神様の国のリーダーは神様と共にいようとチームに叫ぶ
第一歴代誌13:1-8ダビデは、イスラエルの全ての民に「神様の契約の箱」を私たちのもとに戻そう、サウル王の時代にはそれは顧みられなかったから、と言います。もっとも大事な神様のみ言葉が入っている、神様の臨在である、神様の約束を顧みずに、サウル王は世間的なことや、自分の力でぺリシテからイスラエルを守るとしました、それは失敗と悲惨な結果をもたらしました。ダビデのまずしたことは1:神様のみ言葉の約束(イスラエルが罪のエジプトから脱出し、約束の地で神様の国を建てるといわれたこと)を取り戻そうとしました2:神様の臨在の回復を願ったのです。3:それは、礼拝の回復でした(8節:ダビデとイスラエルの民は力の限り踊ったとあります)4:そのことをイスラエルの民に、神様の御心を宣言しました。伝えました。神様の約束を取り戻せ!と神様のチームに伝えたのです。神様のリーダーは神様と共に居ることを、戦いよりも何よりも先にします。その祝福を知っているからです。神様のために働くのでなくて、神様と共に生きる人生を働きを願うからです。神様のチームに神様と共に居ようと、神様の約束を取り戻します。
神様の計画は隅々まで行き届く
第一歴代誌12;19-40ダビデが、サウルから逃げてぺリシト人の元にいた時に、イスラエルとの戦いがありました。その時にぺリシテ人がダビデを疑い、戦いに出ることがありませんでした。これは、神様の計画にある守りでしたが、その時に従い、略奪隊として戦ったマナセの部族が出てきます。はたして、私の人生に神様の計画は隅からすみまで及ぶことを信じているのでしょうか?例外があると考えていることは無いでしょうか?また、その真実を疑うことは無いでしょうか。マナセ部族が略奪隊にあたるものであったことや、へブロンにおいてダビデが王となるときに、それまでの状況と違い、神様の素晴らしい計画がなされることが示されています。状況を通して神様の計画は必ずなります。1主のみ言葉通りになる2主のみ言葉をを持ってダビデを王様としようとしたマナセの部族3イッサカルから「時を悟り、イスラエルが何をすべきか知っている」彼らのかしらこれは、時勢を知っている人々と言えます。4戦いの備えをしている、完全に武装している、準備されている人々5誠実な、心を一つにしてきた6飲み食いするものために、準備をしてきた人が居ます。そういう人が居るのは、無料の食事の奉仕や提供があるのは、新しいリーダーへの期待と集まるところに希望や喜びがあるからです。神様の国のチームはいろんな人が集まります。おまけのような人も居ます。しかし、全ての状況に神様の計画があることを信じていきます。
神様の国のチーム構成員は、自分の苦手な人も居る
第一歴代誌12;1-18今日のダビデと共にイスラエルの国を建てて人々のリストは、昨日のリストと別に1:サウルの同族からツィゲラクに隠れている状況に来た人が居たり、2:ガド部族の人たちが荒野の要害に居たときに来た人たちが居たり、3;ベニヤミンとユダ部族から要害に来た人々も居ました。何故、このリストは昨日の聖書本文と別に書かれたのでしょうか?それは、メインストリームの信頼できる人たちと違い、後から来た、また信頼しにくい、扱いにくい人々であったからです。特にユダ部族からも裏切られたことのあるダビデは、3のメンバーが来たときに「私を助けに来たのか?そうでないなら神様の裁きがあるように」と言います。共に居る人は仲良くありたいものです、また何よりも信じられる人々でありたいものです。今まで信じられない人や、未知数の人と自分の運命をかけて生きるのは難しいものです。しかし、教会と言う共同体、神様の信仰の共同体はそうであってはありません。それは、御霊による和解と信頼の回復があります。御霊による平安な関係があって共に神様の国チームとして仕えることができます。御霊がアマサイを捕らえたとあります。もしかしたら、それまでアマサイには不利な状況であるためにダビデにつくようなことがあったのかもしれません。しかし、御霊がその瞬間働いてくださったのです。今日、神様にある信頼関係と、教会の共同体に神様のチーム作りをしていくメンバーを得ていきます。私の苦手な人や信頼できない、新しい人共に仕えて生きます。御霊の働きがありますように。
神様の国のリーダーとチーム
第一歴代誌11;10-47今日は、ダビデの王権のために共に仕えて人々、勇士たちの話と目簿が出てきます。神様の国のリーダーシップは①主のみ言葉により立てられたリーダー②リーダーには共に仕える人々が居ます③いくら神様の国のために、教会のリバイバルのためにいろんな良いプログラムをしても従順とリーダーシップとチームワークが無ければ何も起こりません。ノンクリスチャンの人にも信頼されないでしょう。ここに出てくるダビデの勇士たちは、彼のために命を懸けてベツレヘムの井戸の水を持ってくるような献身がありました。果たして、私の主に仕える奉仕には、このような神様のチームの名簿があるのでしょうか。このような献身があるのでしょうか。また、私はこのような献身をしてきたのでしょうか。ダビデは自然にこのようにリーダーシップを持ったのでなくて、王になる前の戦いを通して、苦しい試練を通して人々共に仕えるところから、彼らもそのようなリーダーの姿を見てダビデが主にある器として認めて、仕えていったのです。主に使えるリーダーとして歩みます、周りの人へリーダーとしての影響を流していきます。
Worshipする場を勝ち取れ!
