります。しかし、それを知らない人は自分の顔を隠し、緊張し、相手の距離関係を持ち、何よりも、心配と恐れからくる怒りをもっていきます。今日のQT箇所に出てくるユダはイエスの弟子であり、神様との1対1の祈り場所を、礼拝を、知っている人でした。何よりも、主イエスの力が何処から出てくるのか知っている人のはずでした。何よりも、神様と主イエスの関係を見るチャンスが一番近く似合った人のメンバーにいたのです。苦しい時に、大変なときに、奇跡が起こるときに、主イエスの祈る場所に共にいて、伝道していた人なのです。しかし、イスカリオテのユダは弟子しか深く知らないはずの祈りの秘密の関係を持っていた中で、その場所を裏切りのために使ったのです。そのときに、イスカリオテのユダのしたことは、イエスを捕まえにくるのに、恐れ、武器を取り、多くの人々を頼み、その後ろに隠れることをできればしたかったのです。しかし、真理の中にいる人は恐れません。主イエスはご自分を自ら示されて、恐れることは無かったのです。人生の目的と、スタートを、ゴールを知っている人の自身です。自分のすべきことを知っている人の自身です。神様の愛の関係を持っている人の特徴はお添えが無いことです。神様の愛によって、罪が赦されて、きよめられている人の特徴は自由です。主イエスの秘密を持って自信を持って歩みます。たとえ、日ごとの目の前は分からなくて、主イエスの計画と最善を信じて歩みます。

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水曜日, 3月 10, 2010

一つになることは自分の力では出来ない

ヨハネの福音書17;20-26
主イエスは、弟子たちが「一つになれる」ように祈られました。それも、今いる弟子のためでなくて、これから救われる人のためにも祈ってくださいました。現在の私たちのために、今日も愛を持って祈ってくださる主イエスのみなを賛美します。何と言う感動でしょうか。しかし、それほどまでに「一つになること」が弟子たちのシンボルであり、証なのです。伝道していく場面での重要な証であり、この世の区別するクリスチャンのよい意味での違いなのです。逆に、それがどれほど難しいことは「主イエスが続けて祈られること」からも感じます。そこまでに、弟子たちを、私たちクリスチャンを愛されているからこそ分かります。それほどまでに難しい一致。世の中は結果のために、お金と言う手段を通して、心の無い、無理やりな一致を押し通します。しかし、主イエスの弟子たちは心からの動機を持って、愛すること、神様のみ心が最善であることを信じて、進まないといけません。主イエスの弟子たちが一致することが難しいのは「主イエス・キリストが十字架にかかる前まで誰が一番偉いのか?という論争をしていた」ことからも、予想が難しくありません。それは、今の私たちにも言えることです。一致することが、そして「三位一体の神様の一致と栄光」と関連していることからも分かります。そのヒケツは十字架です。私が死んで、神様のみ心である十字架の愛、あなたのために死んでも良い、という人生になることです。そこに、三位一体の神様の奥義が、秘密があるのです。それを味わえる場所が、十字架の愛でひとつになることでないでしょうか?それなら、どれほど大きな愛の場所であり、期待とチャレンジのあるところであり、自分の力では出来ないところでしょうか?今日、主イエスの十字架の愛で生きます。

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火曜日, 3月 09, 2010

あなたは人のために祈っているか?

ヨハネの福音書17:9-19
主イエスは人生の最後になって、弟子たちのために祈られました。とりなしの祈りをされました。主イエスの仲に、じぶんのために、自分の利益や、自分の王国を広げるために生きることや行動がありませんでした。弟子たちは、神様のものであり、神様の御心以外をお行なわれなかったのです。そして、あなたの聖なるみなの仲に保ってください、と祈られたのです。それは、一つになるためです。名前の中に保つとは、その名前はアイデンティを示すものです。その名前にふさわしく生きるのか?生きれるように助けてください、ということです。主イエスの弟子とは、この世に属するものではありません。主イエスにあって天国に属するものです。
1:主イエスの十字架によって罪から、そして身分としても聖められているものです。しかし、聖化の過程を歩んでいるものです。
2:この世のものと区別されている価値観を持っています。真理によって別とされたものです。
3:クリスチャンとして生きることは、この世から憎まれます。悪から守られる必要があります。
4:また、世に遣わされた者です。この世から離れて生きるものでなくて、この世に攻撃されるのでもなく、この世を変えていくために遣わされた者です。はたして、私は今日この世に使わされたものとしてどう生きるのでしょうか?また、人のために愛して、祈っているでしょうか?今朝、とりなしの祈りをもう一度、愛の心を持って祈ります。

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神様の栄光とは何か?

