神様のアイデンティを失うならどうなる?
第二歴代誌33;1-9
イスラエルには、ユダには血統的な民族としてのアイデンティより、神様に選ばれた、信仰者として応えたアイデンティが大きくありました。永遠に神様の名前が於かれるところであるエルサレムに、その神殿に、ヒゼキヤの息子であるマナセは偶像をおきました。ふと、思わされました。
Q:何故、神殿に偶像を於いたのか?わざわざ、そうする必要が会ったのか?人間的な常識ではありえないことのはずです。クリスチャンとしてなら、余計そうでないでしょうか?
ふと、黙想させられたのは「神殿とは私の心でないか」という黙想でした。私の心の中に聖霊様は住まわれています。そこには、偶像が住むことが無いのか?ということでした。クリスチャンとしての至高の召命である人生に、イエス・キリストに似ていく人生を歩むことなく、他の偶像、外に歩んでいく人生が無いでしょうか?神様を伝え、キリストの弟子となって、キリストの弟子を再生産する人生から外れていくときに、最悪の人生になるのでしょうか?また、神様は私の人生や心の一部を臨まれるのでなくて、全てを望まれます。全てに臨まれます。神様のアイデンティを確信して、その人生を歩みます。他のことへ、現実の必要のために歩みません。
ラベル: 第二歴代誌
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