注目すべきことは財でなく、心にある知恵だ
第二歴代誌9;13-31今朝のQTは、ソロモンの用いた使った、王座、その周りの獅子、飲み物のために金の器、銀の器が紹介されます。人々は、それに驚きます。しかし、私たちが心を向けるべきことはそれを下さる神様の心です。それは、最上級のものを下さるのです。それを用いよと言われるのです。もし、それを私に下さらなけいとすれば、それを受け取る準備が出来ていない、それを受け取る器が出来ていない、人格が土台としてないといえるのです。神様の祝福はそれを受け取る器が出来ていないときには、のろいとなり、高慢な人生を持って惨めな結果をもたらすのです。私たちにとって、重要なことは神様の下さる知恵とは「心に注がれるもの」なのです。神様の人として知恵を受け、神様の下さる賜物を用いるために、私が今すべきことはナンでしょうか?それは、神様への感謝と神様に仕える心の献身です。何か財をささげるだけでなくて、心からの献身しかも一部でなくて、全てをささげる覚悟、死んでいく、思いが必要です。神様の語られることに従う人生を歩みます。
神様が共にいる人は確かな証しがある
第二歴代誌9;1-12ソロモンを芝の女王がたずねてきました。それは、ソロモンの知恵や反映を聞いてきたものですが、それを見た彼女は、予想以上であったことや「今までの彼女の人生以上であった」ことを告白し、ソロモンの受けた神様からの祝福や、神様が共にいるためにソロモンと共に仕える人や民たちが以下に祝福であるのか?を異邦人の彼女の口から出てきました。神様の下さる祝福とはこのようなものです。もしも、私たちの現実がこのようでないなら残念に思うかもしれません。信仰の素晴らしい人には起こって私には起こらない、とか思っていないでしょうか?しかし、神様に愛されている人には、実は知らないうちにその祝福があるのです。その祝福に感謝し、賛美する人には神様の愛が望み、苦しい現実から自由にし、現実を変えていく力が与えられます。神様に愛されている人としてリーダーシップ、影響力、幸福を宣言し、その中で自然にきて生きます。
神様に礼拝する人は祝福される
第二歴代誌8;12-18今日のQTは、3つの恵みに分けました。①玄関の前に建てた主の祭壇の前で「毎日、安息日ごと、季節ごと、月ごと、イスラエルの3大祭りごと」にささげました。玄関の前に主の祭壇があったことは非常に印象的でないでしょうか。人が初めてに入ってきて、必ず通る場所です。そこに、毎日、そして毎月、季節ごとの「全焼にいけにえ」をささげたのです。私は、毎日必ず通る場所を通して神様に罪のあがないであるイエス・キリストを告白しているのでしょうか?どんなことをする前にも、何処に行く前にも、まず救いの喜びを持ってスタートしているのでしょうか?②奉仕を組ごとに(チーム)分けられた祭司たちの務め、それぞれの役割に向けてレビ人たちを賛美させ、奉仕をさせたイスラエルの霊的なリーダーであるダビデ。神様のリーダーシップはチームによる奉仕と役割に割り振って奉仕を自分だけでなくて、他の人々にさせていきます。神様を礼拝するリーダーは他の人にも奉仕する喜びを伝えていきます。そのエネルギーを世の中の悪しきものに燃やさせるのでなくて、神様の夢のために仕えさせます。③そして、祭司たちとレビ人たちは「ダビデの命令」にそむかなかったのです。それは、ダビデが死んでからもそうでした。まことのリーダーシップは死んでも変わらない神様のビジョンを受け継ぎます、そして、何よりも祭司とレビ人たちがリーダーシップを喜び、神様の命令として受け取ったことに大きな祝福がありました。わたしたちはたてられた牧師やリーダーを喜んでいるでしょうか。ソロモンはその後で、礼拝を通してツロの王であるヒラムを通して貿易をする祝福を得ました、正しく神様を王として礼拝し、日ごとに仕えるときに、共に奉仕するときに、生活の祝福も来ることを信じました。神様を礼拝し仕えます。
神様の民として生きる2つの質問
第二歴代誌8;1-11ソロモンが、主の宮と自分の宮殿を20年かけて立ててから、次の事業に取り掛かったことが記録されています。倉を立て、戦ったり、建築をしたり、防御の町を建てたりします。6節「ソロモンは自分の建てたいと願うことを全てした」とあります。なかなか自分の建てたい、と願うことが全部できる人はいないでしょう。世の中でなかなかこういうことは羨ましいかぎりでないでしょうか。ここで見つけれることがあります。①物事の優先順位や順序があるということです。それは、神様のこと(特に礼拝する)を一番先にしているのか?次にしていることが家のことであり、それから建設をしました。私の優先順位は神様を一番先にしていますか?ということです。→一番最初に神様と出会うQTをしていきます。そのための一日のスケジュール作りをしていきます。二番目の問いかけは、②あなたの判断基準は何ですか?です。それは、イスラエルの王となったソロモンは、ヨシュア時代から聖絶できなかったカナンの先住民たちを苦役に徴用したとあります。それは、能力的なことや力を見ると彼らにあわないことだったかもしれません。また、神様の民であるイスラエルには決してそのようなことをせずに、「彼らは戦士だった」というのです。それは、神様の民であるイスラエルのアイデンティは「奴隷として苦役」させれない、というメッセージです。カナンの民よりも下手したら、戦闘能力も劣る人たちもいたかもしれません。しかし、神様の民であるイスラエルには、すべき仕事、人生の生き方、アイデンティが違いました。ですから、ソロモンは扱いを変えて、しかもソロモンの判断基準、考えに違いがはっきりと会ったのです。②私の判断基準はナンでしょうか?能力で選ばれたのでなくて、イエス・キリストの十字架で選ばれたものとしてふさわしき生きているでしょうか?また、クリスチャンとして考えを持って判断基準を持っているのでしょうか?私の現在を、未来を神様の民として判断していきます。
わが基準はダビデの道
