坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 8月 14, 2009

預言者としての使命を失わない人生

ミカ1;1-7
今日から、ミカ書のQTです。ミカ書は
①ユダとサマリャに向けて(南王国ユダと北イスラエル王国に向けて→分裂していた両方の王国に向けて)語られたメッセージです。それは、主なる神様の宮があるエルサレムの偶像礼拝、宗教指導者の腐敗、そしてサマリやの反映と別に神様の前に廃墟とされる、という裁きのメッセージでした
②ユダの王様であるヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にかかれました。それは、あえてイスラエル王国の王様の名前を書かないところに意味があります。イスラエルへの裁きもあるのに、何故イスラエルの王様の名前が出てこないのでしょう。それは、ユダ王国こそが正当なイスラエルの後継者であり、ダビデの血統からメシアが出てくるからです。
③主なる神様こそが証人であると2節に出てきます。こんなに恐ろしいことは無いでしょう。逆に、こんなに感謝な事もないのです。不完全な人でなくて、神様こそが証人であることは、主の前に生きる人の希望です。
はたして、ミカはこのような預言のメッセージを与えられたときにどんな気持ちだったのでしょうか。もしも、人間的に裁く気持ちならこのような預言のメッセージは任せられないでしょう。また、愛の人であるならばこそ、イスラエルの人であるなら、このような預言のメッセージを任せられるのは痛みだったでしょう。そして、預言のメッセージを受ける人は清く、何よりも神様と共に歩む人で無いといけません。神様との霊的な関係を持っている人です。それは、霊的に堕落している社会の中で、宗教的な指導者である祭司や預言者たちが堕落している中で(それは本当に恐ろしい罪であり、そのような状態です)きよくいきたことなのです。私にとって、難しいことや傷つけられることがあります。そこで、私の心を痛みや復讐や怒りが支配しそうになります。しかし、怒りのパワーでなくて主イエスの愛を伝えることへ情熱へと、神様のみ言葉を宣言することへと変えてください、と今朝祈りました。今週末の奉仕が主イエスのきよさ、愛、そして御言葉を語る言葉となるように、預言者として、神様のみ言葉を預けられた者(クリスチャン)として歩みます。