坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 1月 30, 2010

誰にも資格は無い

ヨハネの福音書8:2-11
主イエスは、いるだけで「周りに人々が集まってくる人」でした。宮におられると、民衆が集まってきて自然に、神様の国について語られました。私たちクリスチャン、神様の人は、周りに人々が集まってくる人で無いといけません。それは、性格が暗いとか明るいとかでなくて、主イエスがその人の中にいるゆえの魅力なのです。また、主イエスの周りに集まってくるのは賛成者ばかりではありませんでした。また、反対者のみならず、罪人と呼ばれる人が集まりました。普通の宗教ならば、聖い人が集まるのみです。しかし、主イエスの周りには、宗教家たちはいつも反対者でした。何故なら、宗教をしている人には耐えれない罪人が集まっていたらからです。私たちの周りに集まる人はどういう人でしょうか?宗教的なクリスチャンのみが集まっていないでしょうか?ノンクリスチャンの人がみなが集まる魅力的なクリスチャンとなっているのでしょうか?それとも、宗教的な、つまり人間の義や自分の義で生きて、周りに人々が来れない様にしていないでしょうか。主イエスは、今日の聖書の言葉で「姦淫の現場で捕まった女性」を持って、イエスを訴えるために来た宗教家たちを相手にしませんでした。彼らの仲には、女性への愛やイエスへの愛や、何よりも神様との生きた関係が有りませんでした。それは、ただ自分の満足のために生きる宗教家の見たくない姿がありました。主イエスの愛と恵を思うならば、相手を裁くことも、訴えることも出来ません。何よりも、私が完全な義なる神様の前に訴えられて当然の人間だからです。私の家族や親族、周りの人々を裁かず、愛します。そして、宗教学者たちを「この中で罪の無い人が最初に石を投げなさい」と言われて、下を見て彼らに判断されるように任せた主イエス、唯一、罪への怒りを爆発させていいかたがそうされずに、逃げずに残された、いや残ったのでしょう、姦淫の女を「私もあなたを罪に定めない、いきなさい、罪を今から犯してはいけません」といわれたように、私もその愛を受けます。その愛と知恵で周りの人々に接し、判断します。

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金曜日, 1月 29, 2010

霊的な渇きの癒しを求めているのか

ヨハネの福音書7;37-8:1
イエス・キリストを神様のことして、救い主として来られたことに反応がありました。また、行ける水の川を求めるなら、それを求めて私のところに来なさい、という招待がありました。それへの反応は、
①預言者であるという考えを持ってイエスを見た人、それでは十分でありません。
②キリストである、という告白をする人がいました
③まさか、ナザレから出ないであろう、という偏見のためにイエスに出会えない人がいました。
④ベツレヘムから出るはずである、という聖書を読んでの話をする人がいました。しかし、彼らはイエスに深く、人格的に出会えていませんでした。
⑤イエスを捕らえるために出て行った役人たちは、イエスを見たために「捕らえること」が出来ませんでした。反対派が、自分の仕事を全うしないといけない人が、立場を失う人さえも、イエスを認めざるを得ませんでした。それほど、イエスだったのです。反対を持っていて神様の力を見たのです。
⑥しかし、祭司長やパリサイ人たちは律法を守っても、知っていても、罪ののろいから自分が無関係である義なる存在である、自らの人間の律法と判断をもってイエスに出会うことが出来ませんでした。
⑦そんな中でも、以前にイエスであったニコデモは「イエスに直接会って判断すべきである」という意見を言いました。果たして、自分の霊的な状態、人生を渇望していることを素直になっているでしょうか?イエスが私のところに来なさい、という招待をされる時に、彼の愛に素直にこたえいるのでしょうか?イエスの愛は相手を利用するために、招待しているのでないのです。ただ、愛を与えて、人生の渇きを満たそうとしてくださり、幸福を下さろうとしているのです、まことの神様と出会い、使命のある人生を生きさせようとしてくださるのです。その渇きの無い人生を歩んでいるのでしょうか?主イエスの前に素直に生きていきます。

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木曜日, 1月 28, 2010

真実を見つけさせない形だけの宗教生活

ヨハネの福音書7:25-36
現在の人の疑問の中に、イエス様を見せてくれ、神様を見せてくれ、そうしたら私たちは信じるのに、という話があります。果たしてそうでしょうか?本当にイエス様を見せてくれたら、信じるのに。確かにそのように思えるかもしれません。しかし、イエス時代の人々は「しるし」をみて、「キリストが来られても、これ以上多くのしるしを行えるだろうか」と多くの人々が信じたユダヤ人、しかし、しるしもイエスをみても、御言葉を信じないガリラヤの人たちがいました。逆に、サマリヤの人たちは自らイエスのみ言葉を聞いて信じました。ところが、一番イエス様に近いはずの宗教に熱心なパリサイ人たちは、イエスを拒み、彼を殺そうとしました。一番、聖書を読み、律法を守り、宗教生活をしている人が、一番イエスから遠い反応をしました。それは、主イエスの自分の宗教生活や自分の地位、人々からの尊敬を失い、自分の真の姿、神様と全然親しくない姿や心の現れでした。イエス・キリストの現れは、人の心の真の姿、価値を見出させます。群集でさえも、つまり人々の関心で動くような人でさえも、イエス・キリストの印を見て、信じたのに、パリサイ人は自分のプライド、自分の罪を捨てて素直になることが出来ずに、イエスの光の前に、拒否反応を示し、相手を罪につけることにしたのです、私たちのクリスチャン生活も、宗教生活に陥ることは無いでしょうか?それは、悔い改めの無い生活です。真実を拒否する生活であり、悔い改めは、神様の恵と愛があってこそ、自由に出来る、喜びのある、回復のあるものです。今朝、主イエスにある命の関係を持って生きます。