第一歴代誌1:今日のQTで、私が白紙にした部分があります。書けなかった部分はあります。それは、ダビデがエルサレムの地を勝ち取る部分です。そこは、何故エルサレムを勝ち取るのか、戦争をするのか?霊的な意味が分かりませんでした。それは、霊的な戦いをする部分を避けていないのか?というリビングライフの文章に、質問に心が押し出されました。それは、開拓教会をするのに、北米伝道のために自分が何か失うのでないか?失敗するのでないか?という恐れがすごくありました。しかし、それを避けては礼拝の場所を得ようと、自分の戦う部分を避けることになります。今日、神様の礼拝の場所のために出て行きます。
神様と共に居ないリーダーシップの最期
第一歴代誌10-1-14サウル王の最期から、歴代誌は始まります。何故でしょうか!それは、神様が油を注がれた方であっても、神様を信頼せずに、霊媒師を使い、自分とイスラエルの未来を失わせて、偶像礼拝の危機に(実際の偶像礼拝と違っても、占いをすること、霊を呼び寄せること、そして何よりも神様の言葉を信じないことは13節、不信の罪、神様に逆らうことだ)と告白しています。神様と共に無くても人間的にはリーダーシップをもてるかもしれません。しかし、サウロは人間の力だけでは不安になり霊媒師を使ってサムエルを呼ぼうとしました。自分たちの未来を知ろうとしました。私は神様と共に居るリーダーシップを持っているのでしょうか。それとも、神様の居ないリーダーシップでしょうか。神様の居る振りをするリーダーシップでしょうか。その最期は、惨めなものです。主に逆らうとは、神様のみ言葉を信じないことです。神様のみ言葉に従わない、その前にひざまづかない、仕えない人には、まことの神様のリーダーシップはありません。そして、神様のリーダーシップの無い人の特徴は恐れです。そして、外見だけの働きです。サウロは割礼の無い者たちに殺されることを恐れました。大事なことです。神様の民として、王として大事なことです。しかし、自分自身が神様の前に区別された民として割礼を受けたものらしく人生を歩んだのでしょうか。神様がぺリシテに負けることを通して、イスラエルの民が、サウル王が神様に従わなかったことの結果を見せました。そして、偶像の宮に彼らの武具と首をさらす、という恥を見せました。それは、神様ご自身の栄光を止めかねない、痛ましい事件でした。神様と共に居ないリーダーの最期は惨めで、恥ずかしいものです。しかし、そのような中で神様はダビデを立てイスラエルの国を再興し、また勇士を立ててサウル王の死骸を取り戻すことをなされました。今日、いつまでも変わらない、すでに十字架で勝利を取られた神様のリーダーシップを得るために、祈りのときを持ちます。礼拝と聖書通読を通して、神様が私の主であり、神様のみ言葉を信じます。
まことの怖れは愛に圧倒されるところから来る
ミカ7:14-20ミカは言います。あなたのような神様が居るでしょうか。あなたのように愛と許しと回復を下さる方が居るでしょうか。それは、あなたのように私を理解し、愛してくださる方が居るでしょうか、と聞こえます。異邦の民(神様を信じてない民)も、口がふさがり、聞こえなくなるとあります。それが、神様の愛のためである、というのです。神様に愛されると、自然に自分の罪や自我を告白できるようになります。それは、私を愛されて待たれている父なる神様の愛なのです。人は愛されて変わるものです。人は愛されて、信じて変わっていくものです。もっと、もっと、神様の愛に圧倒されていく人生を歩み、その愛を分かち合う人生を生きていきます。
信頼をする相手が誰かによって人生の実が決まる
ミカ7:1-13ミカは、夏の実が結ばない果実を刈るむなしさを通して、人生の実を結ぶ、結ばないことを語ります。果たして、私の人生はどのような実を結んでいることでしょうか。ミカは自分が罪を犯したから、その行いの実を刈り取ることを離します。しかし、そこに神様の回復があること、神様こそが私の唯一の光であることを宣言します。今の現状は、苦しく罪からの悔い改めの状況であっても、神様に悔い改めたからには、罪の悔い改めの元に、必ず許され、未来には回復があること、その救いを聞いてくださる方であることを言います。私たちは罪が許される、その代わりに主イエスが十字架で死んでくださった方、その方に自分の人生をゆだねるのでしょうか?それとも、むなしい夏の果物を集めるような人生を選ぶのでしょうか。それは、自分の力や知恵、財政、人間関係、こねと言ったものです。果たして、神様は罪を裁かれないと言う怖れのなさ、もそうです。神様は決して侮られる方ではありません。しかし、神様は私の祈りを聞かれる方です。その方に喜んでもらえる、自分も最高の自由な人生を選ぶのでしょうか。本質的なことを選んで生きているのでしょうか。神様が私を選んでくださった人生を歩みます。
神様のみ言葉に従わないことが偶像文化だ!
