審査員はキリストだけ!
ガラテヤ5;1-12
キリストが十字架によって、死なれることを通してでないと、それを信仰で受け止めることでないと「決して真の解放はありません」しかし、なんと私たちはそれを勘違いしてしまうことでしょうか。最初は、イエス・キリストによる信仰によってスタートした自由が、「割礼を受けないとだめだ」という信仰プラス何か頼る、もしくは信仰生活にプラスして行いをしていこうとする、勘違いがありがちです。それは、今も初代教会において起こりうることだったのです。キリストが私たちを義としてくださったのは
①BEING(存在そのもの)を義とされたことであり、DOING(行い)は存在そのものから出るもの
②救いは、まず私の存在そのものを義として下さった物である
③私が義であるから、義を行って生きるしかない
何をしないといけない、義を生きないと私の存在はだめだ、なくて、すでにキリストによって義とされたものを、人間である私が否定してしまうのです。律法は行いの心の動機や中身を吟味ずることなく、行いに集中します。しかし、恵みは行いのみならずに、心の動機が問われます。聖書は言います。愛によって働く信仰が大事である、と。今日を愛を持って歩みます。神様にのみ信仰の審査員として御座についてもらっていることを賛美し、感謝します。
キリストが十字架によって、死なれることを通してでないと、それを信仰で受け止めることでないと「決して真の解放はありません」しかし、なんと私たちはそれを勘違いしてしまうことでしょうか。最初は、イエス・キリストによる信仰によってスタートした自由が、「割礼を受けないとだめだ」という信仰プラス何か頼る、もしくは信仰生活にプラスして行いをしていこうとする、勘違いがありがちです。それは、今も初代教会において起こりうることだったのです。キリストが私たちを義としてくださったのは
①BEING(存在そのもの)を義とされたことであり、DOING(行い)は存在そのものから出るもの
②救いは、まず私の存在そのものを義として下さった物である
③私が義であるから、義を行って生きるしかない
何をしないといけない、義を生きないと私の存在はだめだ、なくて、すでにキリストによって義とされたものを、人間である私が否定してしまうのです。律法は行いの心の動機や中身を吟味ずることなく、行いに集中します。しかし、恵みは行いのみならずに、心の動機が問われます。聖書は言います。愛によって働く信仰が大事である、と。今日を愛を持って歩みます。神様にのみ信仰の審査員として御座についてもらっていることを賛美し、感謝します。
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