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水曜日, 1月 27, 2010

知恵のある人は心を見る

ヨハネの福音書7;14-24
知恵のある人とは誰でしょうか?それは、外見でも、学歴でも、どのような学校で勉強したのか?という知識の部分でも、行動している行いの部分に優れている人でもありません。大事なことは、神様の心を知っているのかどうか?神様に遣わされているのかどうか?なのです。それでこそ、初めて神様にあって知識が用いられていくのです。人生の経験が生かされていくのです。神様の栄光を求めるのかどうかが大事な人生の最終的な祝福を決めるのです。自分の心を満足させるのでなくて、神様の心を満足させるのが、大事なのです。行いを見るのでなくて、その心の動機を神様は確かめられます。それは、人間の心に本来無い、失われた真実を見出します。真実の無い人は、うわべだけを見ようとし、相手にもうわべだけを見てもらうことを願います。そうでないと、自分の心の動機を見られることは自分にとっても危険で、難しいことからだからです。安息日の人の癒しも、割礼を安息日に行っていながらも、矛盾したことを言っていたわけです。まことの知恵は、神様の心です。神様との交わりからくるものです。それは、一番愛のある時間であり、一番厳しい自分の心の奥底との戦いです。神様の心を持つ時間を得ていきます。宗教的なクリスチャンになりません。

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火曜日, 1月 26, 2010

イエスが分からないと神様のタイミングが分からない

ヨハネの福音書7;1-13
主イエスの兄弟たちも、主イエスがメシアであり、救い主であり、神様の子であることを一番身近で見ながらも、信じることが出来ませんでした。そこで、主イエスがユダヤ伝道をされずに、避けてガリラヤ伝道をしているときに「あなたのしているわざ」を見せてでも、人に認めさせよと、言います。彼らには「神様の技」とも、「神様のとき」ともいう考えはありませんでした。イエスは自分のしたいことや自分のときで行動せずに、神様のみ心だけを行い、神様のときだけで行動しました。イエスは神様のみ心だけを行い、信じているために、自分のされていることや言葉に自信がありました。しかし、逆に神様のみ心を行わない人や、信じない人には「確信」がないのです。恐れがあり、人の目を診て行動します。人の目で時間を決めます。しかし、神様のみ心を行う人には「行動原則」があるのです。それは、時に人から憎まれ、理解されないかもしれません。しかし、イエスを見るときに神様のタイミングが分かります。そのポイントは、神様のみ心しか行わない、行えない、という徹底的な神様の最高の計画があることを信じるイエスの従順です。そのイエスを知る一日を早朝祈祷会、奉仕を通して、QTを通して知って生きます。私たちの人生を導く神様の計画を信じます。

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月曜日, 1月 25, 2010

天上の言葉を受け取る人

ヨハネの福音書6:60-71
今日は、命の言葉を聞いた人たちの2つの反応があります。そのうちの一つは「多くの弟子たちがイエスを離れていき、共に歩まなかった」ということです。群集でもなく、イエスとともに伝道し、仕えた人々が離れていったのです。それは、主イエスの体を食べ、血を飲むという言葉を肉的に、地上のこととして理解し、霊的な解釈、何よりも聖霊様によって悟ることが無かったのです。逆に、12弟子たちは「主よ、私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命のことばを持っておられます」と告白します。彼らの告白は、「主よ」でした。それは、彼らの人生の主人でした。神様でした。メシアでした。しかし、彼らが「神の聖者である」という言葉を聞くと、彼らが完全に理解できていなかったことが分かります。メシアという告白ではありません。残念なことは、完全に理解しきっては居なかったのです。しかし、主イエスは神様の人類救出作戦を弟子たちに見せてくれているのです。御言葉は、完全に理解できなくても、地上の理解の仕方では受け取ることも、従うことも出来ません。まして、キリスト教が見えない神様を信じるのであれば、霊的なこととして受け取ることが出来なかった弟子たちも残念です。また、その中には裏切る弟子が12弟子の中にさえもいたことは残念です。御言葉の一部の理解であっても、天上のこととして主イエスの救いを見ないといけません。天上の言葉を受け取る人として歩みます。

