坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 8月 12, 2009

世の権威を覆す罪のない人の権威

使徒行伝25;13-27
世の中には、権威があります。人を支配する権威があります。権威というのは嫌なものであるというイメージがないでしょうか。権威に支配されるのを人は嫌がるのでないでしょうか。権威は恐れや心配を持ってきます。また、逆に人は支配したがるのでないでしょうか。何故、そのようなことが起こったのでしょうか。それは、罪に支配される、自分が自由に自分の行きたいように生きているつもりが罪に支配される時なのです。しかし、本当に恐れるべき権威は何でしょうか。神様の義の審判の下に生きることです。今日の裁判官であるフェストに対してパウロは自分の無罪を認めさせました。もちろん、パウロがまったく罪のないところであり、主イエスが復活したということを主張することからユダヤ人と対決しているだけである、ということを裁判官が知ったことによりますが、パウロがイエスを信じる者として、復活を主張するものとして正しく、聖い生活を送ったところにもあります。それは、罪のないところからくる聖い権威によるものです。果たして、私は聖い権威を持って歩んでいるのでしょうか。自分の力によって罪のない人になったのでなく主イエスの十字架によって罪のないものとされた権威を、主イエスの罪を許される権威を人々を自由にする権威を行使しているのでしょうか?発揮しているのでしょうか。何よりも、聖い権威の力を知り、認め、その下にひれ伏しているのでしょうか。主イエスの権威の下にひれ伏し、恐れのない人生を歩みます。