坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 10月 03, 2009

神様の福音の本質を逃すな!(本質をつかめない人は外側のことでしか勝負できない)

ガラテヤ2:1-10
イエス・キリストを信じて、救われた異邦人たちに割礼を強要したユダヤ人たちは、大変な思い違いをしていました。それは、イエス・キリストの福音は人を自由にするのに、かえって律法によって人をまた旧約聖書の律法を持っていない異邦人たちを縛ってしまいました。イエス・キリストの福音は人を自由にします。もはや、救われて「神様につながった」「神様と関係」を持ったにもかかわらず、なおも律法を通して救われようと、神様と関係を持とうとしたのです。律法は、割礼はもともと神様を信じて、神様の民として生きる人が「世の中のものと違う、神様のものとされた民」として生きる証し、違いなのです。それで、救われることはありません。律法は「すべきである」ことを示し、それが出来ずに罪を犯す私たちをイエス・キリストの十字架意外に救われないと示していく教師なのです。ところが、それを主イエス・キリストの十字架よりも、信仰よりも先にしてしまいました。行いで救われると言う人間の力を、人間の動機無しでも出来る行いにだけ、フォーカスを当ててしまったのです。神様とつながっている人には、その本質を見極めることが出来ます。しかし、イエス・キリストと関係を持ってつながっていない人には、それが分からないので外側の行いでしか、評価や判断が出来ません。もともとイスラエルには旧約聖書を与えられたのは、彼らを通して全世界の民が救われるように、祝福を流す根源、通路としてなるためのCALLINGだったのです。エルサレム教会の使徒たちはパウロとバルナバを異邦人のために福音を預けられたものとして認め、交わりの証拠である「手を差し伸べた」のです。そして、彼ら自身は「割礼を受けたもの」への福音を任せられた使命をいきます。また、彼らは最初に福音を任せられたものとして、先に旧約聖書を預けられたものとして「権威」を持って、異邦人宣教への按手と彼らの働きを認証し、応援します。まことの権威は、本物を見極めて、本質を見極めて、自由をすることです。自分以外の働きをする人に、自分の今までしてきた宗教生活を乗り越えて働く人を、認めて、送り出します。今までいる教会生活や、宗教生活を守るのは楽なのものです。新しい神様の働きに見出せないものです、まして、そこに参加するのは難しいことでしょう。しかし、今日神様の新しい働きに受け入れ、応援して行きます。