第二歴代誌7:11-22ソロモンとイスラエルの民たちが神殿の奉献を終えた夜に、主イエスが現れます。それは、ソロモンの祈りの応えられた神様の答えがありました。神様に応えられる祈りとは、どう違うのでしょうか?①神様に聴き従う人②神様の応えられることをBESTと信じる人③神様と親しくある人(14節)そのためには、④神様の前に「自らへりくだる人」である必要があります。自分の主張だけ強くてはどうして人の話が聞けるでしょうか。まして、全知全能の神様です。④祈りをささげ⑤神様の御顔をしたい求める人です。それは、悪いところから立ち直ります。自分の愛する人や親しい人いるためには、悪いところや罪あるところには入れません。神様は16節「その目と耳を神様の宮」に注がれています。そのように、私たちに釘付けなのです。いつも、そこに臨在されるのです。いつも、あの人のことCHECKしているよ、というような気にしてくださっているのです。そして、神様はソロモンに、また私たちの生きる道、基準を「ダビデが生きたように神様と歩み、そのおきてと戒め」を守ることといわれます。それは、神様と共に歩むことは、いつもイエス・キリストの十字架の恵みを、毎日持っていることです。そうでないと、不完全な弱い私たちは倒れてしまいます。自分の力で生きようとして倒れてしまうのです。神様の永遠の祝福を受ける人生は、恵みを受け続ける、意識を持つことです。私は何者でもなく、罪びとがイエス・キリストの十字架の愛で許され、神様の子とされたのです。クリスチャンとして生きるアイデンティを回復したのです。そのためにどういう法則があるのでしょうか。①神様のみを礼拝すること(王として、創造主として私を治める方)②21節(宮)礼拝と(この地:企業、相続、生活)私の人生はペアであること。決してはなれないこと。私たちは、日ごとの現実から逃れるために、自分の痛みから逃れるために、自分の信念を曲げたり、そしてついには罪を犯したり、信仰を横に置きがちです。目の前の必要や時に快楽のために罪を犯してしまうことがあるかもしれません。しかし、その結果は破壊なのです。罪は隠しておけば、大丈夫と思うかもしれません。個人のものだと思うかも知れません。しかし、神様にある信仰は共同体のものです。罪を犯されてのさばき、警告は深刻なものです。しかし、その警告や裁きを行われて苦しいのは神様ご自身なのです。神様の下さったその信仰の道を私たちが歩まないときに、神様の国が、宮が崩れてしまうのです。そんなことがあってもいいのでしょうか?なんとそういうことがたくさん会ったのでしょうか。神様の下さったスタンダードこそ完璧に安全で、幸福で、それでいて冒険のある人生です。神様にある礼拝と人生を歩みます。
CELEBRATEするための霊的STEP
第二歴代誌7:1-10ソロモンが祈ると、天から火が降ってきて祭壇の「全焼のいけにえ」と「数々のいけにえ」を燃やしつきました。これを読みながら、こんなソロモンの祈りをしてみたいものだなと思いました。しかし、はっと気がついたことがありました。これは神様が待ち望んでいる祈りであることを思いました。私の思ったことは、こんな祈りが出来たらすごいだろうな?人が見て驚くだろうな、という人間的な汚い祈りでした。自分の栄光のために願い出、本当に嫌なものでした。しかし本当はそうではなくて、神様ご自身が「私たちの罪」を消し去る火を注がれることは、私の栄光を消し、まことの永遠の栄光である神様のみが現される祈りでした。神様にあって祝典を持つ最高の喜びは、霊的なSTEPがあります。それを飛び越しての祝典は、礼拝は見せかけのものになりやすいものです。①神様からのきよめの炎が下ること(罪を清め、私と神様の間にある罪を消し去る)神様と私たちの壁が無くなり、神様と共に歩めるようになる②祭司さえも入れない圧倒的な神様の栄光、恵みによって和解する③主の恵みは永遠にあることを喜ぶこと(私たちの救いは神様からのプレゼントによります。私の力によりません。そのために安心して、自信を持って揺るがない人生を生きることが出来ます)④神様にある真理は恐れから自由にします。それは、創造主なる、本当に裏切らず愛される頼れる神様から離れていたことから恐れから解放します。恵みによる人生は自由にし、愛を持って生かします。今朝、神様の前にきよめの炎が下され、罪が清められ、神様の栄光の前にひれ伏す祈りをします。
HOUSE OF GOD
第二歴代誌6:32-42私たちの心を神様の家へ向けること、私たちの祈りを神様にささげることが出来るのは、最高の喜びです。最大の希望です。何故なら、どのようなことがあっても、神様は私たちが罪を悔い改めて「神様の家に向かう」ならば、聞いてくださり、回復してくださるからです。ソロモンは、外国人、異邦人たちでさえも「神様の家」に来て祈るならば、「御名が呼び求められなくてはいけない」となるように祈るのです。ソロモンは、群れのリーダーとして、共同体のリーダーとして最も大事なことをします。それは、神様が祈りに応えられる方であり、それが外国人もそうであることを、世の中で一番大事なメッセージを伝えます。その神様の偉大さを伝えます。私たちは状況に負けて、現実的なことに目を向けがちです。また、罪を犯すときにかえって神様から離れてしまいがちです。逃げてしまいがちです。しかし、まことの神様は悔い改めて神様の元の変えることを心から喜ばれて迎えて受け入れてくださる方です。そして、悩みの中で祈るときに、神様に助けを求めるときに、とりなしの祈りをするときに心から喜び、共にいてくださり、神様の力強い御手をもって働いてくださる方です。逆に、神様に行かねば、働きを止めてしまいます。神様の共同体の働きとダイナミックを止めます。今日の礼拝に神様へ心を向けて祈り進んでいきます。
人は状況を見るが、神の人は心を神様に向ける
