言われているうちが花だ
第二歴代誌36;1-9ヨシヤ王が、エジプトの王であるネコに殺された後に、彼の後に息子たちが王になります。しかし、それは「神様が立てた」のでなくて、「民が選び王にした、エジプトの王に王を変えられ、名前を変えられる」ようなことでした。それは、神様の警告を無視した結果でした。しかも、変えられた王たちはそれでも「主の目の前に悪を行った」のです。厳しい神様の裁き似合うとき私たちはどうすべきでしょうか?それは、神様の愛を信じることです。逆説的ですが、マナセ王は人生の殆んどを神様の前に悪を行いましたが、バビロンへ轢いて連れて行かれたときに、「悔い改めて、謙遜になり、主こそ神であること」を知りました。一番理解の難しいことですが、父なるヒゼキヤの信仰の宗教改革を壊しながらも、あくを行いながらも、裁きにあったときに、神様の前にへりくだり、悔い改めました。そこに、神様の回復が会ったのです。はたして、傷や困難や痛みが、裁きが、神様の警告がある時に、正しく神様の道へと回復しているのでしょうか?それが、成長する道へ進んでいるのでしょうか?神様の言葉のあるうちに、愛に回復していきます。さらに、成長する、きよめられる人生として今の人生、環境を歩んで生きます。ラベル: 第二歴代誌
主に従う道を教える霊的リーダー
第二歴代誌34:29-33ヨシヤ王は、神様のみ心を聞いたときに、ユダ王国の長老たち(リーダーシップたち)を集めます。それは、主に従う道を教えるためでした。そのためにしたことは、主の宮で見つかった「神様の言葉」私たちの固く立つべき礎をシェアすることから始めました。神様のリーダーは生きるべき道を教えます。そのヒケツは、礼拝と御言葉から来ました。そして、そのヒケツの場所である神様のみ言葉を分かち合いました。今週は、神様にある御言葉を華族で分かち合う時間を持っていきます。忙しい年末、年始だからこそ、神様の御言葉の基礎に変える分かち合いの時間を持っていきます。人々に、家族に、神様の道に立つ御言葉を分かち合っていきます。ラベル: 第二歴代誌
神様の道を見た瞬間、胸がさかれるのか?
第二歴代誌34;14-28今日から、また歴代誌のQTです。今日の内容は、主の宮で律法の書が見つかる所からです。ヨシヤ王は、主の律法が見つけられたときに「自分の衣」をさきます。はたして、今までイスラエルには「主のみ言葉」が不在であったのです。ヨシヤ王は神様の道が示されたときに、それと違う自分の人生に胸をさきます。それだけでなくて、「主の御心」を求めに行かせます。神様のみと自分の道が違うことは何と寂しいことでしょうか?しかし、それだけでなくて「神様の道」と「自分の道」が違うときに、悲しみの痛みがないことがもっと怖いことなのです。また、神様の道を求めるために、主の御心を求めるために、「女預言者」のもとへ向かうことになりました。私たちの心に、私のここに必要なことは、クリスマスに、年末に必要なのは「謙遜な、貧しい」心でないでしょうか。神様のみ心を求める謙遜な心であり、人を通しての痛い言葉に耳を傾ける姿勢でないでしょうか?そのようなヨシヤの心に、神様は哀れみの心で応えてくださいました。神様のみ胸に従って歩んでいきます。ラベル: 第二歴代誌
リバイバルは聖めから
第二歴代誌34:1-13ヨシヤ王は8歳で王になり、16歳の時に「神殿礼拝」を回復しようとします。その第一は、①:「きよめ」からでした②:その原動力は、「主の目にかなうことを」行うことからでした。神様を愛することから、神様を愛することからスタートしました。そして、それは偶像を除くこと、それも徹底的に、偶像崇拝を行わせた人々を除くことからスタートしました。ある意味過激と思えるほどの行動でした。はたして、私はそこまで罪を憎み、根源を切り捨てることをしているのでしょうか?そこまでしなくてもいいという、状態で歩んでいないでしょうか。ぬるま湯の信仰生活、きよめの無い生活をしていないでしょうか?③:また神殿の回復は祭司とレビ人たちの奉仕の回復であり、献金の回復でもありました。④:共に神殿礼拝に仕えていく回復でした。信仰生活のリバイバルは、一人でするものでなくて、共同体で共に奉仕し、ささげ、仕えるものでした。ベストを尽くして奉仕をしているのでしょうか?ささげものがあるのでしょうか?きよめを自分から、そして共同体の中で、きよい影響力をもって仕えます。主よ、きよめて用いてください、ラベル: 第二歴代誌
悔い改めとは愛に回復すること
第二歴代誌33:10-ヒゼキヤ王の後に、このマナセが王となりました。しかし、彼の前半の人生は神様以外のものを偶像礼拝し、偶像を神様の宮におき、占いをし、イスラエルの民を迷わせました。そして、主の目の前に悪を行い、主の怒りのためにアッシリヤの将軍の配下により、バビロンに連れて行かれました。その悩みの中で、マナセはおおいにへりくだった時に神様は哀れんでくださり、もう一度イスラエルに戻してくださいました。そして、マナセは後半の人生を「主こそ神である」ことを知る人生へ戻していきました。偶像を除去し、礼拝を回復しました。はたして、神様のあわれみはいかばかりでしょうか?また、マナセのへりくだりはどうでしょうか?本当に素直に神様の前に「謙遜」になっているでしょうか?意外と誤って、悩みの中に会っても「悔い改め」は難しいものです。しかし、神様へ悔い改めるなら、「愛の関係へと回復」してくださることを覚えたいと思います。悔い改めて、ごめんなさいで「以前に罪を犯したもの」という白い目でなくて、礼拝者として、人々に良い影響を与えるものとして生きる真の人生の道が用意されているのです。愛の関係に回復する悔い改めをしていきます。ラベル: 第二歴代誌
神様のアイデンティを失うならどうなる?
