坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 12月 18, 2009

人の思いと神様の心


マタイの福音書18;18-25
聖霊によってマリヤが身重になったとき、ヨセフは「正しい人」であったためにいろいろ思い巡らしたとあります。彼は正しい人であり、彼女をさらし者にしたくないと思ったとあります。ヨセフが高い倫理観を持ち、それだけでなくて相手へ愛や配慮をすることの出来る常識人であったことを思わせます。果たして、私はそのような愛と配慮を持っている人なのか?とさえ思わされます。
しかし、神様の奇跡は、ありえない神様の最大作戦は人間の常識を超えて働いていました。
ヨセフに、神様は夢を通して「聖霊によって身ごもった男の子は罪から人を救う」という神様の奥義中の奥義を語ってくださいます。人間的には理解できません。しかし、そんな人間を通して神様は共同作業をなさってくださいます。それも、上からのトップダウンの方法でなくて、神様の夢を語ってくださいます。そこに、ヨセフの従順がありました。神様が人間と共に居てくださるのはありえない話です。何故なら、神様は聖だからです。イスラエルの神様として「共に戦う神様」としておられた旧約聖書時代、イエス・キリストが肉体を取ってこられた新約聖書時代、そして続く現在にも聖霊様が共におられます。清くないと共に居ることのできない神様。しかし、そのために自らがイエス・キリストが、十字架にかかってくださり、罪をきよめてくださいました。その主イエス・キリストを賛美します。イエス・キリストを伝えます。神様の夢に従います。

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