坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 11月 30, 2009

あなたの人生に神様を認めれるか?


第二歴代誌26;1-10
ウジヤ王が父アマツヤに代わって王となりました。そして、父からの良い影響力を受けて「神様を認めることを教えたザカリヤの生きている間」は、神様を求めたとあります。私たちの人生に、神様を認めている証があるのでしょうか?神様が生かされた証があるのでしょうか?神様によって生かされていることへの感謝の証があるのでしょうか?
また、霊的な指導者が居なくては神様とつながっていないようなことはないでしょうか?神様と特別な関係があるのでしょうか?神様とつながっているために、神様を認める証が無いことになっていないでしょうか?私の人生は、神様によって生かされ、時間をお金を両親を、環境を与えられたことを覚えているのでしょうか?私に与えられた家族や環境を感謝し、主の栄光のために生きます。

日曜日, 11月 29, 2009

滅びのサークルから抜け出せ!


第二歴代誌25;14-28
アマツヤは、属国であったエドムを討伐した後に高慢になって、神様を捨ててしまいます。自己中心とは神様を中心としないことでそれは高慢であり、逆に自己卑下でもあるのです。滅びのサークルは
①神様をまず人間である私たちが先に捨てます。神様が先に捨てることはありません。素晴らしい神様の愛ですよね。
②神様からの回復のために、メッセージが送られます。預言者を通してなどです。しかし、ここで人間は素直になって聞けないことが多いのです。素直になって物事を見れるなら何と幸いなことでしょう。
③逆に、人間は自分に痛い忠告をしてくれた人を恨み、殺そうとさえします。相手を悪人にします。
④神様に捨てられる人生は、一度だけ神様に用いられて、人々に捨てられて多くのものを失います。
今週の神様のメッセージは素直になりなさいでした。物事を素直に神様の目で見れる新に件そんな人になります。今日も、神様の前に悔い改める人生を歩みます。

土曜日, 11月 28, 2009

主はあなたの損や犠牲より遥かにすらばしいもの下さる


第二歴代誌25;1-13
アマツヤは、王になってから「主の目にかなうこと」を行いました。ただ、完全な心ではありませんでした。今朝、QTをしながら疑問に思ったことがありました。それは、①;神様は「行い」よりも「心」を見られる方です。②:行いだけでなくて、心を見られる方であること
そのどちらであろうか?という疑問です。行いは無いよりもあったほうがいい。心が多少足りなくてもあったほうがいい、という程度でも見てくださる方であろうか?という疑問です。
私の黙想は、①の心をやはり見られる方である、ということです。アマツヤはそれでも、律法を守り「復讐の復讐」をしませんでした。主の命令を守りました。神様にそれなりに従おうとしました。そして、軍事力を強めようとする中でユダの力だけ出なくて、北イスラエル王国の軍事力をお金を持って買い取ろうとしました。そこへ、神の人がイスラエルと共に戦争に行かないように伝える神様の声がありました。アマツヤはそこで「私の支払った100タラント」はどうなりますか?と言いました。神様の願われない方法で戦争をしようとする間違いを犯しながらも、この質問をするのは無礼であり、あきれた部分もあるかもしれませんが、こう神様は語ってくださいます「主はそれよりも多くのものを与えてくださいます」と。何と感動なはなしで無いでしょうか?果たして、私は神様のために捨てたことでもっと多くのものを得たことがあるでしょうか?罪を捨てたゆえに、神様に従い、神様に喜ばれることで、失ったものの100倍以上の、永遠のものを得たのでしょうか?永遠の自給や天国の預金通帳にどれほどの価値があるのか覚えたいと思います。神様のために、捨てるものや計算して得ようとしたものを捨てて、神様のそれ以上の恵みを受けていきます。

金曜日, 11月 27, 2009

自分を偶像とする人の最後は偶像を拝む人々から殺される


第二歴代誌24;15-27
南ユダ王国の王様であるヨアシュは、祭司エホヤダが亡くなった後は、神殿を立て上げた信仰は何処へやら、全くの偶像崇拝をするようになってしまいました。霊的な指導者、それだけでなくヨアシュの結婚まで準備した、霊的な父親である祭司エホヤダが亡くなった後は、全く方向性を失って、その信仰や人生までが倒れてしまったようです。エホヤダは信仰と人生の生き方がバランスが取れていた人生の幕引きをしました。それは、神様に人々に愛されれ、祝福された人生でした。
教訓は、神様への信仰がしっかりしていると、人生の祝福があること。
そして、生き方と信仰のバランスがとれること。その結果は、人々からも尊敬され、信頼されること
ヨアシュは、祭司エホヤダがいなくなってから、偶像礼拝をするようになりました。そして、神様を捨てて歩みました。そのために、神様は預言者を通して「主に立ち返らせよう、戒めました」が、耳を貸さなかったとあります。そこから学ぶ教訓は、
1:罪の自己防衛システムは、自分を正当化し、相手を逆恨みします。
2:自分の意見や考えや生き方を偶像化してしまいます。
自分は果たして、素直に物事を見ているのでしょうか?神様の前に悔い改め、人々の言葉を聞いているのでしょうか?
ヨアシュは、一度だけ神様に用いられて捨てられる人生を歩みました。それは、ヨアシュが神様を捨てたからです。そして、その最後はアモン人とモアブの人に殺されて死にました。それは、偶像を拝むヨアシュが偶像を信じる民に、殺されたのです。偶像を拝む人は偶像を拝む人に守ってもらえるのでなくて、その彼らから裏切られて死んだのです。無残な死では無いでしょうか。私は神様の前に素直に聞いているのでしょうか?神様の前に素直に物事を見ます。