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土曜日, 1月 23, 2010

命のパンを食べると

ヨハネの福音書6:41-51
まことの命のパンであるイエス・キリストが来られました。命のパンを食べるとどうなるでしょうか?
①まことの命のパンは日ごとに自分を新しくします。人間は日ごとに古くなって衰えます。しかし、主イエス・キリストにある命を得る人は毎日、新しくなります。
②むなしい人生から、目的の無い人生から夢のある人生へ向かいます。
③命のある人生は、神様と共に生きる人生を歩みます。
④神様と共にだけ生きるのでなくて、神様の家族である教会の人々と歩みます。
⑤命ある人生は、罪の悔い改めをします。自由のあるところには、罪の悔い改め我自由に出来る安全な雰囲気があります。愛されているところには、恵みのあるところには告白があり、そのためにとりなしの祈りがあります。自分が一番素直で入れます。
⑥まことの命のパンを食べる人は分かち合います。何故なら、イエスの命は増えるものです。祝福される人は、それを用いる人は増えることを、何倍、100倍に増えることを信じ、体験し、証します。
⑦まことの命のパンは無料ですが、イエス・キリストの十字架での命の代価があります。そのために、真の自分の存在の価値の尊さを知って生きます。
⑧まことの命のパンを食べる人は恐れがなくなります。自分の生活の供給されるか?からの生活への恐れ、それは命の供給主である創造主から離れている恐れです。そして、主イエスが十字架で命を捨てる愛を受けるために、人間関係の中にある裏切り、背信、からの恐れから解放されます。
⑨毎日、感動のある人生があります。イエス・キリストを信じる人生は、ありきたりの、今日も同じようなみえみえの人生でなくて、日ごとに奇跡の体験です。昨日の繰り返しはありません。
毎日新しい神様のみ技を見る人生です。
今日も、命のパンである御言葉、主イエス・キリストの命を生きます。
今日も、命のパンである

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金曜日, 1月 22, 2010

自分の必要を満たすことを求める人と捨てた人

ヨハネの福音書6:30-40
自分にとって、本当に必要なものは何でしょうか?今日、主イエスを尋ねてきた群集たちは「自分の日常の必要、パンだけを求め、それを満たしてくれる人を求めました」しかし、主イエスはモーセが荒野でマナを受けた話をしながら、天からのパンである永遠の命、尽きない命のパンを、霊的なパンを話します。本当の必要がそこにあることを語られたのです。そして、そのために来られた主イエスは自分の願いのためでなく、自分の願いを充足させるためにきたのでないことを言われました。ご自分が神であるにもかかわらず、父なる神様のみ心だけを行うことを言われ、神様なしには何も出来ない、と言われたのです。どのような謙遜でしょうか?そして、どのような神様への信頼と従順でしょうか?主イエスは、神様のみ心を行うものは捨てられることが無いといわれました。主イエスにとって、永遠の命を得て生きること、神様とつながって神様のみ心を行うことが、パンでした。人はパンだけで生きるのでなくて、神様の口から出るパンである御言葉によって生き、歩みます。神様のみ心を求めて、自分の人生の考え、計画を白紙にして、主イエスに書いていただく人生を歩みます。まず、与えられた聖書のみ言葉に従って歩みます。主よ、どうぞ助けてください。

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木曜日, 1月 21, 2010

何を求めてイエスの前に来ますか?

ヨハネの福音書6;22-29
男性だけで5000人の給食の奇跡をされたイエスを捜し求めた群集たちは、イエスと弟子たちを捜し求めました。彼らには、まさかイエスが湖を渡る奇跡をなされるかただと思うことも無く、人間的にただ自分の必要を求めて、イエスの元へ来たのです。ですから、イエスが神様の子供であるとか、メシアであるかどうか?まして自分の罪の救い主であるか?は全く二の次か、どうでもいいことだったかもしれません。もしも、メシアであるイエスを捜し求めるなら「湖を渡る奇跡」をされても、おかしくないし、その主イエスを見てメシアであることを確信し、喜んだことでしょう。そして信じたことでしょう。しかし、彼らの関心は、目的は自分のおなかを満たす満足でした。魂の救いや永遠の命への渇望がありませんでした。神様の業を行う人生のためにすべきことと、すべきでないことがあります。それは、神様の言葉を聞くことです。日常の必要を満たすHOW TOでなく(それは必要ですが、魂の救いを得るなら必ず与えられます)神様の声を聞き信じることです。その永遠の命の上に魂の価値を於くべきことです。魂の救いのために、喜びを持って生きているのでしょうか?魂が救われた時に、喜んでいるのでしょうか?それとも、自分を満足させる日常の瞬間を満たすために、人を利用し、あまつさえ神様を利用しようとしているのでないでしょうか?また、そのような人に振り回されることを主イエスは拒否され、真理を語られました。それは、主イエスの愛です。本当のことを言うと人は傷つきます。しかし、大事なことは話さないといけません。主イエスの永遠の命を下さる愛で行動します。