第二歴代誌6:22-31神様は私たちの行動やみかけや結果を見る方でなくて、心や生き方を見られる方です。神様は一番公平で、一番正確な裁き主です。それは、本当に感謝なことであると同時に、一番厳しいことであると思います。神様は決して侮られる方ではありません。私の人生は、心は神様へのまっすぐな愛と行動で歩んでいるのでしょうか。神様の感謝なことは、一番公平な義の裁き主であるにもかかわらず、「キリストの十字架のゆるし」を下さったということです。そして、私に「神様の良い道」と「相続地」と「雨を降らせる」方なのです。私の人生の生き方、そして働いてなすべき仕事、遺産、すべき与えられる日常の糧、そして日ごとにそれらを育てる「神様の恵みの雨」があるのです。私はなんと状況や目の前の現実だけを見ようとしているのか?と思いました。神様を愛し、共に生きる人には「人生の良い道」そして「相続地」を与えて、日ごとの「恵みの雨」を降らそうとしているのに、なんとそれを見ないでいるのか?と思いました。本質を見ないで、その周りを見ないでいるのか?と思いました。それに対して、イスラエルの民に「ききん、敵の迫害、収穫を邪魔するもの、病気」などを通して、神様の前に悔い改めるようにと愛のメッセージを、回復を用意してくださいます。今日、神様の前に「私の心を神様へ向けさせてください」と悔い改め、祈ります。アーメン
キリスト教の奉納は、神様と顔を合わせての時だ
第二歴代誌6;12-21イスラエルのリーダーであるソロモンは、政治的、軍事的指導者なだけでなく、宗教においても神様の信仰を持つ指導者、リーダーシップを必要として、また、霊的な影響力を持っていました。ソロモンは、神様へ手を上げて、ひざまずいて祈ります。ここまでなら普通の宗教儀式にもあるかもしれません。しかし、それが違うのは「神様の下さった約束が誠実になされた」ことについて感謝し、「しもべに契約と愛を守る方である」と告白することです。しもべにそのようなことをする義務が一般的にあるでしょうか。それは、一方的な神様の恵みです。それをソロモンは告白し、神様の口が語られたこと、そして御手を通してなされたことを賛美します。神様のみ手を見ることが出来るソロモンは神様のみわざを自分の生活の仲で体験しました。そこから、出てくるソロモンの祈りは違いました。霊的な指導力やリーダーシップは神様の関係から、神様のみ技を見ていることから出てきます。新約聖書では、神様の宮は一人ひとりのクリスチャンの中に住まわれるといわれました。それなら、神様の前に恥ずかしいことや、隠し事は出来ないはずです。この時間だけ神様席をはずしてとはいえないはずです。また、神様の顔を見れない関係にはなりたくないのです。お互いに顔を見れない、避けあう、関係にはなりたくないはずなのです。今日、主イエス・キリストの十字架の愛を持って神様のみかおを慕い求めていきます。
毎週、主の臨在ある礼拝に立っているのか?
第二歴代誌6:1-11ソロモンは、「主は暗闇の中に住まわれるのに、私たちは神様の約束にあって神殿を建てた」という奉献の祈りをしたときに、イスラエルの長老たちは立ち上がったといいます。それは、神様の臨在でした、その圧倒な神様の臨在の前に「立ち上がったのです」はたして、このような神様の臨在される礼拝を経験しているのでしょうか?それを毎週経験しているのでしょうか?また、神様のなされたことを神様は「御口」を持って語り、「御手」をもって行われたといいました。それは、私のしたことでもなく、神様のなされたことであると証しをしたのです。私のしたことではないのです。しかし、神様が人格をもって私の人生に現れてくださり、まるで「御口」と「御手」をもって行われたことを私たちは見た、またそれを共に働かせていただいた、という「神様の御手が働く」ことを目撃した、ことを証ししているのでしょうか?そのような証しが私の中にあるのでしょうか?聖書を通して、私はそれを目撃しているのです。そのようなために、心がけているのでしょうか?私の主人である神様のみ口と御手を持って働かれる神様の臨在の礼拝の人生を歩みます。
神様中心の礼拝か?私が中心でないか?
第二歴代誌5:1-14ソロモン王は、神様の宮が完成したときにイスラエルの長老たち、リーダーシップを集めます。そして、奉納をします。現代風に言うと、開所礼拝とでもいえるでしょうか。そこで、思わされることはイスラエルのリーダーたちの献身とレビ人たちの仕える姿です。ここで黙想されたことは①まず、ソロモンはイスラエルのリーダーシップと礼拝することを、優先的に分かち合い、共にささげた。②祭司やレビ人たちがまず仕えたのですが、他の長老たちリーダーシップたちは、その人々はその役割分担に奉仕分担に不平不満も無く、共に仕え、自分たちのいるべき領域で使えた。現代的に考えたのかもしれませんが、祭司やレビ人のする奉仕に嫉妬したり、自分たちが入ろうとしなかったのかなと思いました。現代なら、自分たちの嫉妬など比較など入ることがあるかもしれません。それは、神様がレビ人や祭司を任命されたことへ怖れる、神様への従順があったはずです。③ささげものが、数え切れないほどあったということです。今の私たちにそのようなささげものがあるでしょうか?量の問題でなくて、喜びの問題です。④祭司が務めの順序に関わらず、身を聖よめた(11節)です。どのような奉仕でも、人の前に小さく大きく見えても、目立つように目だ無いように、時間が短くても、長くても、私たちの最善は「神様と親しい」聖さを準備することなのです。⑤賛美が「一人」のようであったとあります。それは一致を意味します。神様のみ声に神様のビジョンに一致しているのです。神様の奉仕への願いへ自分中心でなくて、神様中心にするときに、神様の臨在、共におられ、栄光が溢れる礼拝となります。神様中心の時に、神様も喜ばれ、他の人々とも平和であります。今日のとき神様中心の交わりをします。神様の学びをします。神様を礼拝します。
神様に用いられる人生のために