木曜日, 11月 26, 2009

喜んで持ってくる税金がある


第二歴代誌24;1-14
この世の中に、税金を自ら持ってくる人がいるでしょうか?また、税金が溢れて余ることがあるのでしょうか。誰もが、少なく払いたいと思うのでないでしょうか。また、税金を払うときにもったいないという損の思いがしないでしょうか。また、献金するときももったいない、自分のものである、という思いがもしかして無いでしょうか?しかし、ここに喜びに溢れる税金、献金があります。それは、神殿を修理し、新しくするために、集めたヨアシュの献金を集める熱情でした。それに、イスラエルの人々は熱く喜んで応えました。今日、私に与えられた恵みは、主の働き人として聖く神様の宮を立てるのために、「献金」を集めることへの、ささげるの情熱と、神様の宮を立てることでした。今まで、献金をもらうことに難しさやためらい、そして恥ずかしさや、ためらいがありました。しかし、神様のために使えること、神様の宮を立てるために、献金の祝福を自ら味わい、ささげることを歩んでいきます。そして、ヨアシュのように神様の宮を立てるためにささげものをするムーブメントを持って仕えていきます。イスラエルの民にとっては、これは税金、義務でした。それは、私にとって信仰が所有権の移転であり、私の時間、私のお金から神様の時間とお金を預けられており、それを本当に神様のものと認めたときに、正しい使い方が出来ます。感謝が出てきます。神様の宮を立てる喜びを享受します。

水曜日, 11月 25, 2009

革命は礼拝が原動力である


第二歴代誌23;1-21
今日のQTの最初の節に「エホヤダは奮い立って」とあります。普通、南ユダ王国の改革をするのか?と思わされます。しかし、彼がしたのはイスラエルの神様を礼拝すること、祭司とレビ人を自分たちの職分、身分に回復させ、自分たちの人生、アイデンティを回復させることをしたのでした。偶像礼拝を廃止し、そこからユダ王国の回復が始まったのです。まさに、私のためにあるみ言葉であると思いました。神様のために生きる祭司として、レビ人としてそのアイデンティを回復し、礼拝をし、仕えることが人生の回復であり、神様の国の回復です。そして、罪の除去は回復のしるしです。罪が無いことは、平穏を与えてくださるものです。神様の礼拝を回復し、祭司として歩みます。主よ、どうぞ私の心に「奮い立たせる心をください」

火曜日, 11月 24, 2009

罪の除去は神様の愛だ!ときずいたのか?


第二歴代誌22;-1-12
神様の裁きは徹底的です。しかし、罪を除くことは、神様の裁きは私たちへの愛なのです。もしも、悪い罪が残っていたら一番困るのは、悪い影響を受けるのは私なのです。それは、アハブの家に裁きがくだり、そして徹底的に清められたのです。逆に、神様はダビデの家をほとんどアハズヤの母アタルヤによって滅ぼされるように思えたのが、残されたのです。ユダの王であるアハズヤは
①行くべきでないサマリヤ(北イスラエル王国の首都)
②付き合うべきでない人と親戚関係になる(アハブの子ヨラム)
③行うべきでない(悪事)をする
そのために、神様の国を治めるリーダーシップを失ったのです。神様と生きず、罪の中に歩むときに神様の影響力、リーダーシップを失います、大事な立場から離されます。罪を除かれるのは、神様の回復のスタートです。神様の罪の除去の前に素直に歩みます。

月曜日, 11月 23, 2009

後継者を立てる条件


第二歴代誌21;1-10
ヨシャパテ王の後継者選びには、世の中の基準としては問題は無いものでした。それは、
1:長男を選んだこと
2:政略結婚をした息子を選んだことでした。
しかし、神様の目には北イスラエル王のアハブの娘と結婚したとあります。それは、神様を愛する選択や決断に基づくものではありませんでした。それが、南ユダ王国の民たちに影響を与えることも考慮したのでしょうか?そのために、他の息子たちが殺されて、ユダ王国の人々が偶像礼拝に走り、そして国の中から背信者が出ることになりました。私たちの後継者、次世代、そしてリーダーを立てる基準、価値観はどこにあるのでしょうか?神様を第一として歩んで、決めて、行動しているのでしょうか?そこには、統一があります。一つなっています。神様のリーダーシップで生きていきます。