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水曜日, 1月 20, 2010

私の人生の嵐に入ってこられる主イエス

ヨハネの福音書6:16-21
主イエスの弟子たちは、奇跡の跡に「主イエスと別で」ガリラヤの湖を渡りました。これは、昨日の聖書箇所と連動している主イエスの意図があるように思われます。それは、男性たちだけで5千人の人々を給食されたように、その奇跡をなされる際に、アンデレとピリポにチャレンジを与えたように同じように、弟子たちを残されて主イエスは祈られました。弟子たちが、再びガリラヤの湖からカペナウムに向かうときに、強風が吹いて嵐となりました。進むに進めない状況になったときに、主イエスが歩いて湖を渡ってこられました。弟子たちには、想像も着かないことだったでしょう。考えられない奇跡が続きました。そんな信仰の反応が出来ずに、主イエスが「わたしだ。恐れるな」といわれるまで恐れました。私たちの、私の信仰生活にも、人生の嵐で「私の人生が進んでいかない」ということがないでしょうか?また、神様への信仰を持っての奇跡を願う反応が起こりません。しかし、そんな私たちに主イエスは自ら来てくださって私の進まない船に、嵐の中に乗ってくださいます。主イエスが共に折られると弟子たちは、喜び、そして「ほどなく目的地に着いた」とあります。私の人生を進ませる主イエス、共におられるときに、喜び、ほどなく目的地に着くことを信じます。アーメン。

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火曜日, 1月 19, 2010

あなたの2匹の魚と5つのパンをささげているか?

ヨハネの福音書6;1-15
主イエス・キリストは弟子のピリピとアンデレにチャレンジを与えられます。いや、全ての弟子にチャレンジを与えられたのです。それは、集まった5千人の人々にどのようにして食事を与えられるのか?という質問でした。そこで、ピリピは2百デナリのパンでは足りないという現実的な計算を答えとして出しました。また、アンデレはそれでも少年の持ってきているお弁当である2匹の魚と5つのパンを差し出し、これが何になるでしょうか?というとりあえずのこたえを持って来ました。実は、それは少年の美しい捧げものでした。実際のところ、少年は自分が出さなくても「何になるでしょう」という程度のものっ立ったのです。また、少年が差し出さないといって誰が文句を言えることだったでしょうか?ところが、彼は無理に捧げなくても、自分が食べても文句の言われない、自分の分を捧げました。それを主イエスは大きく用いられたのです。主イエスは、私に何を求められるでしょうか?それは、実際的な計算でなくて、信仰のチャレンジなのです。少年の上げなくてもいい、誰も文句を言わないものを用いられる主イエスは、あなたの「二匹の魚と5つのパン」は何ですか?と言われます。それは、奇跡に頼る信仰でなくて、水に頼る神様のみ言葉に頼って、神様の海へ歩んでいくことを願われるのです。私にとって、今は非常にチャレンジな時です。神様の前に、自分のささげ物を持って見えない世界へ、神様で無い起こらない奇跡を信じて、進んでいきます。

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月曜日, 1月 18, 2010

御言葉を聞くと神様の愛を受け取れる

ヨハネの福音書5:39-47
主イエスについて、旧約聖書はメシアが来れる預言を330語っているといわれます。そして、モーセを通して与えられた律法には「義を守られぬ自分を知らしめ」神様のメシアが来られるのを待つしかないことを示します。そこには、私たちを憐れまれて、愛してきてくださった主イエスの愛があります。旧約聖書から新約聖書まで、神様の愛で金太郎飴のように溢れています。そのクライマックスが福音書です。主イエスが来られたことです。しかし、律法学者、宗教者やユダヤ人たちは受け入れませんでした。それは、愛されていることへ拒否反応であり、自分たちが義であるとして、自分たちの罪を暴かれるように感じたのです。罪が示されるのは愛が無い人には出来ません。その人のために命を掛けることがなければ、意味の無いものです。主イエスの合いの提示は、命がけです。その主イエスの愛で、まず自分から悔い改めて相手を愛します。恵みの反応を相手の言葉や行動に示します。

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日曜日, 1月 17, 2010

御言葉を聞くことが目に見えぬ神様を信じること


ヨハネの福音書5;30-38
目に見えない神様を信じるには、愛を知るには、どうしたらいいのでしょうか?それは、聖書を読むことです。御言葉を読んで、神様の心を知ったなら、自分の願いどおりでなくて、神様の心を行い、神様の行いをする人に、神様の愛や神様の臨在を経験することが出来ます。イエス・キリストを信じて、その神様を体験して、生きるには、御言葉があるのです。御言葉を読み、実行する、神様の心を体験する人になります。

