坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 12月 24, 2009

言われているうちが花だ


第二歴代誌36;1-9
ヨシヤ王が、エジプトの王であるネコに殺された後に、彼の後に息子たちが王になります。しかし、それは「神様が立てた」のでなくて、「民が選び王にした、エジプトの王に王を変えられ、名前を変えられる」ようなことでした。それは、神様の警告を無視した結果でした。しかも、変えられた王たちはそれでも「主の目の前に悪を行った」のです。厳しい神様の裁き似合うとき私たちはどうすべきでしょうか?それは、神様の愛を信じることです。逆説的ですが、マナセ王は人生の殆んどを神様の前に悪を行いましたが、バビロンへ轢いて連れて行かれたときに、「悔い改めて、謙遜になり、主こそ神であること」を知りました。一番理解の難しいことですが、父なるヒゼキヤの信仰の宗教改革を壊しながらも、あくを行いながらも、裁きにあったときに、神様の前にへりくだり、悔い改めました。そこに、神様の回復が会ったのです。はたして、傷や困難や痛みが、裁きが、神様の警告がある時に、正しく神様の道へと回復しているのでしょうか?それが、成長する道へ進んでいるのでしょうか?神様の言葉のあるうちに、愛に回復していきます。さらに、成長する、きよめられる人生として今の人生、環境を歩んで生きます。

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