誰にも資格は無い
主イエスは、いるだけで「周りに人々が集まってくる人」でした。宮におられると、民衆が集まってきて自然に、神様の国について語られました。私たちクリスチャン、神様の人は、周りに人々が集まってくる人で無いといけません。それは、性格が暗いとか明るいとかでなくて、主イエスがその人の中にいるゆえの魅力なのです。また、主イエスの周りに集まってくるのは賛成者ばかりではありませんでした。また、反対者のみならず、罪人と呼ばれる人が集まりました。普通の宗教ならば、聖い人が集まるのみです。しかし、主イエスの周りには、宗教家たちはいつも反対者でした。何故なら、宗教をしている人には耐えれない罪人が集まっていたらからです。私たちの周りに集まる人はどういう人でしょうか?宗教的なクリスチャンのみが集まっていないでしょうか?ノンクリスチャンの人がみなが集まる魅力的なクリスチャンとなっているのでしょうか?それとも、宗教的な、つまり人間の義や自分の義で生きて、周りに人々が来れない様にしていないでしょうか。主イエスは、今日の聖書の言葉で「姦淫の現場で捕まった女性」を持って、イエスを訴えるために来た宗教家たちを相手にしませんでした。彼らの仲には、女性への愛やイエスへの愛や、何よりも神様との生きた関係が有りませんでした。それは、ただ自分の満足のために生きる宗教家の見たくない姿がありました。主イエスの愛と恵を思うならば、相手を裁くことも、訴えることも出来ません。何よりも、私が完全な義なる神様の前に訴えられて当然の人間だからです。私の家族や親族、周りの人々を裁かず、愛します。そして、宗教学者たちを「この中で罪の無い人が最初に石を投げなさい」と言われて、下を見て彼らに判断されるように任せた主イエス、唯一、罪への怒りを爆発させていいかたがそうされずに、逃げずに残された、いや残ったのでしょう、姦淫の女を「私もあなたを罪に定めない、いきなさい、罪を今から犯してはいけません」といわれたように、私もその愛を受けます。その愛と知恵で周りの人々に接し、判断します。
ラベル: ヨハネの福音書