ミカ6:9-16主イエスの、神様の名前を恐れることが「優れた知性」であると9節から、聖書は語ります。では、私たちは何を恐れるのでしょうか。恐れるべき方を恐れないからこそ、不正ができるのであり、自分の不義のために罪を犯すことができ、不正の財宝をためようとし、のろわれた升目不足の増すがあり、ダブルススタンダードを持つことができるのです。罪を隠せぬこと知らないといけません。そして、神様はその裁きとして「報われない努力」14-16節で語られます。神様のみ言葉や、神様への恐れを持たないことが、すでに他の富や人生の立場や、いろんな偶像を作ってしまうことのスタートです。今日神様を怖れる、人生の証しをさせていただきます。また、神様のせよといわれることをしていきます。
主は「~」
ミカ6;1-8今日は、朝にQTをしながら、ふと何の意識もなしに、主が「~」という動詞に注目することになりました。意図してしたことでもなく、毎回このようにしたからと言って恵まれるわけでもないと思うのですが、今朝急に下さった恵みです。それは、①主の言われることを「聞け」1節:私はどれほど神様のいわれることを聞け、と聞く準備をしていることでしょうか。②何を聞くのでしょうか?「主の訴え」2節:です。何を訴えられているのでしょうか?③3節:神様がイスラエルの民をどのように扱われたのかです。それは、神様がクリスチャンをどのように、あなたを、私をどのように扱われたのかです。④「思い起こせ」5節:そのないようは、イスラエルエジプトから脱出させてくださった神様の守りと導きについてです。私の人生を神様が主イエスの十字架と言う命、代価を持って罪から救い出してくださった人生です。それは、無料ですが、安い代償ではありません。⑤何故、ダビデ王国の話が無いのでしょうか?それは、罪から救い出しNEW LIFEへと導きいれてくださったからです。⑥⑥-10節は、神様の前に礼拝していくアプリケーションの姿です。しかし、神様の願われる礼拝は心の無いささげものや、動機の無い律法の善なる生き方でありません。心の無い感謝の無い亜礼拝でなくて、神様と共に歩むことです。お仕事の宗教家は要らないのです。神様の願われるのは、神様が「~」動詞で語りかけてくださる人格的な関係のある、私と神様なのです。人生の中に主イエスが生きている方であり、私の主人は、愛する王様は神様と言う告白の中にある人生なのです。主と交わる礼拝を求めます。奉仕をさせていただけることに心よりの感謝をします。
神様の作ってくださった人生か?自分が像に作らせる人生か?
ミカ5:10-15今日のQTで、神様は「あなたの中にある要塞、馬、戦車」を壊すと言われます。それは、人間の頼るすべてのもの、神様以上に頼る偶像について手放すようにと言われるのです。また、あなたの中にある「呪術師、占い」をなくす、と言われます。さらに、あなたの「アシュラ像、もう自分の手で作った偶像を拝まない」と宣言されます。どういう意味でしょうか?私は偶像を持ったことがありません、作ったことがありません、と思うのでないでしょうか。また、アシュラ像は無いですよ、ということが無いでしょうか。どういう意味で、神様は私に語られるのでしょうか。偶像は自分の思い通りに人生を生きて、まことの神様の代わりに私の人生を保障させようとするものです。人間には自分の思い通りに、わがままに行きたいものですが、それでは不安に陥るものなのです。ですから、神様を偶像を自分で作って拝むのです。自分の思い通りの人生、いやわがままな人生を歩ませるのが偶像作りなのです。また、アシュラとは多産、豊穣を約束し、性的な快楽をもたらす偶像です。それを正当化する宗教なのです。果たして、そこに創造のときに神様が願われて、愛された私たちの姿、神様に似せて作られた姿があるのでしょうか。神様の最高に素敵で、カッコいい人生とその計画は壊れてしまっているのです。神様が偶像を壊す介入は捌きであり、大きすぎる愛です。その神様の愛の前にひれ伏すのでしょうか。神様の愛にある計画を受け入れるのでしょうか。それとも、自分で作った偶像による人生を歩みたい、と拒否をするのでしょうか。神様は私に最高の人生を下さることを信じたいと思います。今の安定した楽な目的の無い人生でなくて、神様の目的にある人生を歩みます。
もっとも弱く、小さく、無視される者が地の果てまで威力をもたらす日
ミカ5:1-9イスラエルに与えられるメシアなるイエス・キリストはユダヤのベツレヘムという小さな町から生まれます。それは、2節:ユダの氏族の中でもっとも小さいものです。しかし、イスラエルの支配者が出ると言うのです。また、面白いのは1節「軍隊の娘」という表現です。何か力あるものでなくて、人間的に期待できるものでなくて、神様の力なしには到底何の力も無く、人から無視されるような存在、しかし、神様の選びは一方的な恵みです。人の努力や力で、意思で動かすものではありません。心から神様は私たちを愛し、最終兵器であるイエス・キリストを送ってくださったのです。まったく今の状態のイスラエルには想像できない、またありえない状況の大逆転劇が起こるとあるのです。獅子のようになるといわれるのです。アシュルの王国を滅ぼす力どころか、イスラエル王国は滅ぼされてユダ王国が残っている状態です。しかし、神様のなさることはこのような考えらない逆転がなされます。神様のその日まで期待して、歩んでいきます。今日、私の状況は私の現実の必要で目一杯かもしれません。神様のビジョンや約束があるのに、現実に忘れてしまいそうになるかもしれません。しかし、神様の約束を信じ、歩んでいきます。
