故郷でも、家族の中でも偏見を除け!
ヨハネの福音書;43-54
主イエスは、故郷で尊ばれませんでした。それは、主イエスの生い立ちや育つ様を見ながら、彼らの願うメシア像(イスラエルを救う神様であり、人の子としてこられることを全く理解できなかった)でなかったために、救い主がま側にいたにも関わらず、かえって、自分の偏見のために受け入れることも出来ず、人生最大のチャンスを逃したのです。私たちもこういうことが無いでしょうか?幼いときから見て育った子供が伝道師になったり、牧師になったのを見て、未だに「だれだれちゃん」という自分が上に立って、年配者として、いつまでも神様の人として見れずに、神様に恵みを受け損なって損をする。そういうことはないでしょうか?損をするのは誰でしょうか?自分なのです。私の家族や親戚にも本当に難しい部分があります。神様の人として、神様がこの人に生きていることを示してください、と祈らされました。しかし、ガリラヤの人たちは主イエスを受け入れませでした。ただ、主イエスのエルサレム伝道での「しるし」と「不思議」を見た人のみが、受け入れたのです。主イエスは、がりや伝道に多くの公生涯を送られました。しかし、このヨハネの福音書には、多くのエルサレム伝道が記されています。今日のQT箇所で一つの疑問が浮かびました。こういう話の後で、何故カペナウムの役人の子供の癒しの記事が出てくるのであろうか?という順序についてです。ヨハネが強調したい神様のメッセージがあるに違いありません。今日の恵みのポイントは45,48.50節になります。それは、見ずに信じる「みことば」を信じて役人が歩んだことです。その結果、子供は癒されて、全家族が救われる事件が起こったのです。もしも、信仰にたって「主イエスのみ言葉の権威」を認め、従わなければ、この奇跡も、家族全員も救われることが無かったでしょう。しかし、ヨハネの福音書1;1「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった」といわれるロゴスされた主イエスは、みことばをもって、私たちの人生を創造され、新しくされます。今朝、私の家族に信仰を持って、御言葉の権威に従い、祝福されることを心より祈ります。神様にある愛と尊敬を人々が、リーダーにもてるように、まず私から愛し、尊敬し、真理に従います。
主イエスは、故郷で尊ばれませんでした。それは、主イエスの生い立ちや育つ様を見ながら、彼らの願うメシア像(イスラエルを救う神様であり、人の子としてこられることを全く理解できなかった)でなかったために、救い主がま側にいたにも関わらず、かえって、自分の偏見のために受け入れることも出来ず、人生最大のチャンスを逃したのです。私たちもこういうことが無いでしょうか?幼いときから見て育った子供が伝道師になったり、牧師になったのを見て、未だに「だれだれちゃん」という自分が上に立って、年配者として、いつまでも神様の人として見れずに、神様に恵みを受け損なって損をする。そういうことはないでしょうか?損をするのは誰でしょうか?自分なのです。私の家族や親戚にも本当に難しい部分があります。神様の人として、神様がこの人に生きていることを示してください、と祈らされました。しかし、ガリラヤの人たちは主イエスを受け入れませでした。ただ、主イエスのエルサレム伝道での「しるし」と「不思議」を見た人のみが、受け入れたのです。主イエスは、がりや伝道に多くの公生涯を送られました。しかし、このヨハネの福音書には、多くのエルサレム伝道が記されています。今日のQT箇所で一つの疑問が浮かびました。こういう話の後で、何故カペナウムの役人の子供の癒しの記事が出てくるのであろうか?という順序についてです。ヨハネが強調したい神様のメッセージがあるに違いありません。今日の恵みのポイントは45,48.50節になります。それは、見ずに信じる「みことば」を信じて役人が歩んだことです。その結果、子供は癒されて、全家族が救われる事件が起こったのです。もしも、信仰にたって「主イエスのみ言葉の権威」を認め、従わなければ、この奇跡も、家族全員も救われることが無かったでしょう。しかし、ヨハネの福音書1;1「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった」といわれるロゴスされた主イエスは、みことばをもって、私たちの人生を創造され、新しくされます。今朝、私の家族に信仰を持って、御言葉の権威に従い、祝福されることを心より祈ります。神様にある愛と尊敬を人々が、リーダーにもてるように、まず私から愛し、尊敬し、真理に従います。
ラベル: ヨハネの福音書
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