第二歴代誌4;1-22神様の神殿で用いられるための道具とその作成過程を読みながら、神様のための道具が何故書かれているのか?黙想させられました。①同じ道具も、何のために用いられるのか(目的)によって全く違うことへ行く、私たちの人生も何のために、私の時間や賜物を用いることによって全然違う人生になること②その道具は誰のために(神様のため、自分のため、人のため、この世のために、この世の権勢のために)使われるのかによって全く違う結果と満足を持ってくる③それぞれの道具は、神様の目的によって用いられ方や用いられる時が違ってくる。私は神様に用いていただく場所と賜物を知り、その時に期待して準備しているでしょうか?それとも、自分のしたいときに、したいことをしている人ではないでしょうか?④BESTの物がささげられるべき方が主イエスだけである。いい加減なものがささげられることを神様は決して喜ばれないし、神様は侮られる方ではありません。もしかして、私たちのささげものは、いい加減なものをささげることや、中途半端なものでないでしょうか。⑤神様に用いていただくものは、聖くないといけません。それなのに、自分の我を張って仕事だけは奉仕はしたい、と行っていないでしょうか?私は高い素晴らしい器だといって、洗っていないコップではいくら高い器であっても、安く表れた器で人はコーヒーを飲まないのでないでしょうか。私は神様の計画を知り、その神様のために、私という器を用いていただく人生を歩んでいるでしょうか?誰のために、働いているのでしょうか。私は清められているのでしょうか。神様にある決断をします。
キリストの十字架のために仕えた人々
第二歴代誌3;1-17今日の題名を見て、変だと思った人がいるかもしれません。しかし、主の宮はエルサレムのモリヤ山の上で、準備されたのです。それは、アブラハムがイサクをささげた場所であり、ダビデが神様の前に全焼のいけにえを持ってゆるされ、礼拝の場所とした場所であり、そして私の主イエス・キリストが十字架に掛かられた場所です。そこに、神殿が建てられたのです。今朝、思わされたのは神殿を立てる人であるソロモンと、その場所を定め、準備して、願い出て、「あなたは血を流した」と言われて準備することに命を尽くしたダビデの姿でした。神殿を建てる栄光は、ダビデが受けたのでなくて、ソロモンが受けました。どちらが大変な作業をしたでしょうか?神殿の場所を決める、霊感を持ち、そして材料を集め、喜んでささげていきたダビデでしょうか?しかし、彼にとって、神殿を建てる栄光など気になったのでしょうか?また、神様の思いを聞いたときに自分の思いや感情は別にして何よりも、最善をなされる神様の心を信じたのでないでしょうか?この神殿のあった場所において、主イエスは後に十字架に掛かる場所になったのです。何度もささげるいけにえでは、完全に罪を消し去ることは出来ませんでした。そのために、主イエス自らがささげものとなられたのです。そこに、私たちが何もいえない犠牲と愛があります。神様の前に、私が色々不平や不満や奉仕で光があたらないん部分があっても、神様の計画に沿った奉仕と喜びを持って歩んでいきます。主イエスを愛します。主イエスの真実な約束を信じます。
神様の用意された熟練者
第二歴代誌2:13神様の宮を立てるために、神様がこの異国に地に用意された人物がいます。それは、熟練した職人であるフラムでした。彼は、ツロの人とダンの人の国際結婚?この時代はそんな感覚が無いと思いますが、そのような血縁も持っていました。イスラエルには、当時このような神様の宮を建てる技術者がいなかったようです。そこで、異邦人の地から助っ人が来ることになったのですが、「ソロモンが材料の提供と提供してくれる国への条件とそのために仕事する人々の待遇」を具体的に話し、礼を尽くしたために出てきた、大きなボーナスです。神様のために仕える人には、もっとも大事な備えさえも共に神様がくださいます。しかも、イスラエルと無縁な人でなくて、母をイスラエル人とする人でした、主のために用意された人、それは具体的に一生懸命仕えるときに、さらに準備されます。今日、礼拝のために準備された人ともに奉仕してきます。
神様の立てられたリーダーのゆえに幸福か?
第二歴代誌2:11-18ツロの王は、ソロモン王の知恵と彼の態度を見て、彼の人物を見てこう言います。「主はご自身の民を愛して」「あなたを彼らの上に王として」立てられた、とあります。①私のために、リーダーが立てられていることが「神様の愛」だと思っているでしょうか?この世の中は、リーダーが自分をいやなところに連れて行く人であると思わせます。権威主義からの嫌な被害を私たちは受けています。傷を与えています。しかし、まことの権威は秩序を与え、私たちの安全を守り、正しい方向へ指示するものです。②また、リーダーは自分に栄光を返すのでなくて、神様が素晴らしい、神様の計画が建てられたことを他の人々に喜ばせる、賛美させるリーダーシップを持っているのでしょうか?それとも、自分に栄光を返すリーダーなのでしょうか。③また、リーダーへの従順を持っているでしょうか。こちらから、尊敬し、愛して歩んでいるのでしょうか。こちらから、挨拶をしているのでしょうか。今日は、主にあるリーダーシップを持ってしたがって生きます。
神様を喜ばす祈りと人々と平和をもたらす態度
第二歴代誌2:1-10ソロモンは、主のために宮を立てようとします。そのために、宮を立てる建築家や指導者たちを導入します。そして、さらに非常に大きな投資をして、ささげものを「朝ごと、夕ごと」そして「月ごと」季節ごと、毎日のパン、香りのささげものをよういします。それは、礼拝への渇望でした。また、そのようなものを立てる私が、偉大な神様が天にも、地上にも入れないのにそのような方の前に私が何者であろうか?という祈りをしたのです。また、自分たちイスラエルだけでは宮を建てれないことを知り、他国に非常に謙遜で、責任を取り、ベストを尽くして協力を求めようとします。①神様の前に自分は何者であるのか?ということを知っている謙遜な態度②さらに、偉大な神様を知っている、いや知りえない素晴らしい神様への思い③その方に、朝も夕も、月ごとも、季節ごと、年毎、にささげものをしたいという礼拝への渇望④そして、隣人への謙遜で礼儀のある姿勢それらは、すべて神様への礼拝からくるものでした。明日の礼拝に神様への渇望、自分がいかに罪びとであったのか、人々と協力する礼拝者の人生を歩みます。
一番必要なものを求める心を失うな!