世界最強の異邦人たちを神様にささげる人
ミカ6:6-13イスラエルの滅亡と逆に、未来の神様の回復のメッセージがとうとう語られます。それは、バビロンの地であなたは「鉄」と「青銅」とされて、当時世界最強であった異邦人のバビロンを神様を認めさせて、神様にささげさせる、という預言です。ありえない回復のメッセージであり、今のイスラエルの民にとっては信じるよりも、想像することさえもできないメッセージなのです。何と言う神様の計画なのでしょうか。神様の回復には段階があります。①主の裁きがまず下ります。そして、バビロンへと捕囚に連れて行かれます。②遠く移されたものを強い者として、神様が王である国民となります。神様が王でない、私の主人でない人生は、罪と心配と復讐と迷いの人生です。しかし、神様が私の王になられるのは「主イエスの十字架の儀と愛」が治める人生となるのです。③バビロンにて救われて、回復されて、異邦人の民を神様の元に返す、神様にささげる民となります。神様、私を異邦人の民を、異邦人の地にて救いを継げ、主の民をささげさせる奉仕を、人生へと導いてください。
神様を礼拝する時に最高の道が見える
ミカ4;1-5今日のミカ書には、エルサレムの回復が言われています。そこには、神様の道を求める異邦人が起こされるとあります。神様の道がもっとも最高の私に与えられた道として求める人がいるのです。神様の道を、人生を知るには何処に行くのが、何をするのが良いのでしょうか。それは、神様を礼拝する場所に、神様を礼拝する人に神様のメッセージが来るのです。最悪のイスラエルの霊的な状況や現実にぼろぼろになっている状態への逆転は何でしょうか。それは、礼拝の回復、御言葉の回復です。教会が立てられることです。宗教者の教会でなくて、趣味の教会でなくて、それは教会と言えるでしょうか。礼拝者の教会です。そこには、異邦人さえも来る、というのです。神様を知らない民、外国人さえも来ると言うのです。それは、新約聖書にて約束が成就されます。私は、主にある礼拝者としての教会を立てていきます。
本物か偽者か見分けるには神様との一方通行かコンタクトにある
ミカ3;1-12今日のミカ書は指導者の堕落と、宗教的指導者である預言者たちの不正と金銭における不潔、わいろ、その罪が書かれています。彼らの最も恐ろしい罪は、「金銭的な堕落、性的な堕落」などもありますが、それよりも何も「神様を私の中に居る」といううそをつくことです。宗教的な罪は恐ろしいものがあります。しかし、何よりも7節「神様からの答えが無い」ことです。彼らは周りにも、自分にも嘘をつくのです。神様が自分の中に居ると。そして、神様がこう言うと言うのです。偽者は、神様との関係がありません。それは、宗教であるならばそういうことがあるかもしれません。しかし、キリスト教は関係の宗教です。命の関係です。主イエスに会って霊的な命を得た、永遠の命を得た関係です。ですから、クリスチャンは主イエスを信じてそれで終わりでなくて、神様との交わり、関係が日々あるはずです。日々、お互いのコミュニュケーションを持つのです。そして、自分の思い込みでなくて日々私へ神様が語りたいと思っていることを聞く喜びがあるのです。本物は神様との相思相愛のコミュニュケーションがあります。そして、そこから神様の声を語るのです。また、今日のQTには大事な指導者のために祈る、ことがあります。社会全体の指導者が間違えると大きな影響力があります。教会の霊的な指導者が倒れると教会がきしみます。霊的な指導者のために祈ること、そして現代の腐敗した社会において「迫害を恐れず、立ち上がる指導者が必要」です。そのためには、神様との相思相愛のコミュニュケーションを持っている人で無いといけません。神様との祈りを持って一日をスタートします。ラベル: ミカ
清い人生の中に神様のはかり綱がある
ミカ2;1-131節に「寝床を汚す」悪を行うものとあります。性の乱れは、生き方の乱れと言います。寝床の上で悪を行うとは、私の寝床は、私の夫婦関係は、清いものでしょうか。いや、結婚していなくても神様の新婦として、男性として清い人生を歩んでいるのでしょうか。また、人としての正しい関係を持って歩んでいるのでしょうか。神様は私たちを用いたくても、清い人生を歩んで神様と一緒に歩んでいなければ、用いることができません。それは、神様の栄光を汚さないためであり、その人が神様の仕事をすることでかえって、高慢になったり、勘違いして、滅びないためでもあるのです。神様は私たちを用いたいと思われます。しかし、穢れがあっては神様と一緒に居ることはありません。それでは、神様の働きをすることができません。神様と共に居る人に神様の働きは来るのです。今日の礼拝に奉仕の前に神様と共に歩みます。
神様の哀しみの叫びを聞いたか
ミカ1;8-168節には、神様が「嘆き、泣き喚き、はだしで歩こう」とあります。栄光の姿であるべきイスラエルの民、クリスチャンが本来の姿を失って、栄光から恥へと戻っていることに「神様がご自身が、預言者であるミカが無き叫んでいるのです」どのような思いでしょうか。しかし、ハレルヤ!主イエスご自身が私の恥の姿を十字架に掛かって死んでくださることによって葬り去り、栄光の姿へと変えて、回復させてくださるのです。何と言う恵み、何と言う愛でしょう。そして、何と言う恥ずかしい姿であった私でしょうか。そのように買い取ってくださった人生をいい加減に歩んでいいものでしょうか。クリスチャンとしての姿、人生、ありかた、言葉を、そのアイデンティを宣言していきます。そこに、すでに主イエスの栄光があらわされることを信じます。祈って一日を過ごします。
