坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 12月 03, 2009

あわれみの姿に感動する



第二歴代誌28:1-15
南ユダ王国のアハズ王は、ダビデの道(まことの神様のみを礼拝する)を歩まずに、イスラエルの王(神様と反対の偶像礼拝、自分の好き勝手な道)を歩みました。そこで、神様はイスラエルの民を使って凝らしめをされました。それは、神様の憐れみでした。神様は他の異邦人を通して凝らしめをされるのでなくて、あえてイスラエルを用いました。それは、まるで神様を信じる民であるはずの南ユダ王国が、偶像礼拝に陥るときに北イスラエル王国より劣ること、同じ境遇になるように感じさせられます。そこで、惨めな敗北と多くの損害にも関わらずに、神様はイスラエルの民に「あわれみ」を注ぐように、預言者オデデを送り、神様の声を語ります。それは、南と北に分かれていても同じイスラエルの民であり、神様の前に自分は完全でなく、罪を裁く権利の無いものであることを示します。そして、イスラエルの民は神様を知るものとして「あわれみ」を注がれます。それは、神様のご性質を知るもののみが出来る行為でした。異邦人の民では出来ないことだったでしょう。神様の裁きの中にも、回復の愛、憐れみがあります。そこでの神様の愛を知るものとして、私は人をさばく前に憐れみを注いでいるのでしょうか?憐れみを施すものとして指名されたものとして、神様の憐れみを持って今日を行きます。