坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 1月 06, 2010

罪の告白は、神のわざである

ヨハネの福音書3;9-21
ニコデモは、主イエスの前に「老人が生まれ変わること」はできないといいました。そこでの、主イエスの応えは「人には出来ない」が「神によって全てのことができる」といわれました。そうです、罪人が悔い改めるのは、罪の自己防衛で恐れている人間が、罪の告白を出来るのは、光が当てられて、真理が示されても、悔い改めれるのは「私のために死んでくださったイエス・キリスト」のゆえなのです。まさに、ニコデモは人の目を恐れて、真理を求めつつも、真理が提示されることを恐れました。しかし、そこには神様の真理と恵みが、愛が溢れていたのです。ヨハネの福音書3;16には、ニコデモのために、私のために死んでくださった神様の愛と真理が溢れて、杯から溢れていたのです。そこには、地上でない天井での神様の真理と愛の秘密が語られたのです。証拠をあかしされたのです。それを受け入れる人には、神様の子供としての渇くことのない、イエス・キリストにあって満足する人生が用意されていたのです。今日、主イエスの弟子として「罪の告白」によって主イエス・キリストに満たされる、光の子供としての行動をもつ人生を歩みます。サタンや罪の攻撃に反応しない、神様のみ言葉によって宣言する人生を、私は私の家族は歩みます。アーメン!ハレルヤ。