預言者としての使命を失わない人生
ミカ1;1-7今日から、ミカ書のQTです。ミカ書は①ユダとサマリャに向けて(南王国ユダと北イスラエル王国に向けて→分裂していた両方の王国に向けて)語られたメッセージです。それは、主なる神様の宮があるエルサレムの偶像礼拝、宗教指導者の腐敗、そしてサマリやの反映と別に神様の前に廃墟とされる、という裁きのメッセージでした②ユダの王様であるヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にかかれました。それは、あえてイスラエル王国の王様の名前を書かないところに意味があります。イスラエルへの裁きもあるのに、何故イスラエルの王様の名前が出てこないのでしょう。それは、ユダ王国こそが正当なイスラエルの後継者であり、ダビデの血統からメシアが出てくるからです。③主なる神様こそが証人であると2節に出てきます。こんなに恐ろしいことは無いでしょう。逆に、こんなに感謝な事もないのです。不完全な人でなくて、神様こそが証人であることは、主の前に生きる人の希望です。はたして、ミカはこのような預言のメッセージを与えられたときにどんな気持ちだったのでしょうか。もしも、人間的に裁く気持ちならこのような預言のメッセージは任せられないでしょう。また、愛の人であるならばこそ、イスラエルの人であるなら、このような預言のメッセージを任せられるのは痛みだったでしょう。そして、預言のメッセージを受ける人は清く、何よりも神様と共に歩む人で無いといけません。神様との霊的な関係を持っている人です。それは、霊的に堕落している社会の中で、宗教的な指導者である祭司や預言者たちが堕落している中で(それは本当に恐ろしい罪であり、そのような状態です)きよくいきたことなのです。私にとって、難しいことや傷つけられることがあります。そこで、私の心を痛みや復讐や怒りが支配しそうになります。しかし、怒りのパワーでなくて主イエスの愛を伝えることへ情熱へと、神様のみ言葉を宣言することへと変えてください、と今朝祈りました。今週末の奉仕が主イエスのきよさ、愛、そして御言葉を語る言葉となるように、預言者として、神様のみ言葉を預けられた者(クリスチャン)として歩みます。
ACTS29:朝から晩まで主イエスが治める人生
使徒行伝28;23-31使徒パウロは、続いてユダヤ人たちを招待し、朝から晩まで神様の国の到来である、主イエスのことを語り続けます。それは、使徒行伝の最後の部分、仕上げの部分である30-31節には「自費で借りた家に住み、尋ねてくる人にイエスを伝え、教えた」とあります、彼が主イエスのことを語り続ける情熱、それは主イエスが彼の心の中心を治めていたからです。パウロには宣教の働きの上に、教会に対する情熱、それだけでなくて、ユダヤ人の反対と迫害がありました。そのために、ローマにて監獄に入る、裁判を受けることになったのです。もしも、状況的に見るならば苦しい大変な状況だったわけです。しかも、パウロは信じようとしないユダヤ人に対して、はっきりと異邦人へ福音が向けられることを宣言します。普通は、人間的な立場から言うと相手に対してこのようなことは言いませんし、言えないことでしょう。何故、そのようなことが言えたのでしょうか。①神様のみ言葉である旧約聖書の預言であるメシアなるイエスを拒んだことを宣言する②人間的に言う言葉でなくて聖霊様の言葉だからです。パウロは苦しい状況や思い通りにならないユダヤ人伝道、そしてユダヤ人からの迫害に心が支配されることがありませんでした。復讐や痛みや、自分の思い通りにならない怒りに縛られることもありませんでした。何よりも、主イエスの十字架の愛に心が治められ、それが昼も夜も主イエスのことを話す人生となったのです。使徒行伝28章は終わりですが、主イエスの福音を伝えるバトンタッチは今も続いています。それは、主イエスに心が治められる人に、主イエスの弟子が受け継ぐものです。私の人生に、今日も明日も主イエスが治める人生、そして自費で借りた家に住み、昼も夜も主イエスを伝え、教える人生がなされるように祈ります。ハレルヤ!主イエスのみなを賛美します。
チャンスを最大限に生かせ
使徒行伝28:16-22
チャンスを最大限に生かせ
使徒パウロは「ローマに到着して自分だけの家に住むことを許可」をされます。さて、このような時に、どのような霊的な視野を持つべきか?いかに目覚めているのか?が重要です。なぜなら、状況や環境を通して、そしてタイミングを通して主は働かれて、素晴らしい恵みのチャンスを下さるからです。パウロはどのようにしたのでしょうか。
①まず到着して3日目に(良いタイミングですね、しかしすばやいです)ユダヤ人を招きました。 ②イスラエルの希望である、ユダヤ人の一番の関心事であるイエス・キリストを伝えるためでした。
③そして、同時にパウロが身の潔白を証明するためでした。パウロがもしも清い生活を送っていなければ、イエス・キリストの福音も軽んじられます。もしくは、まったくイエスについての福音を聞いてもらえません。