ヨハネの福音書17;1-8
人間の普通考える栄光とは、自分が素晴らしいことを受け、栄誉を自分に返します。しかし、神様の栄光は創造を三位一体の神様とされた究極の栄光です。その栄光は永遠のものです。しかし、主イエスが受けられる栄光は、永遠の命を与えることです。しかも、創造された人間が勝手に罪を犯して、神様を認めないのに、祖人間に神様の愛を知ってほしいと、この地上に来られた栄光です。そして、十字架に係る栄光です。普通、栄光は自分のためのものであり、消費するものです。また、無くなっていくものです。私たちの栄光の人生は、与える、愛するところに、犠牲するところに、あることを価値観の逆転をしないといけません。そこに、創造的で、永遠の栄光があるのです。信じるとはRELATIONSHIPです。宗教のRELIGIONではなくて、主イエス・キリストの命のプレゼントを受け取ることです。はたして、私は今日主イエス・キリストの愛のプレゼントを受け取っているのでしょうか?その愛のプレゼントをもって仕えているのでしょうか?今日の礼拝に神様の愛のプレゼントを用意して出掛けます

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日曜日, 3月 07, 2010

神様へのダイレクトコールをかけろ!

ヨハネの福音書16;25-33
主イエスは、ご自分の十字架の死のあとの備えて、父なる神様と私たちで使徒の関係についてはっきり語ります。それは、主イエスを信じ、受け入れ、愛するものを父なる神様は受け入れてくださり、愛してくださると言うことでした。その関係は、宗教的な儀式をふまえるとか、人間の前なる行いに起因するのでもなく、ただこれから主イエス・キリストの十字架を恵によって信じるものにだけ与えら得る関係でした。今朝、与えられた恵みは神様との直接の関係を旧約聖書の時代では持つこともなく、一部の人々だけでした。また、宗教的な儀式や行いを通してでもなく、直接に神様を父なる神様の交わりを、まるで親しい方に電話するように。今朝、主の前に自分の過ちや失敗を告白し、悔い改め、助けを求めます、何よりも、全能の父なる神様を礼拝し、助けを求めて、そして救いの著者であるイエス・キリストの力を持って生きていきます。揺れずに、信仰を持って歩みます。

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土曜日, 3月 06, 2010

喜びの関係を持つため

ヨハネの福音書16;16-24
主イエスは、「ご自分が十字架にかかって死ぬこと」を「喜ぶことができる」といわれました。それは、人間的には全く理解ができず、弟子たちはまったく困った状態になってしまいました。もしも、私たちが弟子の場所にいたら、同じか、もっとわからずに困った対応であったでしょう。それは、十字架の死によって回復される神様との関係でした。それは、父なる神様と子である私たちが十字架によってつながる瞬間でした。そのことによって、どんなことでも父なる神様に求めることができるのです。それまでは、罪にあって私と神様は敵対関係でした。それが、主イエスの十字架によって回復されたのです。その回復された関係をどれほど大事に、用いているのでしょうか?主に祈る瞬間、礼拝、み言葉にある時間をもって一日をスタートします。早朝祈祷会を続けて持って行きます。そのために必要な祈祷課題も祈っていきます。

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金曜日, 3月 05, 2010

苦難を覚悟しているのか?

ヨハネの福音書15:18ー16:4
この世にあって主イエスの弟子たちは、迫害を受けます。それも、内部からの攻撃を受けることがあります。はたして、私は主イエスの弟子となることを願っても、迫害までも覚悟しているのでしょうか?それとも、日常生活の中では別にして生きているのでしょうか?キリストの弟子として本当に生きるなら、迫害を受けることが当たり前なのです。もしも、迫害が全く無いというのなら、どこかで自分を偽り、妥協している部分があるのかもしれません。心刺されることです。しかし、主イエスの弟子を拒むむものは父なる神様を拒んでいるのです。はたして、私は主イエスの弟子として迫害を喜んでいるでしょうか?もしくは、主イエスの弟子を私と違うからと拒むことが無いでしょうか?経済的なこともあるかもしれません、また人間的な立場もあるかもしれません、しかし、初代教会は迫害の中で成長し、宣教し、伝道していきました。

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火曜日, 3月 02, 2010

神様からのプレゼントをもらった人はどんな顔をするか?