第二歴代誌1:7-17人間は、生きるか中で本質だけを求めて生きることが必要です。しかし、なんと私たちはその本質以外のものに惑わされやすいものでしょう。お金であったり、人からの褒められる言葉であったり、評価されることだったりします。今日のソロモン王の姿勢を見ながら思わされたことがあります。彼は、自分のために富や富貴を求めませんでした。また、自分の敵の命を求めることがありませんでした。これが、後のイスラエルの王様たちと違うところです。ダビデ、ソロモンをイスラエルの王として召された神様は、神様の国を立てるために、ふさわしい賜物を与えその責任を取ってくださるのです。いや、一人でしておきなさい出なくて、共に神様の国の建設にいてくださり、力をくだ去るのです。ソロモンに王としての知恵、リーダーシップ、導くことが出来るように、全てを用意してくださるのです。神様の国の管理者として必要なことは何でしょうか。それは、神様との親しい関係です。何よりも、神様を優先にする心です。神様の下さった使命へ忠実な心と、神様を愛して仕える心です。ソロモンは、王となったときに、イスラエルの民をどのように導くのか?その知恵を求めました。神様の喜ばれる願いでした。まことのリーダーとしての責任と特別の権利、その目的を知っているソロモンの答えでした。本当に必要なことを、本質だけを知って求めたのがソロモンなのです。今朝思わされたのは、なんと私は仕事や協会の奉仕をするときに、自分の条件面や環境の準備を願い、先に祈ることか?そのためにどれほど心配をしているのか?ということでした。神様の奉仕のために必要な知恵を求めずに、その周りの条件や環境だけを求めるならどうなるのでしょうか?その祝福がかえって災いとなります。神様は本当に必要なものを求めるときに、必ず付属して祝福も「並外れたもの」を与えられます。今朝、このように祈りました、条件や問題でなくて、SIDEのことでなくて、本質だけ祈らせてください。牧会者として必要な神様への愛、知恵、人々への愛、生き方を与えてください。主イエスの必要を求めていきます。
神様にベストを尽くして出会う準備をしているか?
第二歴代誌1:1-6何故、神様にお会いしたいと思うのでしょうか?それは、好きな人にあいたいように、神様に愛されている者は、自分も神様を愛するからです。ソロモンをイスラエルの王とされて、「並外れて」偉大なものとされた神様は、ソロモンを愛されたように、私をも愛してくださいます。そして、愛する人いるのが幸福なように、楽なように、神様と共にいることが最高の祝福となります。神様と共にいると神様の心が気になります。それは、幸福な負担感です。神様に喜ばれることは何か?と思うことはまるで恋愛する以上の喜びなのです。神様と共にいると神様の心が分かります。そして、父なる神様の愛が分かります。その神様の愛によって私へ計画を建てられていることへ期待が出来、信じ、従う気持ちが起こります。ソロモンへの神様から来る祝福は、イスラエルの民を祝福することを通して、神様の国はこのようだ、というロールモデルを作られました。また、神様の国を通して、全世界へ神様の救いを届けようとされました。ダビデ王の子孫を通して、メシアなるイエス・キリストが生まれました。祝福の通り道として広げてくださったのです。そんな神様に出会うために、ソロモンとイスラエルは最高のささげものと、自分が罪から清められることを願いました。そのようにして神様に出会うことを願ったのです。私はそのような喜びから、どんな犠牲を払っているでしょうか。いや、犠牲を払うとも思わずに、喜んでささげているのでしょうか。もう一度、聖書通読と祈りの時間をささげます。そして、神様のために、神様と共に宣教の道へ向かいます。主よ、私と共にいて導いてください。
キリストにある価値観を持って迫害を願うか?
ガラテヤ6;11-18クリスチャンの価値観の逆転には、「祝福を願い、繁栄を求め、人々からの名声を求める」のが最高の人生ではなくて、「キリストのために迫害され、人々からのけ者にされ、裏切られて、ののしられる」ことがあります。祝福を受けて、繁栄を願うことは、悪いことではありません。必要なことですし、そのように生きたいと思います。しかし、本当にキリストのゆえに迫害されえ、さげすまれることを喜ぶことが無ければ、まことのクリスチャン、神様とつながった命のあるクリスチャンと言えないかもしれません。私自身が、安全な生活、支えられることを願います、祝福を求めます。しかし、今朝思わされたことは、私は新しく創造された存在か、?神様の基準に従って生きている人であることを感じました。アイデンティは神様の、イエスの焼印を帯びた存在として、本物のクリスチャンとして歩んでいるのか思いました。宗教的行為を持ってこの世の名声や褒められる言葉を期待する人生は、パリサイのような信仰生活は、実はイエス・キリストから遠い人生なのです。関係が無い人生なのです。イエス・キリストのゆえに苦難を選んでいるでしょうか。迫害をされる人生を喜ぶイエスの焼印を帯びて生きます。
御霊の人とはリーダーシップとなる
ガラテヤ6;1-10御霊の人とはどのような人でしょうか?と黙想しました。それは、神様の力によって生きる人です。人間の力や行いに頼らない人です。神様の霊によって歩む人です。キリストによって義とされた(BEING)ことに自分の力と考えと価値観を置いて歩む人です。そして、キリストによって律法が完成されたことを喜び、キリストによる律法を完成することを期待して生きる(DOING)人です。その結論はまた御霊の人はひとりの信仰生活によって完成されるものでもありません。それは、信仰の共同体の中で完成されるものです。聖書は、「互いに重荷を負いあいなさい」と言われます。御霊の人は独裁的な人ではありません。恵みの真理に立ちつつ、愛によって人々に仕える、良い影響力を与える力です。教える御言葉を持っている人は「全ての良い持ち物を分け合いなさい」とあります。私は果たして、全ての良いものを惜しむことなく分かち合っているのでしょうか?恵みは分かち合います。しかし、キリストの恵みでなく、行いにある人は自分にとどめます。御霊に支配される人は自分が主人でなくて、イエス・キリストが主人です。そのイエス・キリストの心は愛であり、分かち合うことであり、正しい人生へ、最高に幸福で、自由な人生のために恵みを全て分かち合います。それは、霊的なリーダーシップをもたらします。それは、教職者だけでなくて全ての救われたクリスチャンに言われていることです。御霊の人として愛を持って仕え、分かち合い、恵みの真理にあって人々と交わります。