④まだ、ローマにいるユダヤ人にはパウロに対する誹謗や誤解がありませんでした。そのタイミングをパウロは逃しませんでした。
私は神様に与えられた環境やタイミングをどのように福音のために用いているのでしょうか。従順を遅らせることは、不従順です。神様の下さったタイミングを大事にしていきます。この戻ってからの3日間を大事にします。
苦難の中にこそ、神様の暖かい愛が溢れている
使徒行伝28;1-15
苦難の中にこそ、神様の暖かい愛が溢れている
パウロたちは、マルタ島に流され、到着します。そこの人々は暖かい人々であったとあります。苦難の中でも、いや苦難の中にこそ、神様の暖かい人々の愛が備えられています。今回の宣教旅行において、パウロには思いもかけない戦いがありました。しかし、そういう場所にこそ「神様の供えられた愛の人々」が待っています。福音を共に分かち合える人々や、神様の愛を待っている人々に苦難があったからこそ、出会うことができます。
パウロはそこで、蛇にかまれても死なない、という聖書のみ言葉の約束どおりの奇跡を体験し、見ている人々に証します。また、病気の人を癒していくことをします。それは、パウロが神様の計画の人生を歩み、神様のみ手があるからこそ、パウロに癒しのみ手があったのであり、そこに苦難があっても一番の幸福と祝福があります。そして、とうとうローマにパウロたちは到着します。そこには、兄弟たちが待っており、大きな歓迎を受けました。そして、クリスチャンの出会いを持って嬉しい、勇気付けられる時間となりました。はたして、私はこのような「神様の計画をお互いに確認できて嬉しい」という交わりを持っているのでしょうか。使徒行伝は28章で終わりますが、その宣教のバトンと交わり、教会は今も世界宣教が続く日まで、今も私たちが受け継いでいくバトンです。そのような神様の愛の交わりと宣教をしていくバトンを受け取り、引き継いでいきます。今日で、私たちの宣教、VISIONTRIPも日程としては終わりです。しかし、神様の宣教を引き継いで歩んで行きます。
クリスチャンは嵐の中でリーダーシップを持つ
使徒行伝27:27-44
クリスチャンは嵐の中でリーダーシップを持つ
パウロは、アドリヤ海で船が流される中で、船員が逃げ出そうとするときや、人々に向かって「私たちの命が失われることがない、食事を取ることを進め」励ましの声を上げます。何故でしょうか。嵐の状況の中で「神様の声を聞くから」です。その人は自分だけでなくて、周りの人々へ愛を持って自分が余裕のない状況でも「愛を持って使えること」ができます。はたして、私はそのような信仰とリーダーシップを持っているのでしょうか。また、今日の聖書箇所は、37-38節にもあるように人数など、非常に記録が細かくされています。今の私たちに何の関係があるのか?と見逃しがちな部分ですが、私たちになされた神様の守り、そのわざを正確に記録し、神様を証しする必要があります。神様が私を守られ、計画の中で導かれているのに、そのリーダーシップを発揮しているのでしょうか。また、その証を記録し、証言しているのでしょうか。私の人生の嵐の中で生きておられる神様の証を伝え、宣言します。今日の訪問する場所で、教会で証をしていきます。
嵐の中でも人生の大事なVISIONを捨てるな
使徒行伝27:13-26
嵐の中でも人生の大事なVISIONを捨てるな
私たちは、人生と言う大変なたびの中で時々、「神様は私を愛してくれないのだろうか?」また「大事な友人に捨てられたような気がします」そのために、大事なお金、関係、家族、何よりも大事な神様にある方向性を捨てることがないでしょうか。投げやりなってしまうことがないでしょうか。今日の聖書箇所には「積荷を捨てて、そして船具を捨てる、そして流されるままにした」とあります。それらの言葉は絶望から、自分の大事な方向性を失ってしまうことを意味しています。しかし、このような中でパウロは「昨夜、神様が私の前にたたれ、ローマで証しすることになること、そして人の命が失われないこと」を話し、人々を元気付けます。まさに、嵐の中で神様の声を聞く人は、自分だけでなくて、他の人々へのリーダーシップを発揮することができます。嵐の中で、VISIONを持って進みます。今日のスケジュールや方向性をしっかり進んでいきます。神様のVISIONをつかんで、今日人々に会い、教会に行きます。
身の安全よりも、神様と同行する友を持っているか?
使徒行伝27:1-12
安全よりも、神様と同行する友を持っているか?
今日、イタリヤに向かうパウロと同行した人が匿名で出てきます。それは、1節と2節の「私たち」と言う言葉です。考えてみれば、パウロと共に苦労をしたのですから、人間的には名前が挙がってほめられたり、人からのご苦労様と言う言葉を聞きたい場面かもしれません。しかし、さりげなく「私たち」という複数形で書かれています。彼らは「医者ルカ」と「アリスタルコ」でした。果たして、私は「福音のために苦労を共にする」動労者を持っているのでしょうか。そのために、10-12節にあるように「人は安全や快適さ」を求めますが、その安全を捨てる心を持っているのでしょうか。そのような福音の動労者、名前もなく、栄光もない人を得ているのでしょうか。また、私がそのような人になっているのでしょうか。福音のために同労者となって、安全を捨てていきます。そのような友を得ていきます。
信仰者の人生が最高であると宣言できるか!