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金曜日, 1月 15, 2010

自分の経験や理解を超えるのが神様の奇跡

ハネの福音書5;10-18
神様の奇跡に一番否定的な人は誰だったでしょうか?それは、ユダヤに於いて専門の宗教家たちが一番否定的で、懐疑的で、自分の経験や理解を超えたものに、否定をして、攻撃をしていったのです。それは、律法を守ることに自分たちを満足させ、他人から尊敬を受けて、自分たちのポジションを築いていったのです。律法を通して、神様に出会う教師としての役割が人間を満足させる宗教になってしまったのです。神様に出会うことが、律法の目的であり、自分で律法を守れないときに、救い主なるイエスに出会うはずなのです。ところが、律法を、キリスト教を宗教とするときに、自分の立場を、自分の経験や理解、知識を壊される体験をしたときに、否定します。それは、地上にある教えだからです。天上にある教えは、人間の理解を超えます。自分の体験したことの無い神様の教えを、神様の奇跡をみます。一度も体験したことの無い信仰生活を、教会生活を、奉仕を、します。昨日の教えや自分の過去の痛みに縛られません。はたして、私は神様の新しい教えに従順に生きているでしょうか?神様に期待しているといって、自分の考えに即さないものはきても、喜んでいるのでしょうか?人の癒しや、安息日の真の意味であり、主人公であるイエスを押し出していないでしょうか?宗教をするクリスチャンになって、神様のみ技を喜んでいない人になっていないでしょうか?宗教クリスチャンでなくて、生きている神様のみ声に反応するクリスチャンになって行きます。他の人を通して神様のみ技がなされた時に、ねたまず、拍手し、祝福します。

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木曜日, 1月 14, 2010

挫折し続けたからと希望を失うな!

ヨハネの福音書5;1-9
主イエスは30数年べテスタの池に横たわってきた人に言われます。「よくなりたいか」と。私たちは長い挫折のために、希望を持たなくなったり、神様は私の祈りを聞いてくださらないのでないか?と不平や疑惑を持つようになります。そして、挫折した心は希望を失い、ひねくれた心をもたらします。新しい神様のみ技や人の愛にも否定的で、受け入れません。逆に否定的な意見や考えを述べます。しかし、主イエスの招きに祈りを信じて一歩歩みだすでしょうか?「よくなりたい」と答えるでしょうか?最近、ある先生との話で「牧師とは変化や成長を臨む人」には最適の仕事だという話を聞きました。クリスチャンもそうでないでしょうか?キリストにあってよい人生を、変えられる人生を歩みたい戸網のでしょうか?過去に縛られて、神様の新しい御技を期待できないでいるのでしょうか?みよ、私は新しいことをする、という神様に期待して、私はただ「よくなりたい」というだけなのです。今日のべてすだの池に横たわっていた人は「誰も私を池に連れて行ってくれない」としか答えれませんでしたが、主イエスは答えてくれました。神様の声に、「よくなりたい」とあきらめずに、心から信仰を持って祈ります。アーメン。

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水曜日, 1月 13, 2010

神様のみ心を行うことは命だ

ヨハネの福音書4:31-42
弟子たちにイエスは言われます。あなたがたの知らない食べ物があると。それは、神様のみ心を行うことです。食べ物は、命をつなぐものです。食べないと死んでしまいます。現代人の多くの日本人には、食べないと死んでしまうというのは少し難しい感覚かもしれませんが。また、食べ物は喜びでもあります。それを食べることに喜びや楽しみやストレスを解消することがあります。主イエスにとって、神様のみ心を行うことは、まさに食べ物であり、霊的な命をつなぐものであり、人生を生きることでした。主イエスは、「目を上げて畑を見なさい。刈り入れる時が来ている」といわれます。永遠の命を刈り入れる時がきています。それは、撒くものと刈るものが「ともに喜ぶ」ためです。主イエスの福音を伝えて、刈入れるために、「ともに喜ぶ」チームが出来ているでしょうか?サマリヤの女性の救いは、町の人々が救われるという事件でフィナーレを飾りました。彼女のであったイエスが伝えられて、サマリヤの人々は自分たち自身でイエスに出会いました。永遠の命のために救いのために働きに加わります。

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故郷でも、家族の中でも偏見を除け!

ヨハネの福音書;43-54
主イエスは、故郷で尊ばれませんでした。それは、主イエスの生い立ちや育つ様を見ながら、彼らの願うメシア像(イスラエルを救う神様であり、人の子としてこられることを全く理解できなかった)でなかったために、救い主がま側にいたにも関わらず、かえって、自分の偏見のために受け入れることも出来ず、人生最大のチャンスを逃したのです。私たちもこういうことが無いでしょうか?幼いときから見て育った子供が伝道師になったり、牧師になったのを見て、未だに「だれだれちゃん」という自分が上に立って、年配者として、いつまでも神様の人として見れずに、神様に恵みを受け損なって損をする。そういうことはないでしょうか?損をするのは誰でしょうか?自分なのです。私の家族や親戚にも本当に難しい部分があります。神様の人として、神様がこの人に生きていることを示してください、と祈らされました。しかし、ガリラヤの人たちは主イエスを受け入れませでした。ただ、主イエスのエルサレム伝道での「しるし」と「不思議」を見た人のみが、受け入れたのです。主イエスは、がりや伝道に多くの公生涯を送られました。しかし、このヨハネの福音書には、多くのエルサレム伝道が記されています。今日のQT箇所で一つの疑問が浮かびました。こういう話の後で、何故カペナウムの役人の子供の癒しの記事が出てくるのであろうか?という順序についてです。ヨハネが強調したい神様のメッセージがあるに違いありません。今日の恵みのポイントは45,48.50節になります。それは、見ずに信じる「みことば」を信じて役人が歩んだことです。その結果、子供は癒されて、全家族が救われる事件が起こったのです。もしも、信仰にたって「主イエスのみ言葉の権威」を認め、従わなければ、この奇跡も、家族全員も救われることが無かったでしょう。しかし、ヨハネの福音書1;1「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった」といわれるロゴスされた主イエスは、みことばをもって、私たちの人生を創造され、新しくされます。今朝、私の家族に信仰を持って、御言葉の権威に従い、祝福されることを心より祈ります。神様にある愛と尊敬を人々が、リーダーにもてるように、まず私から愛し、尊敬し、真理に従います。