罪の影響力から悔い改めで抜け出せ


第二歴代誌21;11ー20
ヨラム王は、自分の兄弟たちを殺し、イスラエルの民たちを不品行、姦淫の罪を犯させ、その人生を迷わせました。その結果は、神様はエリヤを通して裁きと警告のメッセージを送られた。家族と財産を失わせ、大きな災害を受け、自分自身は内臓が出てくるという病気によって死ぬ、という裁きでした。普通、そのような裁きの警告を聞けば、罪の悔い改めをするのでないでしょうか?もしくは、恐れを持つのでないでしょうか?実際に、神様の裁きを受けるまで2年の時間が有りました。私の黙想したのは、神様の猶予の時間に「何故、悔い改めをしなかったのか?」それとも、神様の裁きを恐れなかったのか?時間を後回しにしたのか?のでしょうか?一番気をつけることは、「神様の猶予を逃してはいけない」ということです。自分の心の傷や、罪を回復することを後回しにしてはいけないのです。ヨラムは、人に愛されず、王として認められず、死にました。罪に生きる人は愛されず、王としてと認められず、罪の記録だけが残りました。逆に、神様の愛と義に生きる人は、人と神様に愛され、覚えられ、王だけでなくて、神様の子とされます。人に復讐する人は、神様からの裁きと復讐を受けます。神様の前に、悔い改めを持って回復の道を歩みます。

土曜日, 11月 21, 2009

誰のために満足しているのか?


第二歴代誌20:31-37
ヨシャパテの人生を振り返る記録があります。そこには、ヨシャパテ王が35歳と言う割と高い年齢で王位に着いたことと、父王であるアサ王の道を歩んだことです。それは、自分の人生を神様の目で喜ばれる人生で歩んだことです。人間の眼で喜ばれる人生でなくて、自分の眼で見た価値観の人生でもなくて、神様の目で見て喜ばれる人生を歩んだことです。また、果たして私は、大人としてロールモデルになる人生を歩んでいるのでしょうか?恥ずかしくない人生を歩んでいないのでしょうか?
本当に悔い改めさせられます。そして、心に残る部分が「高きところを除かなかったので、イスラエルの民は心が定まらなかった」という部分です。神様の前に、一部分の従順やある程度の従順、しないよりしたほうがいい従順でなくて、完全が要求されることが分かった気がしました。完全でなくては、心は定まらない、というこが感じられました。ヨシャパテは再び罪を犯しました。それは、北イスラエルのアハズヤ王と結び、自分の利益を得ようしたことでした。心を定めることが出来ず、完全でなかったからです。人は完全でありません。何度も過ちを犯します。だからこそ、間違いの多い子供に神様は最高の子供であるようにと完全を願われます。そんな力の無い子供だからこそ、最高の力を与えようとしてくれます。だからこそ、いつも心を定める必要があります。自分は何を気をつけるかチェックしてみました。
1:スキャンダルの話や噂話を聞いて、神様から心奪われるな!
2:否定的な考えや思いに時間を過ごさせるな!神様を黙想せよ。
3:自分の付き合うべき人は誰か?考えよ!間違った人や悪い影響を受ける人と付き合うな!
4:どういう仕事をすることについて
5:教会の礼拝に集中せよ
6:貪欲に気をつけよ。欲は必要ですが、自分のものや栄光に気をつけないといけません
7:何度もいつも、そのたびに悔い改めているのか?
イエス・キリストに従うことに満足していきます

金曜日, 11月 20, 2009

危機のときこそ、礼拝と喜びの人になれ!


第二歴代誌20;13-30
ヨシャパテと南ユダ王国の人々は、この危機に全員が集まり、家族も集い、主の前に立ちました。危機の時に、どれほど全員で、家族全てが集まって祈っているでしょうか?そして、主の霊がレビ人ャハジエルへ臨みました。そして、神様の言葉を語ります。「気落ちしてはいけない、恐れてはいけない」それは、人間の戦いでなくて、神様の戦いであることを宣言しました。そのことは非常に驚きでした。王でも、預言者でもなく、神様の用いられる人がいて、レビ人でした。そのような人を用いられて、神様のメッセージが語られました。それをヨシャパテと南ユダ王国の民は、信じ、神様の戦いへ出て行きました。そして、世にも不思議な戦いが始まりました。それは、聖なる飾り物をつけて「主に感謝せよ、その恵みはとこしえまで」という賛美をしながら、賛美チームを先頭に出て行くひじ上に不思議な戦いでした。私には、現実の戦いを神様の戦いとして賛美を持って、礼拝を持って、祈りを持って進んでいけるでしょうか?主の戦いを宣言しながら、進んでいけるのでしょうか?以前にこの賛美をしたことを思い出しました。そして、あなたは「しっかりとたっていなさい、主の戦いを見よ」じっとしていなさい、神様の見技を見よ、といわれます。人はじっとしているのが苦手です。じっとしていれません。もちろん、ぼーとしていなさいでなくては、神様の勝利を先取りして、賛美して礼拝しなさい、ということです。そこには、現実に縛られない喜びがあります。主の恵みをとこしえに賛美していきます。