ヨハネの福音書14;15-24
神様の約束を信じ、その御言葉を基準にして歩む人には、どのような神様からのプレゼントをもらえるのでしょうか?それは、①「あなたがたを捨てて孤児とはしない」ということです。多くの若い人や、いや規制の世代の人も自分は一人である、理解してくれる人が居ない、という風に感じたり、思ったりして、もしくはそのために自殺する人もいないでしょうか?それが、主イエスはあなたを一人としない、と言われるのです。なんと安心で、嬉しくて、心暖かになり、孤独を払える恵みでしょうか。また、②「助けぬし」を送られるとあります。私の助け主、主人である方が私を助けてくれるのです。自分のオーナーが私の助け主なのです。それは、なんと大きな力を、偉大な神様の助けを期待できるのでしょうか?また③「真理の御霊」があると言います。自分が間違った方向に行かないように、間違った言葉を言わないように、間違った行動をしないように、してくだる神様がおられるのです。その方が私と共におられるのです。そんな神様のプレゼントはご自分自身なのです。一人でないのです。神様が共におられるのです。そんなプレゼントをもらった人の顔はどうなるのか?想像しました。それは、まるで結婚してほやほやの人でないかと思いました。人生最高のパートナーを得て、これからは一人でないぞと思う喜びが隠そうとしても、意識しなくても、あふれます。神様のプレゼントをもらった喜びで、礼拝を捧げます。

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土曜日, 2月 20, 2010

罪を離さないと霊の激動を感じる

ヨハネの福音書13;21-30
主イエス・キリストは「霊の激動を感じられました」それは、主イエスの弟子から裏切りが出ることでした。
罪には、段階があります。それは、急激に失敗する人は少ないということです。もちろん、そういう人もいます。しかし、急激な事故で失敗する人は少ないということです。それは、ユダは
1:普段から会計を任せられるほどに信用が有る人でした。実力もある人だったでしょう。しかも、主イエスがはっきりと「パンを浸したものが裏切る」ということで示されても、疑う弟子がいなかったのです。
それは、ユダの人格の一部分は、立派に奉仕をしながらも、会計では既に盗みを働き、罪を犯しながら歩んでいたことでした。少しずつ、罪はその人格を蝕み、悔い改めないときに、事故を起こします。
2:主イエスは、あえて警告をしてくださったのです。罪の悔い改めのチャンスでした。もしも、罪を悔い改めるなら、回復のチャンスがあったのかもしれないのです。
3:それは、罪を人々と神様の前の明るみに示し、回復のチャンスでした。しかし、それでも自分の道を行く人を止めることはできません。それは、神様は人格を尊重されます。罪の告白も愛の元に自らの意思なのです。
4:すでに夜の時に、罪は起こります。罪を示されても、そこへ進む人は必死で相手を攻撃し、相手のせいにします。
今日、思わされたことは「罪をそのままにしている」ならば、霊の平安が無いということでした。思わされたことは、一つは教会で立派に奉仕をしながらも、お金の問題を抱えている人のことでした。それは、牧師の悔い改めの勧めにもかかわらず、かえって牧師を攻撃している人のことでした。しかも、立派に奉仕をしているのです。罪を抱えている人でも、みかけは立派に奉仕します。しかし、内情はどうでしょうか?また、自分に示されたのは、相手が悪いと思う人であっても、自分の赦さない思いがあるときに「自分の人生の祝福の足を縛る」ことでした。失礼だと思うことがありました。しかし、それを持っているのは自分の責任であり、相手を縛り、自分を縛ります。祝福を閉ざします。主イエスのみなによって、霊の激動を受けて悔い改めます。

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金曜日, 2月 19, 2010

神様の心が分かるか?

ヨハネの福音書13;12-20
主イエスは弟子たちに、師であり、主である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いなさい、と言われました。まるで、私の心が、神様の心や願いが分かりますか?という感じです。生きる人生の模範は主イエスです。生きる態度とその結果もたらす祝福を見せてくれます。それは、相手に仕えう心と愛を持たせます。主イエスが私に言われるようです。私の心と願いが分かるのか?分かって欲しい、その祝福を享受して欲しいといわれるようです。しかし、そのような中にもいすカリオテのユダもいました。主イエスの願いは、裏切る弟子にも語られました。神様の心を持って家族にも人々にも仕えます。相手をゆるして仕えます。まず、否定的な相手にも、裏切る弟子にも、十字架の苦難に逃げ出す弟子にも、自分の名誉を優先していた弟子にも語られたイエスのように、否定的や怒りで見ずに、積極的な言葉を持ちます。

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