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月曜日, 1月 11, 2010

キリスト教は宗教でない

ヨハネの福音書4:19-30
私がクリスチャンになったのは、キリスト教に入信したのは、それが宗教だからと言うのでなくて、本物である、真理だから信じて生きているのです。イエス・キリストが私の救い主であるのが真実で、その愛に何よりも一生涯を変えられる人生を受けたからです。今日QTに出てくるサマリヤの女性は、サマリヤと言う南北分裂時代に、混血したユダヤ人たちの子孫でした。そして、バビロン捕囚の後に混血した人種として、神様への信仰を混血したものとしてさげすまれながら、生活して、エルサレムにいくことなく、礼拝生活をしてきました。エルサレムから除外されながらも、メシアを期待していました。そこに、主イエスが地上のエルサレム神殿だけでなくて、血統のイスラエルに縛られること無く、メシアなる主イエス・キリストの十字架によって礼拝するものを待ち望みました。今日、差別の無い主イエスをあがめ、伝えます。宗教でない、霊とまことにより礼拝します。宗教に囚われないクリスチャンとして伝道し、礼拝します。

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日曜日, 1月 10, 2010

living water

ヨハネの福音書4:11-18
神様とつながる人生は、生ける水が湧き上がる人生です。それを邪魔するものは何でしょうか?それは、罪です。神様との関係を邪魔し、切りさるものです。また、人生の傷から神様の新しい御技を見ることが出来ず、期待することも出来ず、神様の目であるビジョンを見ることが出来ないのです。主イエスは、そのようなサマリヤの女性に「自分の現実、そして罪の告白」へと導かれます。私の現実の中に、愛を持って癒しをされようとする主イエス。神様の愛の癒しは、真の自由へと導かれます。私たちのプライドや痛みを乗り越えて、主イエスの招きに応えるでしょうか?素直に応えて、神様の奇跡を信じていくでしょうか?生ける水を飲み、渇かないいずみを受けていきます。今日の説教は内的な癒しでした。私の魂を、心を、人生を癒される主イエスを愛します。その人の前に心を開きます。

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土曜日, 1月 09, 2010

命の水を与えるために自ら近づく主イエス

ヨハネの福音書4
スカルの女に主イエスは、自ら近づいて「水を下さい」といわれます。それは、相手の肉体的な必要に訴えながらも、日常の必要に訴えながらも、さらに霊的な必要へと、深みへと入っていかれます。そして、何よりも、相手が自ら話されるように導かれます。私たちは、主イエスの近くに進んで言っているでしょうか?また、主イエスを知らない人の下へみずから進んで近づいているでしょうか?スカルとは、ヤコブがヨセフに与えた土地の近くです。神様の約束の地、遺産の地がありました。そこに、サマリヤの女への神様の救いの約束が来ました。主イエスが、自ら来てくださいました。

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金曜日, 1月 08, 2010

まことの権威に従うと無尽蔵の祝福がある

ヨハネの福音書3;31-36
神様が、私たちを罪からの救いだされる救出作戦は、神様の真実さ、その情熱によってなされました。それは、アダムの現在以来、神様の人類の救出大作戦のスタートでした。それは、天国の権威や地上の権威を全て導入しての働きでした。その救いを、神様の救いを真実だと受け入れた人には、天国からの無尽蔵の祝福が注がれます。この世の権威はどうにかして、自分を利益を受けたいと人を利用します。また、自分も利用したりします。それは、時にお金がかかると両親、兄弟、親戚さえも信じられない関係となります。しかし、まことの権威は私のために、相手のために命を捨てる愛から来ます。相手の最高に輝く人生のために、下された主イエス・キリストの十字架によって回復する、人生です。サタンやこの世の権勢に従うのか?神様の権威に従うなら、無尽蔵の天国の祝福があります。それを信じるのでしょうか?旧約聖書の預言が、メシアを下さるという330以上の預言がなされるまで、約束の成就まで時間が掛かりました。自分の願う通りや自分の時間どおりでもありませんでした。自分の願うとおりのイスラエルという国を救うメシアでもありませんでした。しかし、全世界の人々をすくみ技がなされました。私はその現実が変わらないよう中でも、神様の約束を、真実を信じるのでしょうか?自分の願うとおりよりも、神様の最善の私よりも良くご存知な神様の計画を信じるでしょうか?神様の真実を信じます。