愛の無い律法はカレールーの入っていないカレーだ
ガラテヤ5;13-26昨日、教会礼拝が終わって交わりをしていた時に、みなで食事をしていたことのです。食事の献立は、カレーでした。ある姉妹がカレーってすごいよね、料理の材料をどんなにいい加減に切って入れてもカレールーさえ入れればカレーになるもんね、という話をしていました。ずいぶん件そんな話でしたが、朝QTをしていた時に、気がついたことがありました。どんなに素晴らしい律法による行いをしても、努力をしても、善行をしても、人からの評判が良くても、人からの賞賛があっても、愛が無いなら全く本質の無いものになると思わされたことです。昨日も少し書いたように、律法は行いに焦点をあてていて、その心の動機を問われることはありません。しかし、恵みは心の動機が問われます。愛によって働く信仰によるのか?神様が喜ばれること、神様に栄光を返すこと、他の人が神様の愛によって益を受けるのか?それとも、自分に栄光と人気と返すのか?自分が審査員なのか?問われます。御霊の実は明らかにその内容を行いの内側を見せます。カレールーの入っていないカレーは食べれません。私の人生、生き方は何が入っているのでしょうか?神様の力、霊によって歩めるのでしょうか?気をつけないと、毎日の歩みのうちに徐々に知らないうちに落ちる危険性があります。御霊によって始まり、歩み、完成される人生を目指して生きます。
審査員はキリストだけ!
ガラテヤ5;1-12キリストが十字架によって、死なれることを通してでないと、それを信仰で受け止めることでないと「決して真の解放はありません」しかし、なんと私たちはそれを勘違いしてしまうことでしょうか。最初は、イエス・キリストによる信仰によってスタートした自由が、「割礼を受けないとだめだ」という信仰プラス何か頼る、もしくは信仰生活にプラスして行いをしていこうとする、勘違いがありがちです。それは、今も初代教会において起こりうることだったのです。キリストが私たちを義としてくださったのは①BEING(存在そのもの)を義とされたことであり、DOING(行い)は存在そのものから出るもの②救いは、まず私の存在そのものを義として下さった物である③私が義であるから、義を行って生きるしかない何をしないといけない、義を生きないと私の存在はだめだ、なくて、すでにキリストによって義とされたものを、人間である私が否定してしまうのです。律法は行いの心の動機や中身を吟味ずることなく、行いに集中します。しかし、恵みは行いのみならずに、心の動機が問われます。聖書は言います。愛によって働く信仰が大事である、と。今日を愛を持って歩みます。神様にのみ信仰の審査員として御座についてもらっていることを賛美し、感謝します。
神様にある自由を賛美せずにいられない
ガラテヤ4:21-31神様にある自由の子供となったのは、絶対的に自分の力であはありません。100%神様の力です。100%神様の誠実さから来るものです。100%キリスト・イエスの十字架の力によります。信仰は約束を受け取る「からっぽの手」のようなものです。そして、自分のもともと神様の願われた「神様の子供」として人生を回復することが出来ます。私は、奴隷の子なのではないのです。私は自由を持った子供なのです。罪の奴隷の人生でなくて、こうしないといけないという脅迫概念、罪責感に縛られる奴隷でなくて、自ら自由意志を持って愛を選ぶ、自由な子供として人生を歩むことができるのです。自分の力では決してすることの出来なかった、自分を変えることが出来なかったことが、主イエスの十字架によって出来ます。アブラハムの子孫とは、その恵みをとどめる人でなくて、さらに流す人です。そのまま終わることがありません。さらに、その人生与えてくれた、共にいる神様を賛美せずに入れません。奴隷の子供として生きたい人がいるでしょうか?罪の奴隷にいることが馴れ合いにいたいと思う人がいるでしょうか?その最後は滅びです。神様の誠実さ、そしてその愛を今日賛美していきます。
神様の恵みはあまりに正直で、心からの純粋な思いを伝えさせようつする
ガラテヤ4;12-20今朝のQTを通して思わされたいくつかの黙想ポイントがありました。①:キリストの福音の関係がゆがむとき、神様との関係がゆがむときに、人間関係もゆがむことを思わされました。あれほどまでに、使徒パウロのために「目を抉り出して与えたいと思ったほど」の愛を持っているガラテヤの教会の人々が惑わされて、パウロを偽使徒でないかと思ったほどです。主イエスの福音がゆがめられるときに、人間関係も壊れます②:サタンは人間関係を通して、神様への福音を疑わせます。そこには、キリストの関係を壊し、喜びを失わせ、愛を失わせ、代わりに疑いを持たせます。③:神様の恵みを締め出す働きをする人は、常に自分に熱心を集中させます。最後の栄光は自分にあります。人々の熱心は、人々の慕い求めることは自分にあります。常に閉ざされた恵みです。逆に、神様の恵みを流す、SHAREするのは、OPENで、人々の熱心と慕い求めることは、常に神様によってあります。栄光とGOAL、そして過程、STARTは神様にあります。④:そして、あまりに純粋に、正直に、自分の思いを伝えようとする、自分の思いを、愛を分かって欲しい、というストレートでテクニックを使わないパウロの愛での勝負する心があります。はたして、神様の恵みを持ってこのような姿勢でしょうか?今日、本当に純粋で、心から伝えようと愛を持って歩みます。
相続人として生きるのか?奴隷として生きるのか?