木曜日, 11月 19, 2009

心に恐れがあれば、主を求めよ


第二歴代誌20:1-12
私たちは、恐れのあるときに何処に行っているのでしょうか?友人でしょうか?具体的な助けでしょうか?祈りをして神様に応えられた体験があるでしょうか。ヨシャパテは南ユダ王国の危機に、誰にも頼らずに、ひたすらに主を求めました。それだけでなくて、他の人々をユダの人々を祈りへ導きました。祈りの集会を開くことになったのです。それは、祈りへ導くリーダーの姿でした。私も自分自身が、祈りへ進みたいし、人々を祈りの場へ、神様の臨在の場へ導くリーダーになりたいと思いました。何故、祈り会が教会であるのでしょうか?神様の臨在、礼拝の場において、必ず祈りが応えられるという確信を持って祈る必要があります。神様の性質と神様のみ約束に握って祈る必要があります。神様の全能の力を賛美しながら、自分たちの問題と危機、そして自分の無能さ、神様を見ながら祈っていきます。

水曜日, 11月 18, 2009

神様と共に生きるのか?間違った付き合いをするのか?

第二歴代誌19;1-11
神様と共に生きるヨシャパテは、間違ってアハブ王と付き合い、北イスラエル王国と国民が共に戦うということになってしまいました。そのために、神様からのメッセージがありました。付き合うべきでない人と付き合い、悪人を助けることをしてしまいました。悪人を助けることは罪です。罪に同調し、罪の影響力を広め、受けてしまいます。神様の影響力を与えるどころか、失ってしまいます。神様の警告がありながらも、神様の憐れみによって再び、神様との関係を回復し、南ユダ王国の人々を主なる神様の元へ帰らせます。そして、裁きをするリーダーを祭司、レビ人、イスラエルの一族の中から選ぶということをします。そして、主を怖れ、完全な心で、不公平のなく、忠実に奉仕するように言います。まことのリーダーシップは神様と共に生きることから生まれます。付き合うべきでない、悪人でなくて、そして不完全な自分でなくて、まことの神様と共に生きることから真の裁き主、リーダーとなることが出来ます。神様と共に生きる人生を再び生きていきます。

火曜日, 11月 17, 2009

真実と愛を拒む人の特徴は恐れだ!

第二歴代誌18;28-34
南ユダ王国のヨシャパテ王と北イスラエルのアハブ王が共に出掛けました。しかし、アハブ王は「自分は変装して、ヨシャパテは変装していかないよう」にすすめます。何と、男らしくない態度でしょうか?それは、神様の語られたことに対してはっきりと応えることができないからです。そこには、恐れがあります。神様の回復や裁きへまっすぐに向かわずに拒否をする人には、実は自信がありません。神様の計画は必ずなります。アハブ王は変装しながらも、偶然に兵士が放った矢が刺さり、死んでしまいます。神様の裁きは必ずなります。しかし、神様のみ心を求めて生きる人には必ず神様の助けがあります。ヨシャパテはアハブ王と誤解されながらも、神様の守りにより助けられました。救われました。どのように生きたいでしょうか?恐れが会っても、神様の守りを確信する人生を歩みたいでしょうか?それとも、神様の真理と愛を拒み、神様の計画から逃げようとするのでしょうか。決して逃げられません。神様の守りの中で生きます。

月曜日, 11月 16, 2009

神様の声を聞くなら、従う準備が出来ているのか?それとも逆恨みをするのか?

第二歴代誌18;12-27
今日の聖書箇所は、400人の預言者が「戦いの勝利」を語ります。しかし、それは耳障りのいい言葉で、真実ではありません。真実とは、時に嫌多くの場合聞きたくない、難しい、自分のしたくないことが多いのです。そして、真実を言う人に怒りを落としたり、逆恨みをすることが多いのです。そこには、真実を言う預言者であるミカヤがただ一人いました。アハブ王は自分に嫌なことを言う人を遠ざけました。逆に、ヨシャパテは「神様のみ心」を求める人を探しました。そこで、ミカヤは恐ろしいことをいいました。それは、主なる神様自身が「惑わす霊」をお許しになり、預言者たちが真実を言わなかったことです。それは、神様の裁きが下るためでした。果たして、私の心は真実を聞いたら、神様の声を聞いたら、従う準備があるのでしょうか?神様は、ヨシャパテの従う心と神様を信頼する試みて、救いの手を伸べました。しかし、アハブ王はミカヤを恨み、偽預言者は、カレの頬を殴りました。昨日のQTの逆な適用です。自分にとって反対の言葉を言っても、真理をつかれても受け入れる準備が出来ているのでしょうか?かみさまの真理が語られたのは、愛です。回復のあるチャンスだったのです。真理を語るお付き合いをしているのでしょうか?真理を語られる友人を持っているのでしょうか?神様の声を聞くお付き合いをします。かみさまとそのように交わりをしていきます。

自分にアインデンティをごまかして人と付き合うな!