使徒行伝26;24-32
パウロは言います。言葉数が少なかろうか、多かろうが「すべての人が、私のようになってくれることだ」と。クリスチャンとして、そのような人生の価値観を持っているのでしょうか。また、自分のようなクリスチャンになってください、宣教師となってください、神様のために命を懸けて愛する人になってください。それは、まるで私のようにといえる自信があるのでしょうか。そのような神様の計画の真っ只中を生きています、と言えるのでしょうか。キリストの福音にある人生が最高と言えるのでしょうか。そして、私はそのようなクリスチャンで告白できるでしょうか。ここ北米でキリストって最高であると宣言していきます。そのようなクリスチャンになります。
天からの啓示により硬く自分の足で立て
使徒行伝26:13-23
天からの啓示により硬く自分の足で立て
パウロは何度も同じ証しをします。イエス・キリストを信じて罪を悔い改めて、救われること、そして神様の下さった人生の使命に生きることです。それこそが、最も自分らしく生きる人生で、幸福な人生だからです。何度も聞いたような話でなくて、私たちは弱く何度も聞く必要があり、そして何度も聞くたびに、神様の祝福があることを宣言できるのです。今朝の私へのメッセージは「自分の足で固く立て」でした。恐れずに、神様の使命を持って、不安にならずに進め、ということでした。天からの啓示に背かずに進でした。私たちは弱く何度も、倒れます。しかし、恐れるべきことは天からの啓示に背を向ける、妥協して生きる、背く人生です。もっとも大事な神様からの使命よりも、世の中の状況に恐れることです。ですから、何度も宣言するのです、自分の足で固く立て!と。私の状況は非常に難しく大変な時期かもしれません。今朝のみ言葉は非常にチャレンジがあります。しかし、今こそ、神様の使命に立って歩みます。
熱心も正しい方向へ向かうことが必要だ
使徒行伝26;1-12
熱心も正しい方向へ向かうことが必要だ
使徒パウロは、アグリッパ王の前で「自分の過去」について正直に話し出します。それは、自分がいかに律法に厳格なグループに属していて、生活の中で聖書の律法を最も強く厳格に守る人であったのかを話し出します。それは、「昼も夜も」熱心に神様に仕えての姿でした。それが、神様に喜ばれる人生だと思っていたのです。メシアを待ち望んでいたのです。しかし、それは間違った動機、間違った方向性への熱心さでした。
①人の熱心、義の行いでは神様に出会うことはできません
②ナザレのイエス・キリストを通して出なければ、恵みによって出なければ神様に会えません。十字架によってでないとメシアに会えません。
③ギリシャ語で罪を意味するハマルティアという言葉は、的外れです。的外れな人生を生きていたことを、しかも、人間的な熱心の真っ最中にいたことをパウロは正直にあかしします。
④自主的な熱心な献身は、イエス・キリストに出会ったときに正しい方向の熱心さに変わりました。それはパウロは恥ずかしがることもなく、証しします。
私たちは、そのようなまことの動機と正しい方向への熱心さを持っているのでしょうか。
クリスチャンと言う命の宗教を持っているのでしょうか。イエスにある熱心を持ってあかしし続けます。
イエスに許されると自主的な生き方の運動を起こす
使徒行伝25:13-27
パウロは、イエスを信じる前には「律法」を熱心に守り、神様にある復活の希望に向けてパリサイ人として(信徒の運動です)厳格に律法を守ることを通して、救いを得ようと約束のメシアを待っている人でした。そのために、クリスチャンと呼ばれる聖徒たち(信徒)を迫害することを歩んできました。ここで、驚くべきことはパウロの変わった部分や、過去の自分の恥ずかしい、クリスチャンを迫害して、難しい部分を正直に告白することです。それは、今の自分がキリストによって生きているからこそ、告白できることであり、以前の過去のような人生を歩んでいる人がいるならば、自分と同じように救われてほしい、という願いがあるからです。それは、ただ主イエスの栄光のためであり、自分の栄光のためではありません。また、パウロには変わらない部分があります。それは、パリサイ人のときも、今も信徒として、熱心に生きる人生です。パリサイ人の時には自分は間違った方向に熱心でした。自分の力で神様に出会い、認められようとしました。しかし、自分の力では恵みの主イエス・キリストには出会うことができません。パウロは主イエスから出会ってくださった後に、昼も夜も熱心であった人生を、信徒としての(宗教専門家でなくて)自ら望んで、イエスを伝える人生へ進んだのです。イエス・キリストを信じることは自ら望んで仕えることを意味します。イエスのために宗教専門家でありません。頼まれてすることでも、お金をもらって仕方なくすることでなくて、自らささげたくてささげるのがクリスチャンの人生です。パウロはイエスに出会って自らささげる人生をしたくてしょうがなかったのでしょう。私の中にそのような人生の情熱、また牧師としてのささげる喜びがあるでしょうか。イエスに許された人生は自主的なささげるエネルギーを持たせます。神様に自らささげる人生を歩みます。
世の権威を覆す罪のない人の権威
使徒行伝25;13-27
世の中には、権威があります。人を支配する権威があります。権威というのは嫌なものであるというイメージがないでしょうか。権威に支配されるのを人は嫌がるのでないでしょうか。権威は恐れや心配を持ってきます。また、逆に人は支配したがるのでないでしょうか。何故、そのようなことが起こったのでしょうか。それは、罪に支配される、自分が自由に自分の行きたいように生きているつもりが罪に支配される時なのです。しかし、本当に恐れるべき権威は何でしょうか。神様の義の審判の下に生きることです。今日の裁判官であるフェストに対してパウロは自分の無罪を認めさせました。もちろん、パウロがまったく罪のないところであり、主イエスが復活したということを主張することからユダヤ人と対決しているだけである、ということを裁判官が知ったことによりますが、パウロがイエスを信じる者として、復活を主張するものとして正しく、聖い生活を送ったところにもあります。それは、罪のないところからくる聖い権威によるものです。果たして、私は聖い権威を持って歩んでいるのでしょうか。自分の力によって罪のない人になったのでなく主イエスの十字架によって罪のないものとされた権威を、主イエスの罪を許される権威を人々を自由にする権威を行使しているのでしょうか?発揮しているのでしょうか。何よりも、聖い権威の力を知り、認め、その下にひれ伏しているのでしょうか。主イエスの権威の下にひれ伏し、恐れのない人生を歩みます。
人人の悪さえも、神様の最高の計画をなすと信じているか?