ガラテヤ4;1-11イエス・キリストの御霊、御子の御霊を心に受けることを通して私たちは、私は神様の子供です。もはや、奴隷ではないのです。神様にある祝福を受ける、この宇宙を治めていく相続人です。しかし、そのために、イエス・キリストは1:女から生まれてくださいました(原罪のあるアダムの子孫でなくて)2:律法の下にある者として生まれてくださいました3:しかし、自分の意志で罪を犯さないことを選び、義に生きることのモデルとして、信仰で生きるモデルとして地上での完璧な生涯を生きられました。4:それは、私たちが神様のことして生きるために地上での生涯を歩まれたのです。5:地上で律法によって、神様の義を、道を示されるだけでなくて、違反が示されるだけでなくて、そこでキリストの十字架に行くしかないと養育係だけでなくて、自ら義に生きたい、義を行いたいという人生へ招かれたのです。6:アバ。父よよ呼ぶ人生へと招かれたのです。父なる神様に親しく呼べる関係になったのです。それは、キリストの十字架によって義そのものとされた、存在そのものが義とされたことによるのです。はたして、私は神様を親しく、「アバ、父よ」呼ぶのでしょうか?父よ、お父さんと呼べるのでしょうか?それとも、律法の行いの中で遠い関係の神様であるのでしょうか?祈る呼び求めてみました。本当に素晴らしいですね。相続人らしく、自分の人生をいや神様の人生を、神様に預けられた人生を、生きて、用いているのでしょうか。相続人として歩みます。ハレルヤ主なる、父なる神様を賛美します。
私を人格者と扱う神様はイエスを奴隷とされた
ガラテヤ3;19-29主なる神様は、私を救いへ導くために、律法を与え、主イエス・キリストにある信仰の養育係としてくださいました。神様を離れて生きている違反を教えてくださいました。的外れを教えてくださいました。しかし、それはいつも強要でなくて神様は人格者として、扱ってくださいました。そして、神様にある相続者としてくださったのです。自由を与えようとして、神様の子供として、キリストに属するものとして一つにして下さろうとしました。しかし、いつも神様はそのためにキリストを卑しめられ、十字架の愛によって一番低くされました。神様から離れたものとされました。あまりに分が悪い話で無いでしょうか。また、あまりに理由の無い話で無いでしょうか?このような愛を私は受けたことがあるのでしょうか?私が人格者として扱われる反面、自由人として、意志を持つ大人として、扱われて、切ない愛で愛してくださったのに、主イエスは無条件にいわれの無い苦しみと辱めを受けたのです。ハレルヤ!主イエスを賛美します。このような愛に律法でなく、心でこたえる人生を歩みます。
期待することは神様の愛への信頼から始まる
ガラテヤ3;1-018今朝のQTをしながら感じたことがありました。それは、律法が完全であり、一つも例外なく、守ることを要求し、人間に絶望を持ってきます。すると、神様のキリストの十字架によって信仰によってしか、生きることが出来ないのに、人はそれを選ぼうとせず、もしくは選んで神様にある信仰に立ったにもかかわらず、しょっちゅうもとの律法に、完璧に、しないといけないと戻ってしまいがちです。それを正しい方向へ戻すのはナンでしょうか?それは、私を救うために、神様にある関係に戻し、最高の人生を歩むために、義そのものである方、義存在そのものである方イエス・キリストが、「のろいそのもの」となられた事実なのです。何故、そうなられたのでしょうか?それは、それ以外に私たちを救う方法が無かったのです。それは、神様の肯定的で、積極的で、幸福思考の、愛である方の最大限の犠牲であり、無理をされる愛なのです。その方が、イエス・キリストの十字架の結果、御霊を下さったのです。それは、神様にとって利益のある話でもなく、ただ犠牲のある愛でした。人を利用しようと言うのでなくて、与えようと言う神様の愛でした。アブラハムへの約束は、彼を通して全ての人が救われる、全世界の人への救いが届けられる、という内容でした。それは、アブラハムも予想し得ない、信仰で見た神様の子であるイエス・キリストが十字架に掛かって人々が、しかも自分の意志で、信仰で救われることでした。はたして、私はそのような神様の愛にあって私への約束を、計画を期待しているのでしょうか?難しいときに、神様への愛を疑ったり、否定的になったり、消極的になったり、不平や不満が出て、感謝がなくなります。何よりも期待できないでいます。そういう時に、もう一度、神様ご自身が受肉されて、人として来られて、十字架に掛かった、のろいそのものとなられたイエスの愛へ賛美と祈りをささげて生きたいと思います。一つでも、信仰の告白をして生きます。
AD49年も2009年もキリストをはっきりと啓示される
ガラテヤ3:1-9ガラテヤ人への手紙が書かれたことが、第一次宣教旅行の後であるなら、AD49年ごろに南部ガラテヤ地方の人々へ書かれたことになります。そのガラテヤ人に向かって、パウロは「キリストがアンナにはっきりと示された」のに、と言います。それは、イエス・キリストの十字架を現場であるエルサレム、カルバリで見た人はいなかったでしょう。しかし、聖書を通して、御霊の働きを通して、宣教師であるパウロたちを通して、彼らは行いでなくて「イエス・キリストの十字架」によって罪許されることを体験したのです。徹底的に人間の行い、善行でなくて、神様の力によるものを信仰によって受け取ったのです。ですから、血統によるイスラエルがアブラハムの子孫なのでなくて、イエス・キリストの十字架の血潮による信仰の人々がアブラハムの子孫なのです。では、私はアブラハムの子孫としてどのように生きるのでしょうか?どのように信仰の人として生きるのでしょうか?信仰とは、神様の祝福を受け取る唯一の道であり、神様の祝福を分かち合う道です。アブラハムは創世記12章において「行くところを知らずに、出て行ったのです」信仰は意志です、WILLです。私にとってすごく示される部分があります。本当に信仰がないなと思います。神様への信頼を持ってしたがっていきます。