第二歴代誌18;1-11
人付き合いの中で、付き合いたくない人と付き合うことがあります。そういう人を通しても神様は私たちを訓練してくれることがあります。しかし、自分の利益のために世の中での価値観の中で、付き合うことはお勧めできないことがあります。今日の登場人物の中でヨシャパテはイスラエルの悪王であるアハブと「縁を結んだ」とあります、世の中には利益のあるお付き合いであったことでしょう。また、もともと同じ国民であるイスラエルのお付き合いは必要だったでしょう。また、お父さんのアサ王の時にはイスラエル王が通行を妨害されたために、非常な危機に陥ったことがあります。しかし、今日のみ言葉は「ラモテ・ギルアデ」を攻めようとしたとあります。それは「誘い込んで」というアハブの思いから来たものでした。神様にあるお付き合いを持たない限り、お付き合いするべきでない人と付き合うときに、問題が起こります。ヨシャパテはこう応えます「私はあなたと同じようなもの」そして「私の民は、あなたの民と同じようなもの」そうでしょうか?神様を信じる民と、約束をずっと握っている民は、違うゆえにイスラエルと南ユダ王国と別れているのです。私たちの信仰のゆえにアインデンティが違ってもそれは、たいした問題でなくて、必要なことなのです。私はクリスチャンゆえのアインデンティを維持しているのでしょうか?そのために世の人と違って不利益をこうむりそうになっても、神様の人として、アインデンティを持って「地の塩、世の光」となっているのでしょうか?
今日、感謝にもここでヨシャパテの素晴らしい信仰の姿勢が見られることがあります。それは、神様のみ心を求める人として「主の御心を求める預言者」を捜し求めて、その結果戦いましょう、ということなのです。私たちは世の中の真ん中にいても「神様のみ心を求める」ことをしているのでしょうか?その結果、出て行こうとしているのでしょうか?今日、主の御心を求めて礼拝に出て行きます。

土曜日, 11月 14, 2009

主イエスが共にいる道こそが、安全な人生へ導く

第二歴代誌17;10-19
今日のリビングライフの箇所の適用の場面がとても心に残りました。それは「あなたの生活が安定し、適切な助けの手を得ることが出来る道は何処にありますか?神があなたのために備えられた人は誰ですか?」すごく、心に響きました。自分の人生のまさに必要な、まさに語られるべき内容であると思ったからです。10節を黙想したときに、主が共にいる人は、心のうちにも外側の状況にも「平安」があり、安心があります。しかし、逆に主が共にいない民は、「恐れ」が臨みます。はたして、私の人生は、主が共にいることが言葉なのか?関係としてあるのか?思いました。ヨシャパテは次第に(STEP BY STEP)で祝福されました。しかも、並外れてです!また、強大なものになったのです。そこには、勇士である戦士が来ました。主の勇士とは、神様のみ心が何処にあるのか知り、献身する人である、というワン・デイル教授の注釈がありました。そうです!まさに、主と共にいる人には勇士がいます。神様の勇士と共に、適切な助けを受け、主にある御心の安定した道を歩みます。主の助けを受けていきます。主の勇士の助けを受けて、主の愛の王道を歩みます。

金曜日, 11月 13, 2009

信仰の家門は、ますます主を求める

第二歴代誌17:1-9
ユダ王国の王様の家族は、アビヤ、アサ、ヨシャパテと信仰の家系を続けました。それは、大きな祝福となりました。信仰の家族とはこうあるべきであるというモデルを見せてくれます。それは、私の信仰は、主イエスを信じれば信じるほどに、ますます主イエスを求めているのでしょうか?という質問につながります。彼らの信仰の家系は、途切れることがありませんでした。しかも、ますます主イエスを求めました。私の信仰の告白は、以前は熱かった出なくて「今はますます熱い信仰で、主イエスを愛しています」と言う告白になっているのでしょうか。次のSTEPは、私の中の偶像をのぞくことです。ここで、面白いことを感じました。それは、信仰の家系が王様に続いたにもかかわらず、相変わらず偶像礼拝があったという事です。決して完全になくなりきることが無くて、秘密に地価に隠れていた偶像礼拝があったのです。私たちは、日ごとに私の心の奥底に隠れる罪を断ち切らないといけません。そして、ヨシャパテ王がしたことは、つかさたち、祭司たち、レビ人たちを遣わして各地に聖書を教えたことです。私たちは、神様にあるきよめがあってこそ、次に聖書を伝えにいけます、聖書を学び続けようという謙遜や伝えたいという思いがあるのでしょうか?今日一日、主にある聖書を学んでいる人として使わされた場所での証しをします。

木曜日, 11月 12, 2009

八方ふさがりの時にどうするのか?

