坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 8月 22, 2009

主は「~」

ミカ6;1-8
今日は、朝にQTをしながら、ふと何の意識もなしに、主が「~」という動詞に注目することになりました。意図してしたことでもなく、毎回このようにしたからと言って恵まれるわけでもないと思うのですが、今朝急に下さった恵みです。それは、
①主の言われることを「聞け」1節:私はどれほど神様のいわれることを聞け、と聞く準備をしていることでしょうか。
②何を聞くのでしょうか?「主の訴え」2節:です。何を訴えられているのでしょうか?
③3節:神様がイスラエルの民をどのように扱われたのかです。それは、神様がクリスチャンをどのように、あなたを、私をどのように扱われたのかです。
④「思い起こせ」5節:そのないようは、イスラエルエジプトから脱出させてくださった神様の守りと導きについてです。私の人生を神様が主イエスの十字架と言う命、代価を持って罪から救い出してくださった人生です。それは、無料ですが、安い代償ではありません。
⑤何故、ダビデ王国の話が無いのでしょうか?それは、罪から救い出しNEW LIFEへと導きいれてくださったからです。
⑥⑥-10節は、神様の前に礼拝していくアプリケーションの姿です。しかし、神様の願われる礼拝は心の無いささげものや、動機の無い律法の善なる生き方でありません。心の無い感謝の無い亜礼拝でなくて、神様と共に歩むことです。お仕事の宗教家は要らないのです。神様の願われるのは、神様が「~」動詞で語りかけてくださる人格的な関係のある、私と神様なのです。人生の中に主イエスが生きている方であり、私の主人は、愛する王様は神様と言う告白の中にある人生なのです。主と交わる礼拝を求めます。奉仕をさせていただけることに心よりの感謝をします。