使徒行伝25:6-12
人の悪さえも、神様の最高の計画をなすと信じているか?
今日の裁判官は、フェストという人です。彼もまたユダヤ人の歓心を買おうとするリーダーです。そのために、重い罪状を持って訴えられてもパウロが何ひとつ証拠立てられないのに、パウロを正しく裁くこともせず、しようともせずに、「カイザルに上訴する」ということにしてしまいます。何という情けなく、不当な話でしょうか。しかし、世の中にはこのような話はたくさんころがっているかもしれません。そのような中でパウロは抗議して戦ったのでしょうか。いえ、それはかえってキリストの心をなすこととなりました。悪さえも、不当なことさえも神様のみ手にあります。つい先日、小学校2年生の女の子から素晴らしい言葉を聞きました。それは、「神様って大きいんだよ、JESUSの手の中にSPACEはあるんだよ」という話でした。私の人生は、すべての状況は、不当なことは神様の手の中にあるって信じているでしょうか。知っているでしょうか。それを通して働かれる神様のみ手を信じて歩んでいるでしょうか。パウロはこの不当な裁判官の心によってローマへ証しし、宣教の働きにつくことになりました。このように神様のみ心になる御手にある人生に期待して今日を歩みます。礼拝の上に神様の手があることを信じます。
まことのリーダーシップは悔い改めから来る
使徒行伝24:24-25:5
今日のQT箇所は、総督であるぺリウスの前で、パウロが正義と今から来る審判を話したときに、恐れを感じてパウロを通しての福音を聞くことを拒んだ話が出てきます。はたして、イエスの福音を聞いたときに「自分の罪を暴かれること」を恐れて心をと閉ざしたのですが絶好のチャンスを失ったのです。福音を聞くときに人には
①素直に聞くよりも今まで生きてきたことの価値観が崩されることを恐れて神様の前に素直に心を差し出すことができません。また、自分の罪を隠そうとします。
②自分の罪を暴かれることを恐れて、言い訳をします。
③ぺリウスは自分がお金をもらいたい、という下心がありました
④また、ユダヤ人の宗教指導者たちもうそ、偽りをついてでも、人を陥れてでも
自分たちの立場を守ろうとしました。
指導者やその他裁判官や政治家たちがそうだったのです。真のリーダーシップは神様の前に、素直に悔い改めをするところから出てきます。悔い改めるのは難しいことですが、そこには、祝福があります。それは、自分だけでなくて周りの人々への祝福となります。
祝福のあるリーダーシップを持っていきます。それは、自分のことや家族、そして妻への神様の祝福になることを信じます。
イエスの証しをするためにBESTを尽くす
使徒行伝24:10-23
使徒パウロは、イエス・キリストの福音を明かしするためにユダヤ人から「異端」と攻められても、自分がそうでない「復活のイエス・キリストを証しするだけである」ことを言いました。それには、パウロが律法を信じ、守り、旧約聖書を信じ、そのとおりに生きているからこそ、誰に非難されても、堂々と神様の証しをできるのです。しかし、もしもユダヤ人の非難に付け入られる隙を持っていたらどうでしょうか?イエスの福音を明かしするチャンスさえも逃してしまうのです。イエスの証しをする前に、福音を伝えるために私がするべきことは何でしょうか?それは、主イエスの福音の価値観によって、聖書を自分の人生の土台として生きていることです。神様の前に、人の前に攻められることのない」良心を持って、BESTを尽くして歩むことです。主イエスの福音を土台にして歩みます。使徒パウロは、イエス・キリストの福音を明かしするためにユダヤ人から「異端」と攻められても、自分がそうでない「復活のイエス・キリストを証しするだけである」ことを言いました。それには、パウロが律法を信じ、守り、旧約聖書を信じ、そのとおりに生きているからこそ、誰に非難されても、堂々と神様の証しをできるのです。しかし、もしもユダヤ人の非難に付け入られる隙を持っていたらどうでしょうか?イエスの福音を明かしするチャンスさえも逃してしまうのです。イエスの証しをする前に、福音を伝えるために私がするべきことは何でしょうか?それは、主イエスの福音の価値観によって、聖書を自分の人生の土台として生きていることです。神様の前に、人の前に攻められることのない」良心を持って、BESTを尽くして歩むことです。主イエスの福音を土台にして歩みます。
神様の目的どおりにわたしの唇を使っているのか?
使徒行伝24:1-9 パウロを訴える大祭司アナニヤは、総督に偽りのお世辞を言った後で「パウロを訴えるためにつれてきた弁護士」を一緒に、パウロを陥れようとします。はたして、アナニャは自分の財力、知恵、言葉、そして宗教指導者としての立場を何のために用いたのでしょうか。
人を訴え、自分の立場を守るために、自分のねたみ、恨み、恐れから自由でない人生を歩んで、行動したのです。それは、神様が私たち人間を作られた目的から著しく遠い人生でした。神様に与えられたリーダーシップを、しかも宗教的な指導者である大祭司としては、本来の役目からまったく正反対のものでした。しかし、逆にパウロはそれらの攻撃にまったく揺るがされることなく、神様の目的である福音を伝える働きをどうどうとしました。パウロは主イエスを証しする旅をしっかり神様の目的の中で歩みました。今日、私の人生、主イエスを証しする旅を、主イエスの目的のために使います。