第二歴代誌16:1ー14
アサ王の第36年目に、イスラエルの王によって(よりによってイスラエルです)誰も出入りできないようにラマを築かれて、アサ王は困りました。そこで、アラムの王に助けを求めました。助けを求めることが悪いことでありません。しかし、神様に助けを求めることなく、主を求めることなく、主のアイデァによるのでなくて、アラムに助けを求めました。しかも、主の宮にある金や銀を出して、人に賄賂を送って苦境を脱出しようとしました。神様のものを、神様にささげたものを、わざわざ出して、しかも外国の異邦人の王の力に頼ろうとしたのです。今までの主の助けによる奇跡を見ながらも、八方ふさがりの状況だけを見て、神様の計画を見ようとしなかったのです。アサ王の最後は、病気になっても神様を求めなかったとあります。医者を求めたとあります。医者を求めるのが悪いのでなくて、神様と共に求めないことが悪いのです。果たして、私の計画やビジョンは神様を求める、神様の方法でしょうか?それとも、人間的にがんばっているのでしょうか?人間的な方法でなくて、神様を求めていきます。

水曜日, 11月 11, 2009

神様の言葉を聴くと奮い立つ

第二歴代誌15:8-9
今日のアサ王とイスラエルの民は、神様の声を聞くとクリスチャンはどうなるのか?モデルを見せてくれます。霊的なPOWER STATIONになるヒケツは神様の声を聞くことです。そして、神様との関係を最高に親しくしようと思います。それこそが、クリスチャンの最高の力の元です。
①神様の声を聞くと、主の祭壇を新しくしたように礼拝への恐れと、最高にささげたいという思いがおきます。礼拝のリバイバルが起こります。
②礼拝をささげるのは、経済的に豊かだからするのでありません。神様にささげたいという思いや心が先です。その結果、人々が集まってくるのです。祝福が来るのです。
③自らの喜びが溢れます。そのために、律法や強制でなくて「喜びから神様への誓い」をたてます。
④罪への徹底的なきよめがおこります。それは、アサ王にとって母である人が偶像礼拝をしているときに退けることまでしたのです。私たちには、まさかここまで罪を追い出さなくてもいいだろう?仕方が無いだろうという心が無いでしょうか?仕方が無い、と言う妥協やアンタチャブルな人や部分が無いでしょうか。
⑤アサ王の心は1生涯完璧であったとあります。それは、神様の愛です。行いで評価されるのでなくて、心から出てくる行動となるのです。
⑥神様とそのような関係を持つときに、LOVE 、TRUTH&FOREVERと心から賛美できる喜びが私の心を満たし、怖れや心配から解放して自由にしてくれます。神様の愛と真理が私の心を治めることを、支配することを賛美します。

火曜日, 11月 10, 2009

クリスチャンには秘密の力がある

第二歴代誌15;1-7
神様は、アザルヤを通して、アサ王とイスラエルの民に語りかえられました。それは、主と共にいることと、主を求めるなら(悪を行わないことです)、主はご自身を現してくださることです。クリスチャンには、ノンクリスチャンのこの世が知らない力の場所があります。この世の人が眠っているときに、早朝祈祷会に通い、苦労するように思います。日曜日に人々が好き勝手に、一見自由に過ごしている時間を一日中、礼拝や教会にて過ごすこことがあります。それは、不自由な時間でなくて、神様を現されるときこそ、私にとって最高の力を得る場所、時間だからです。そして、苦難の中にも「力を通すな、といわれます。あなたがたの働きは報いがある」と言います。秘密の力を最大限に生かしたいと思いませんか?その秘密の力を、神様の出会いの中で得て歩んで生きたいと思います。今日も、力を落とさずに歩んで生きます。

月曜日, 11月 09, 2009

平安な人生を生きるためには、偶像礼拝を捨てよ

第二歴代誌14:1-15
アビヤが無くなり、善の王であるアサ王が出てきます。彼の特徴は「父王と違い」主が良いと見られること、偶像礼拝を廃すること、ダビデの道に歩んだことです。その結果は、平安でした。私たちの人生は、神様以外のものを頼り、神とすることから平安を失います。イスラエルの民たちは、神様を礼拝しながらも、横で偶像礼拝を平行して行っていました。それを捨てたときに、イスラエルにはクリスチャンには、平安が臨みました。逆に、異邦人の民が攻めてきたときに、「主の恐れがのぞんだ」とあります。主だけを求める平安な人生を歩んでいきます。

日曜日, 11月 08, 2009

信仰で宣言したのに、前も後ろも敵だらけだ!