第二歴代誌33;1-9イスラエルには、ユダには血統的な民族としてのアイデンティより、神様に選ばれた、信仰者として応えたアイデンティが大きくありました。永遠に神様の名前が於かれるところであるエルサレムに、その神殿に、ヒゼキヤの息子であるマナセは偶像をおきました。ふと、思わされました。Q:何故、神殿に偶像を於いたのか?わざわざ、そうする必要が会ったのか?人間的な常識ではありえないことのはずです。クリスチャンとしてなら、余計そうでないでしょうか?ふと、黙想させられたのは「神殿とは私の心でないか」という黙想でした。私の心の中に聖霊様は住まわれています。そこには、偶像が住むことが無いのか?ということでした。クリスチャンとしての至高の召命である人生に、イエス・キリストに似ていく人生を歩むことなく、他の偶像、外に歩んでいく人生が無いでしょうか?神様を伝え、キリストの弟子となって、キリストの弟子を再生産する人生から外れていくときに、最悪の人生になるのでしょうか?また、神様は私の人生や心の一部を臨まれるのでなくて、全てを望まれます。全てに臨まれます。神様のアイデンティを確信して、その人生を歩みます。他のことへ、現実の必要のために歩みません。ラベル: 第二歴代誌
低い心に恵みは注がれる
第二歴代誌32:20-33ヒゼキヤの素晴らしいところは何でしょうか?それは、彼が自分が誰かを知り、神様の恵みを低い心で求めたことです。彼が危機に陥るたびに、「天国に叫ぶ祈り」をしたことです。それに神様は応えてくださいました。アッシリヤのセナケリブは自分の国に帰って自分の鼓舞した偶像の宮で暗殺されました。偶像に頼るものは、偶像によってほろびました。しかし、ヒゼキヤは神様の勝利の後で高慢になってしまいました。そこでも、ヒゼキヤの感謝な部分は、「すぐに悔い改めた」ところです。私たちの心はすぐに悔い改めないところに、心がかたくなになります。かえって、人生が難しくなります。ヒゼキヤの人生の最後は、人々から栄光を受けました。低い心に恵みは注がれ、天国と栄光が来ます。神様の恵みを受けていく低い心になります。ラベル: 第二歴代誌
神様の人は自分が奮い立ち、人々を奮い立たせる
第二歴代誌32:1-19ヒゼキヤの誠実な人生の後に、アッシリヤの王であるセナケリブがユダに攻めて来ました。誠実に人生を歩んだ後に、神様への礼拝を回復した後に、危機が訪れました。普通、祝福がクルとか、続くと思うのでないでしょうか?思わずに、試みに会いそうな瞬間です。しかし、このような時こそ、信仰の実力が問われます。それは、周りの状況を見るのか?世の中の私への脅かしと神様を信じるな、という偽の声と戦います。それは、自分の感情をゆるがせます。世の中の悪の勢力は、受動的ではありません。能動的です。ですから、私たちは神様のみ言葉を基礎にして立ち上がらないといけません。それは、周りの声に揺らされずに、自分が奮い立ち、周りを奮い立たせます。危機の時に、神様にあって奮い立ちます。ラベル: 第二歴代誌
神様の目的の人生を歩むなら
第二歴代誌31;9-21ヒゼキヤの人生は、神様から素晴らしい評価を受けました。それは、決して失敗や過ちの無い人生ではなくて「心と、忠実に行う人生」でした。イスラエルの捧げ物があふれて、山と詰まれたときに「その」説明を求めました。それは、神様の大きく祝福された人生であり、それを証しできる最大のチャンスでした。思わず祈りました。神様の祝福で生きた人生を証しできるようにしてください、と。そのためには、過ちの無い人生ではなくて「神様の目的にある人生」に忠実に生きることが必要です。私には、そのような力はありませんが、神様へ助けを求めて歩んでいきます。神様に作られた目的の人生へぶれずに歩んでいきます。揺れてしまうこともありますが、神様にあって歩みます。ラベル: 第二歴代誌
4ヶ月にわたる捧げ物を見たことがあるか?
第二歴代誌31;1-8神様のリバイバルがおこると、そこには生活の変化が起こります。実質的な神様の働きやその御手が生活の中に祝福として現れます。それは、1:自分の中にある、神様の都市にある偶像を捨てます。私の偶像とは何でしょうか?それは、恐れでないかと思いました。神様にある信仰よりも現実を恐れるものです。2:それは、絶ち滅ぼすものです。無くなってしまう者です。3:感謝と賛美。経拝と賛美が溢れる人生となります4;王であっても、ささげものを自らがします。自発的な献身があります5:祭司とレビ人はフルタイムで専念させます。6:4ヶ月にわたるささげものがでてきます。このような献身を見ているでしょうか?このような祝福を自分の人生で体験しているのでしょうか?このような教会生活を体験しているでしょうか?体験したいのでしょうか?偶像を捨てて、神様に頼る人生を歩みます。ラベル: 第二歴代誌