坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 1月 25, 2010

天上の言葉を受け取る人

ヨハネの福音書6:60-71
今日は、命の言葉を聞いた人たちの2つの反応があります。そのうちの一つは「多くの弟子たちがイエスを離れていき、共に歩まなかった」ということです。群集でもなく、イエスとともに伝道し、仕えた人々が離れていったのです。それは、主イエスの体を食べ、血を飲むという言葉を肉的に、地上のこととして理解し、霊的な解釈、何よりも聖霊様によって悟ることが無かったのです。逆に、12弟子たちは「主よ、私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命のことばを持っておられます」と告白します。彼らの告白は、「主よ」でした。それは、彼らの人生の主人でした。神様でした。メシアでした。しかし、彼らが「神の聖者である」という言葉を聞くと、彼らが完全に理解できていなかったことが分かります。メシアという告白ではありません。残念なことは、完全に理解しきっては居なかったのです。しかし、主イエスは神様の人類救出作戦を弟子たちに見せてくれているのです。御言葉は、完全に理解できなくても、地上の理解の仕方では受け取ることも、従うことも出来ません。まして、キリスト教が見えない神様を信じるのであれば、霊的なこととして受け取ることが出来なかった弟子たちも残念です。また、その中には裏切る弟子が12弟子の中にさえもいたことは残念です。御言葉の一部の理解であっても、天上のこととして主イエスの救いを見ないといけません。天上の言葉を受け取る人として歩みます。

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