坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 10月 06, 2009

期待することは神様の愛への信頼から始まる

ガラテヤ3;1-018
今朝のQTをしながら感じたことがありました。それは、律法が完全であり、一つも例外なく、守ることを要求し、人間に絶望を持ってきます。すると、神様のキリストの十字架によって信仰によってしか、生きることが出来ないのに、人はそれを選ぼうとせず、もしくは選んで神様にある信仰に立ったにもかかわらず、しょっちゅうもとの律法に、完璧に、しないといけないと戻ってしまいがちです。それを正しい方向へ戻すのはナンでしょうか?それは、私を救うために、神様にある関係に戻し、最高の人生を歩むために、義そのものである方、義存在そのものである方イエス・キリストが、「のろいそのもの」となられた事実なのです。何故、そうなられたのでしょうか?それは、それ以外に私たちを救う方法が無かったのです。それは、神様の肯定的で、積極的で、幸福思考の、愛である方の最大限の犠牲であり、無理をされる愛なのです。その方が、イエス・キリストの十字架の結果、御霊を下さったのです。それは、神様にとって利益のある話でもなく、ただ犠牲のある愛でした。人を利用しようと言うのでなくて、与えようと言う神様の愛でした。アブラハムへの約束は、彼を通して全ての人が救われる、全世界の人への救いが届けられる、という内容でした。それは、アブラハムも予想し得ない、信仰で見た神様の子であるイエス・キリストが十字架に掛かって人々が、しかも自分の意志で、信仰で救われることでした。はたして、私はそのような神様の愛にあって私への約束を、計画を期待しているのでしょうか?難しいときに、神様への愛を疑ったり、否定的になったり、消極的になったり、不平や不満が出て、感謝がなくなります。何よりも期待できないでいます。そういう時に、もう一度、神様ご自身が受肉されて、人として来られて、十字架に掛かった、のろいそのものとなられたイエスの愛へ賛美と祈りをささげて生きたいと思います。一つでも、信仰の告白をして生きます。