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木曜日, 1月 07, 2010

人気からRELEASEできる人生

ヨハネの福音書3;22-30
バプテスマのヨハネが、「女の中から生まれた中で一番偉大な人であった」という評価をされました。その理由は、①自分のアイデンティを知って生きたからです。自分がイエス・キリストで無く、自分はイエス・キリストがころられる道を準備する者である、と分かっていたからです。世の中の人は神様を知らないために、自分が誰なのか?自分の人生の目的、方向性を知りません。そのためにさまよいます。最初は上手くできても、最後はどのように歩むべきなのか?そのゴールを知りません。
②神様の栄光を知っている人です。主イエスに会ったことがなくても、その顔に第一に「世の罪を取り除く神様の子羊」であることを見たのです。また、主イエスの上に聖霊が下るのを見ました。次に、神様の声が天が開いて語れるのを聞いた人です。バプテスマのヨハネは、主イエスがバプテスマを授けているの見て、人々がそちらに行くのを見て、人気が取られても、それを喜んで差し出しました。自分の栄光のためでなくて、神様の栄光のために奉仕を、水のバプテスマを授けてきたからです。これは、簡単なことではありません。最初は神様のために始めても途中から自分の人気になったり、別のものへいこうとします。しかし、主イエスにあるアインティをつかみ、自分のすべきことをつかんだ人は、最後までぶれない人生を歩みました。神様にあるアイデンティをつかみ、自分の心や人気からリリースされた人生を、最後のゴールへまっすぐに歩み人生を行きます。

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水曜日, 1月 06, 2010

罪の告白は、神のわざである

ヨハネの福音書3;9-21
ニコデモは、主イエスの前に「老人が生まれ変わること」はできないといいました。そこでの、主イエスの応えは「人には出来ない」が「神によって全てのことができる」といわれました。そうです、罪人が悔い改めるのは、罪の自己防衛で恐れている人間が、罪の告白を出来るのは、光が当てられて、真理が示されても、悔い改めれるのは「私のために死んでくださったイエス・キリスト」のゆえなのです。まさに、ニコデモは人の目を恐れて、真理を求めつつも、真理が提示されることを恐れました。しかし、そこには神様の真理と恵みが、愛が溢れていたのです。ヨハネの福音書3;16には、ニコデモのために、私のために死んでくださった神様の愛と真理が溢れて、杯から溢れていたのです。そこには、地上でない天井での神様の真理と愛の秘密が語られたのです。証拠をあかしされたのです。それを受け入れる人には、神様の子供としての渇くことのない、イエス・キリストにあって満足する人生が用意されていたのです。今日、主イエスの弟子として「罪の告白」によって主イエス・キリストに満たされる、光の子供としての行動をもつ人生を歩みます。サタンや罪の攻撃に反応しない、神様のみ言葉によって宣言する人生を、私は私の家族は歩みます。アーメン!ハレルヤ。

火曜日, 1月 05, 2010

魂の渇きを誰が隠せるか?

ヨハネの福音書3:1-8
ニコデモは、ユダヤ人の指導者で、律法の専門家で、誰よりも聖書を知っている宗教家でした。しかし、彼は宗教家でありながらも、魂の渇きがありました。救われていなかったのです。その魂の渇きは、隠していながらも、うめきがありました。そのために、彼はユダヤ人のイエスのところに夜遅く訪ねていきました。それは、自分が魂の渇きがあることを人々へのプライドのために隠す行為でした。老年になっていて、若造のイエスのところに行くのが、恥ずかしく、また宗教の専門家である自分が、人々を教えている教師の自分が、大工の息子で最近評判のイエスのところに行くのを人々に知れるのを恐れたのです。最近、イエス・キリストを受け入れて涙を流すのは聖霊様のみわざであることを聞きました。そういえば、確かに伝道して、イエス・キリストを信じた時に相手の方々が涙を流す反応をされるのを見たことがあります。というか、だいぶんがそうですよね。ニコデモは魂の渇きを隠していたときには、恥ずかしさがありました。人の目を避けて、自分のプライドを持っていました。それは、主イエスの前に出るときに邪魔になります。主イエスは、そんなニコデモが肉によってしか聖書を見れず、新生を体験できていないこと見抜き、霊によって、神様の力によってのみ、生まれ変われることを願います。神様にしか出来ない、霊的な技の前に心素直に自分を告白します。ハレルヤ!主イエスのみなを賛美します。

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月曜日, 1月 04, 2010

あなたの心をきよめの炎で満たされる主イエス

ヨハネの福音書2;13-25
主イエスが、神殿に入ってされたことは「商売人の台」をひっくり返し、商売人を追い出したことでした。それは、一見見ると非常に危険なことや過激なことをされているように感じます。神様の祈りの家を商売の家にしてはいけない、という神様の命令であっても、そこまでしなくてもと思えるかもしれません。しかし、この商売人とは「両替人」とは神殿の中でだけ仕えるお金であって、いわゆる神殿専門のお金だったのです。そのために、両替する比率は自分たち(それは、祭司やレビ人たち)の考え次第でした。また、動物やいけにえは「傷の無いもの」でなければいけません。地方から動物を持ってくるなら、それは傷を途中で受けたり、非常に難しいことになります。それを解決するために神殿で動物を買うのは、非常に便利な方法であったのです。しかし、それが時を経つにつれて商売人と宗教家たちの罪の結合を結ぶようになったのです。主イエスは、ここでは決して人を怪我させたり、そういうことはなさりませんでした。しかし、神様の住まわれる神殿に於いてのきよめは徹底的になされました。主イエスは、今日も「私の心の中で、一部でなくて完全にきよめることを願われます」徹底的に主イエスの愛と義で占められることを願います。何よりも、宗教と言う罪、それは非常に恐ろしいものです。私の心の中に、主イエスの弟子の仲に、きよいイエスキリストの愛のきよめがなされるように願います。