福音の真理を歩む人は教えるだけでなく手本となって歩む
ガラテヤ2:11-21私たちの人生の基本的な基盤は、指針は、行いによらず神様の恵みで下さった、プレゼントである、イエス・キリストの十字架なのです。そこに生きると信じ、告白したことなのです。しかし、それを私たちは簡単に忘れてしまいます。実際の日常生活に忘れしまいます。人間関係を気にして、今までの生きかたや、人からの評判を気にして、福音の本質によって歩むことを忘れます。それは、使徒ペテロでさえもそうでした。そこで、パウロは公衆の面前で堂々と講義します。①果たして、私たちは間違ったことをしている人を抗議できるでしょうか?まことの愛と真理がなくては出来ません。人を恐れては出来ませんし、まことの神様を怖れてこそできることです。②また、ペテロのように(あの、素晴らしい使徒でさえも)人を恐れて本心と違う偽りの行動をとってしまうのです。私にそのようなことはないでしょうか?ガラテヤ2:20「今生きているのは私でなく、キリストが私のうちに生きているのです」そのような人生の行動指針を持っているのでしょうか?また、それを教えるだけでなくて、それを手本とする、他の人へ良い影響力のある手本となる人生を生きているのでしょうか?神様の福音を行動指針とした歩みます。
神様の福音の本質を逃すな!(本質をつかめない人は外側のことでしか勝負できない)
ガラテヤ2:1-10イエス・キリストを信じて、救われた異邦人たちに割礼を強要したユダヤ人たちは、大変な思い違いをしていました。それは、イエス・キリストの福音は人を自由にするのに、かえって律法によって人をまた旧約聖書の律法を持っていない異邦人たちを縛ってしまいました。イエス・キリストの福音は人を自由にします。もはや、救われて「神様につながった」「神様と関係」を持ったにもかかわらず、なおも律法を通して救われようと、神様と関係を持とうとしたのです。律法は、割礼はもともと神様を信じて、神様の民として生きる人が「世の中のものと違う、神様のものとされた民」として生きる証し、違いなのです。それで、救われることはありません。律法は「すべきである」ことを示し、それが出来ずに罪を犯す私たちをイエス・キリストの十字架意外に救われないと示していく教師なのです。ところが、それを主イエス・キリストの十字架よりも、信仰よりも先にしてしまいました。行いで救われると言う人間の力を、人間の動機無しでも出来る行いにだけ、フォーカスを当ててしまったのです。神様とつながっている人には、その本質を見極めることが出来ます。しかし、イエス・キリストと関係を持ってつながっていない人には、それが分からないので外側の行いでしか、評価や判断が出来ません。もともとイスラエルには旧約聖書を与えられたのは、彼らを通して全世界の民が救われるように、祝福を流す根源、通路としてなるためのCALLINGだったのです。エルサレム教会の使徒たちはパウロとバルナバを異邦人のために福音を預けられたものとして認め、交わりの証拠である「手を差し伸べた」のです。そして、彼ら自身は「割礼を受けたもの」への福音を任せられた使命をいきます。また、彼らは最初に福音を任せられたものとして、先に旧約聖書を預けられたものとして「権威」を持って、異邦人宣教への按手と彼らの働きを認証し、応援します。まことの権威は、本物を見極めて、本質を見極めて、自由をすることです。自分以外の働きをする人に、自分の今までしてきた宗教生活を乗り越えて働く人を、認めて、送り出します。今までいる教会生活や、宗教生活を守るのは楽なのものです。新しい神様の働きに見出せないものです、まして、そこに参加するのは難しいことでしょう。しかし、今日神様の新しい働きに受け入れ、応援して行きます。
神様のCALLINGによる人生だと告白しよう
ガラテヤ1:11-24使徒パウロは、自らのイエス・キリストとの出会いを語りながら、神様の啓示を自ら受けたことをあかしします。はたして、私の人生は神様との出会いでどれほど変えられたでしょうか?1:私は神様から直接、福音を聞いて変えられているのか?完全に変えられているのか?未だに変えられていない部分はどこか?→言葉遣いや態度はどうか?と思いました。2:私の人生は、使徒パウロのように神様の召しと計画のうちに歩んでいるのか?神様の計画に従っているのか?3:自分は人生が変えられた証しをしているのか?立てているのか?クリスチャンにも、ノンクリスチャンの人にも4:自分がイエス様に出会って変えられた人生を賛美しているのか?人間的な計画に寄らず、神様の声を聞いて歩めるように祈り、御言葉から神様と歩んでいきます。
にせのぬくもりに騙されず、キリストのつながりを宣言せよ
ガラテヤ1:1-10使徒パウロは、偽の福音(キリストの十字架による救いを信仰によって救われるのみでなく、行いが必要である)という主張する人々がいました。その人々は、使徒パウロの使徒職でさえも否定し、その権威を引き落とし、自分たちの主張や自分たちの立場を優位にしようとしていました。しかし、使徒パウロは自分の使徒職は、神様が下さったものであり、自分も含めて周りの人々させも「どうのこうの」言うことのできない神様の一方的な召しである、と語ります。そして、何よりも自分の行いで救われるのは、自分の人間的なことに頼れる、人に頼れることを考えます。それは、神様の十字架の上で父なる神様に捨てられた、見捨てられた主イエスの愛を信仰だけで受け取らないことです。本物の十字架の愛について、ほんものぬくもりを、ほんものの、それしかない、有意義な「つながり」を関係を持とうとしないことようにさせます。にせの今までのぬくもり、それが非真理であっても、今までの関係を断ち切って、十字架のまことのつながりに生きていかないといけません。今朝、キリストの十字架のつながりに生きていきます。