坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 1月 28, 2010

真実を見つけさせない形だけの宗教生活

ヨハネの福音書7:25-36
現在の人の疑問の中に、イエス様を見せてくれ、神様を見せてくれ、そうしたら私たちは信じるのに、という話があります。果たしてそうでしょうか?本当にイエス様を見せてくれたら、信じるのに。確かにそのように思えるかもしれません。しかし、イエス時代の人々は「しるし」をみて、「キリストが来られても、これ以上多くのしるしを行えるだろうか」と多くの人々が信じたユダヤ人、しかし、しるしもイエスをみても、御言葉を信じないガリラヤの人たちがいました。逆に、サマリヤの人たちは自らイエスのみ言葉を聞いて信じました。ところが、一番イエス様に近いはずの宗教に熱心なパリサイ人たちは、イエスを拒み、彼を殺そうとしました。一番、聖書を読み、律法を守り、宗教生活をしている人が、一番イエスから遠い反応をしました。それは、主イエスの自分の宗教生活や自分の地位、人々からの尊敬を失い、自分の真の姿、神様と全然親しくない姿や心の現れでした。イエス・キリストの現れは、人の心の真の姿、価値を見出させます。群集でさえも、つまり人々の関心で動くような人でさえも、イエス・キリストの印を見て、信じたのに、パリサイ人は自分のプライド、自分の罪を捨てて素直になることが出来ずに、イエスの光の前に、拒否反応を示し、相手を罪につけることにしたのです、私たちのクリスチャン生活も、宗教生活に陥ることは無いでしょうか?それは、悔い改めの無い生活です。真実を拒否する生活であり、悔い改めは、神様の恵と愛があってこそ、自由に出来る、喜びのある、回復のあるものです。今朝、主イエスにある命の関係を持って生きます。

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