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神様のタイミングで奇跡を見るためには

ヨハネの福音書2;13-25
主イエス・キリストの最初の奇跡は、「カナの結婚式で水をぶどう酒に変えること」でした。主イエスは、最初の奇跡を「結婚式を祝福する」ということをされたのです。結婚式の新郎や新婦も恥をむることなく、人生の大事な結婚と言う節目をスタートできました。しかし、そのために大変な状況を見た母マリヤが「この状況を助けて欲しい」と願ったときには(女性らしい暖かい愛ですよね)神様の時に、神様の方法で解決されることを言われました。それは、人間的な権威や支配が入ってはいけないことでした。それは、たとえ母であっても入れない境界線でした。このことを言われたら、普通多くの親であれば怒ったりすることでしょう。しかし、マリヤは主イエスの言われることをしてあげなさい、と言われました。私たちが、神様のタイミング、時のためにすることは何でしょうか?
①:神様の時を待つ、忍耐をすることです、それは神様の権威への信頼です。
②:そして、神様の時になさるために準備することは「主イエスの言われる」ことを何でもする、従順の姿勢です。
③:主イエスに言われたことに最善を尽くす姿勢です。彼らは「かめのふちまで水を注ぎました」それは、大変な作業であり、理解の出来ないことをさせられる気持ちにおちいかねない、状況です。
しかし、そこに、主イエスの使えた僕だけが「神様の奇跡」を最初から最後まで目撃し、証人となることが出来たのです。はたして、私は主イエスに言われることに従順になる準備が出来ているのでしょうか?神様の権威に信頼しているのでしょうか?最善を尽くして、主の働きに同席しているのでしょうか?神様の権威に従順していきます。

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土曜日, 1月 02, 2010

天国の門が開かれるのを見たいか!

ヨハネの福音書1;43-51
今年のテーマは、弟子として「共に生きる」です。そこへ、さらに「来て、見なさい」という招待へ応える従順です。ピリポは主イエスの召しに応えて、「預言者とモーセの律法に書かれた(旧約聖書の成就)メシアなる主イエス・キリスト」をナタナエルに紹介しました。ところが、ナタナエルはすぐには主イエスの召しに自分偏見のために応えることができませんでした。私たちは、自分たちの偏見をすぐに乗り越えれるほど、柔軟な心をしては居ません。そんなナタナエルに、主イエスは「あなたはいちじきの木のしたで御言葉を黙想していた」と言われます。そこで、ナタナエルは主イエスを神のこと信じるのですが、「一生懸命に御言葉を黙想しながらも、神様の子である主イエスが分からない」とは何と残念なことでしょうか?御言葉を黙想しながらも、霊的な判断や反応力が無かったのです。神様への知識が会っても、大事なのは「霊的な瞬発力」であり、従順なのです。それでも、主イエスはあなたはもっと、さらに大きなこと、「天が開けて、神のみ使いたちが、人のこの上を上ったり、下がったりするのを見る」と言われました。今回の弟子のテーマは従順です。それは、未来について見えることや聞いてことでする従順でなくて、まず主イエスご自身について「来て、見ること」から始まりました。主イエスを来て、見ていきます。主イエスを見る従順を得ていきます。

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金曜日, 1月 01, 2010

弟子とは共に生きる人


ヨハネの福音書1;29-42
イエスを見たバプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言います。彼は、主イエス・キリストと面識があったり、既に顔を見たことがあるなどの面識が会ったり、神様の幻を見せられたのでなくて、「聖霊がイエスの上にとどまる」のを見て「神の子羊」であると宣言したのです。
私は、1:見よ、と主イエス・キリストを他の人に宣言し、伝道しているのでしょうか?
2:また、神様を知りながらもさまよっているクリスチャンにも「主イエス」を示しているでしょうか?
3:主イエスは聖霊のバプテスマを受けて、他の人にも授けていました。私たちは受けた聖霊様と共に生きているのでしょうか?それは、御言葉をどれほど聴くのかによって、どれほど従うのかによって判断することが出来ます。
2人の弟子たちは、バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」というのをきいて、主イエスのところに行きました。「どこにお泊りですか?」と。彼らはガリラヤ地方の漁師でした。ところが、バプテスマのヨハネ活動は「ヨルダン川、エリコなど」でした。ということは、彼らは自分の生活をおいて、捨てて、ヨハネと共に生活する弟子だったのです。聖霊様との生活は、共に生活することです。主イエスの弟子とは、共に生活して、「言葉」を聞きます。人格から影響を受けます。
この新しい年、神様の新しいことに生活を共にしていきます。ハレルヤ!アーメン

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