第二歴代誌13;13-22
今日の聖書箇所は、非常に興味深い内容です。それは、昨日までの聖書箇所は信仰を持って「私たちが神様と共にいる、礼拝している、あなた方は偶像礼拝をしているでないか!勝利は私たちのものだ」という勇敢な勝利宣言と共にスタートしたら、ャロベアムの軍隊に前も後ろも囲まれていた、という現実があります。しかも、数は彼らの倍でした。その時に私ならどうするでしょうか?神様、約束が違うでないですか?現実はこうですよ、あなたの御言葉の約束はどうなったのですか?文句をいいえ、怖れるでしょう、しかし、ユダの民たちは「神様に向かって叫んだ」とあります。私はそのような信仰があるのでしょうか。若いときには、わけなく出来た信仰が恐れがあります。いろんな状況や条件を見てしまいます。家族を考えます。失敗したくありません。しかし、一番の失敗は神様の声に従えないことです。神様の前に叫ぶことが出来ないことです。ャロベアムは神様に打たれました。それは、ソロモンの罪を裁くために用いられたャロベアムが「一度だけ神様に用いられた、ャロベアムが自ら神様を捨てたために、神様に捨てられる」人生を歩むことを見る気がします。どちらがいいでしょうか?何と私は勇気の無い、信仰のない人生を歩んでいるのか?と思いました。神様の前にそんな私も全てを投げ出して叫びます。主よ、助けてください、勝利をください。イスラエルの民は、40万で、80万の倍の敵を一人が千人を追う戦いを見せて勝利しました。神様のゆえに冒険と奇跡を体験する人生を歩みます。

土曜日, 11月 07, 2009

人生の正しいポイントをつかめ!

第二歴代誌13;1-12
レハブアムの息子であるアビヤは、イスラエルの勢力を取り戻そうとして戦争を仕掛けました。その時の彼の宣言とイスラエルへの演説は見事です。それは、ャロベアムが偶像礼拝をしていること、その影響力の中にいることと、逆に南ユダ王国は神様が共にいること、礼拝をささげていること、主の律法を守っていることを、勝利の原因に挙げます。果たして、このような戦争の宣言が出来るのでしょうか?アビヤは人生の勝利のポイント、成功のポイントが何かを知っていた人です。人生をセイコウしたいなら、神様が共にいないといけません。その大事な原則を知っているのでしょうか?信じているのでしょうか?たとえ、アビヤが信仰がなくても大事な原則を知っていました。私はそのような原則を知っているのでしょうか?昨日から続くメッセージは神様を常に求める人生です。その祝福と逆の悪の道を語ります。主のおられるところに、苦しく、大変でも共に行き、従います。

悪事を行うとは何か?

第二歴代誌12:9-16
悪事を働くとはどういうことでしょうか?人を殺したり、姦淫を行ったり、盗んだりでなくて、14節「心を定めて常に主を求める」ことをしないことです。それは、常にどのような場所でも、誰とあっても「主を求める」ことをするなら、自然に罪を犯すことは出来なくなります。また、部分的に生活のある部分だけで「主を求める」ことをするだけなら、それも悪事を働くことになります。レハブアムはエジプトの王様に神殿の全てを奪われたときに、青銅のたてを代わりに使いました。そして、レハブアムがへりくだったときに、神様は哀れんでくださいました。神様は人格的な神様です。ですから、私たちとも人格的な関係を望まれます。お仕事のようなパートタイムではありません。神様は私にとっていつも、変わらない友でしょうか。それならば、私も神様を常に求める人格的な関係で無いといけません。神様を今日の仕事場で求めていきます。

木曜日, 11月 05, 2009

主に仕えることと諸国に仕えること、どちらを選ぶのか?

第二歴代誌12:1-8
レアハブアムはわずか3年の後に、南ユダ王国が栄えて、国が強固になったのを見て、自分の力をもってなったと考え、高慢になり、祝福の基である神様を捨てて、神様の国の民として、クリスチャンとして生きるべき「主の律法」を捨ててしまいました。そのために、エジプトの国に首都であるエルサレムが、主の都が攻められることになりました。それは、神様の民であるイスラエルに、レハブアムに「主の仕えることか、諸外国に仕えるのか(偶像に仕える、この世に仕える)」を選ばせるためでした。それは、何と言う愛なのでしょうか?自らの主の都が攻められることを通しての、神様の愛です。諸外国に仕えるなら、決して「ゆるし」や「回復」などというチャンスはありません。自らを犠牲にしてまでの、回復へのメッセージは無く、そのような愛はありません。諸外国に仕えるよりも、愛の関係を持った私をまことに幸福にし、愛してくださる神様に仕えるほうが遥かにいいのに、人は高慢に自分を勘違いしてしまいます。主イエスに仕えたい、何よりも、主イエスを愛する関係を持って生きていきます。

水曜日, 11月 04, 2009

数や権威を求めるより、主を訪ね求めよ

第二歴代誌11:13-23
レハブアムは、3年の間「ダビデとソロモンの道」を歩んだとあります。それは、神様の下さった道であり、クリスチャンの生きるべき基準でした。すると、不思議なことにユダ王国を離れたイスラエルの人たちが「主をたずめもとめて、礼拝をするためにエルサレムに戻ってきました」それは、皮肉なことです。武力でイスラエルを得ようと、自分の力でイスラエルを得ようとしたときには、それを得ることは出来ませんでした。しかし、主を求めるときに、主なる神様は哀れみ深く望んでくださいます。逆に、ャロベアムは偶像礼拝を始めたためにイスラエルの王座を失うことになります。私は数や権威を頼りにしているのでしょうか?それとも、主を訪ねもとめ、主イエスの力を頼っているのでしょうか?私の人生は、苦しい状況になっても神様をたずねも止めているのでしょうか?レハブアムの人生は、後半部分から賢く事を行うことが出来ました。しかし、大事な部分で神様を求めることなく、そしてアブシャロムの娘を深く愛し、その息子を後継者にしようとしたとあります。そこには影があります、主をたずめもとめることに、矛盾がありました。彼の人生の価値観になっていないことを感じさせます。きょう主イエスをもとめる人生、礼拝を求めて生きます。

