坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 1月 21, 2010

何を求めてイエスの前に来ますか?

ヨハネの福音書6;22-29
男性だけで5000人の給食の奇跡をされたイエスを捜し求めた群集たちは、イエスと弟子たちを捜し求めました。彼らには、まさかイエスが湖を渡る奇跡をなされるかただと思うことも無く、人間的にただ自分の必要を求めて、イエスの元へ来たのです。ですから、イエスが神様の子供であるとか、メシアであるかどうか?まして自分の罪の救い主であるか?は全く二の次か、どうでもいいことだったかもしれません。もしも、メシアであるイエスを捜し求めるなら「湖を渡る奇跡」をされても、おかしくないし、その主イエスを見てメシアであることを確信し、喜んだことでしょう。そして信じたことでしょう。しかし、彼らの関心は、目的は自分のおなかを満たす満足でした。魂の救いや永遠の命への渇望がありませんでした。神様の業を行う人生のためにすべきことと、すべきでないことがあります。それは、神様の言葉を聞くことです。日常の必要を満たすHOW TOでなく(それは必要ですが、魂の救いを得るなら必ず与えられます)神様の声を聞き信じることです。その永遠の命の上に魂の価値を於くべきことです。魂の救いのために、喜びを持って生きているのでしょうか?魂が救われた時に、喜んでいるのでしょうか?それとも、自分を満足させる日常の瞬間を満たすために、人を利用し、あまつさえ神様を利用しようとしているのでないでしょうか?また、そのような人に振り回されることを主イエスは拒否され、真理を語られました。それは、主イエスの愛です。本当のことを言うと人は傷つきます。しかし、大事なことは話さないといけません。主イエスの永遠の命を下さる愛で行動します。

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