坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 10月 14, 2009

キリストにある価値観を持って迫害を願うか?

ガラテヤ6;11-18
クリスチャンの価値観の逆転には、「祝福を願い、繁栄を求め、人々からの名声を求める」のが最高の人生ではなくて、「キリストのために迫害され、人々からのけ者にされ、裏切られて、ののしられる」ことがあります。祝福を受けて、繁栄を願うことは、悪いことではありません。必要なことですし、そのように生きたいと思います。しかし、本当にキリストのゆえに迫害されえ、さげすまれることを喜ぶことが無ければ、まことのクリスチャン、神様とつながった命のあるクリスチャンと言えないかもしれません。私自身が、安全な生活、支えられることを願います、祝福を求めます。しかし、今朝思わされたことは、私は新しく創造された存在か、?神様の基準に従って生きている人であることを感じました。アイデンティは神様の、イエスの焼印を帯びた存在として、本物のクリスチャンとして歩んでいるのか思いました。宗教的行為を持ってこの世の名声や褒められる言葉を期待する人生は、パリサイのような信仰生活は、実はイエス・キリストから遠い人生なのです。関係が無い人生なのです。イエス・キリストのゆえに苦難を選んでいるでしょうか。迫害をされる人生を喜ぶイエスの焼印を帯びて生きます。