火曜日, 11月 03, 2009

従えない理由は神を知らず、自分を知らないからだ

第二歴代誌11:1-12
レハブアムは失ったイスラエルの王座を取り戻すために、軍隊を集めます。神様を離れた人は「権力」に頼ります。神様の国でなくて、自分の王国を作ろうとします。それはしても無駄なことです。私の人生の主人は、神様であることを忘れて歩むことの悲惨さがあります。今日は未だ感謝な事は、それでも神様はレハブアムを哀れみ、主の言葉を語ってくださり、そして戻ることが出来たのです。
レハブアムには、神様の声に従うことが出来ました。最初から聞けたらどれほど幸いなことでしょうか?しかし、最初には神様は知恵を持って選ぶように語られたのです。レハブアムの人格を尊重し、自らたずねもとめるように、まっていてくださったのです。人々の助言を求めた彼は、最終的には神様の知恵を求めるべきが、自分の決断をしてしまったのです。ここまでなくても、
誰でも、自分の夢や願いが閉ざされるときは、苦しいときがあります。しかし、従うときに祝福があり、幸福があります。霊的な法則があります。
①最初に人々に助言を求めることは間違いでありません。
②しかし、決断するときには神様に求め、応えに従う決心をしないといけません。神様の御心を求めて従う決心が出来ていないことが何と多いことでしょうか?
③神様に従わないときに、最終的に神様はそれ以上行くな!という警告をくださいます。
④しかし、それでも従わない時に無理やりされたりしません。
神様の前に、御心を聞いたときに「従えない」のは何故でしょうか?それは、自分が神様より賢く、えらいとしているからです。本当に神様に偉大さを見たときに「従える」のは、神様の素晴らしさを体験しているからです。私は何と高慢なのかと思いました。偉大な神様に悔い改め、従います。

月曜日, 11月 02, 2009

謙遜な姿勢が祝福の決断をさせる

第二歴代誌10;12-19
神様は、ソロモンの後半の人生の偶像礼拝、背信のために、イスラエル王国を分けることを決められていました。しかし、それにしても今日のレハベアムの決断は大きな痛みを追うものとなりました。それは、若者たちの助言に従い、長老たちの助言を退けて、苦しみ疲れているイスラエルの民に対して、「厳しい態度と空元気と見栄だけの脅迫で迫った」のです。はたして、そこに神様のリーダーシップはあったのでしょうか?レハベアムは神様の前に祈り、若い頃のソロモンのように知恵を求めたのでしょうか?聖書には、その姿勢は書かれていません。神様のリーダーが間違うときに、悲惨なのは民たちです。彼らは、おのおのの天幕に帰ったとあります。まるで志師記のようです。おのおのが正しいと思うことを行ったとあるようです。イスラエルの民たちは自分たちが王様を求めた結果、自分たちを支配するおうさまが出現し、それを排除するという結果をもたらしたのです。それにしても、レハベアムが神様を求める姿勢がもしもあれば、と思います。彼は逆に、イスラエルの民に拒絶されてからも、役務長官を遣わしてかえって怒りを買ったり、反対のことをしています。神様のリーダーシップは人を支配するのでなくて、神様の夢を解き放つドリームリリーサーなのです。人々への神様の夢を解き放つ人なのです。ドリームリリーサーになるためには、自分が王様であっても神様の国を立てる、主人は、王様は神様である必要があります。謙遜中身様の声を聞く姿勢が祝福の決断を自分にも、レハベアムにも、イスラエル全体にも出来たはずです。謙遜な姿勢を持って仕えていきます。

日曜日, 11月 01, 2009

まことの権威は優しくすることから来る

第二歴代誌10;1-11
今日のQTからは、ソロモンの死後にレハベアムとャロベアムの後継者問題と王国の分裂になる話です。ここで、ャロベアムはソロモンの顔を避けてエジプトにいたとあります。彼の反乱への思いと行動は、ソロモンの顔を避けることになります。私たちは、リーダーの顔を避けることは無いでしょうか?
また、そのような不便な関係をもたらしていないでしょうか?
そして、レハベアムの失敗は「若者の意見を聞き、長老たちの意見を聞けない」高慢にありました。これからの世代を築くのは若い世代です。しかし、彼らの意見だけでなくて、次の世代に受け継いでいくビジョンがあります。経験がある時に、大きな助けとなります。それを聞くことに出来ない自分の不足さを認めることが出来ないのは、勇気の無いことです。自分の足りなさを認め、進むことは一番勇気のあることです。若さは無謀さや冒険だけでなくて、勇気を持っていくはずです。自分の足りなさを認め、周りの人に優しくしていきます。