坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 11月 28, 2009

主はあなたの損や犠牲より遥かにすらばしいもの下さる


第二歴代誌25;1-13
アマツヤは、王になってから「主の目にかなうこと」を行いました。ただ、完全な心ではありませんでした。今朝、QTをしながら疑問に思ったことがありました。それは、①;神様は「行い」よりも「心」を見られる方です。②:行いだけでなくて、心を見られる方であること
そのどちらであろうか?という疑問です。行いは無いよりもあったほうがいい。心が多少足りなくてもあったほうがいい、という程度でも見てくださる方であろうか?という疑問です。
私の黙想は、①の心をやはり見られる方である、ということです。アマツヤはそれでも、律法を守り「復讐の復讐」をしませんでした。主の命令を守りました。神様にそれなりに従おうとしました。そして、軍事力を強めようとする中でユダの力だけ出なくて、北イスラエル王国の軍事力をお金を持って買い取ろうとしました。そこへ、神の人がイスラエルと共に戦争に行かないように伝える神様の声がありました。アマツヤはそこで「私の支払った100タラント」はどうなりますか?と言いました。神様の願われない方法で戦争をしようとする間違いを犯しながらも、この質問をするのは無礼であり、あきれた部分もあるかもしれませんが、こう神様は語ってくださいます「主はそれよりも多くのものを与えてくださいます」と。何と感動なはなしで無いでしょうか?果たして、私は神様のために捨てたことでもっと多くのものを得たことがあるでしょうか?罪を捨てたゆえに、神様に従い、神様に喜ばれることで、失ったものの100倍以上の、永遠のものを得たのでしょうか?永遠の自給や天国の預金通帳にどれほどの価値があるのか覚えたいと思います。神様のために、捨てるものや計算して得ようとしたものを捨てて、神様のそれ以上の恵みを受けていきます。