坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 5月 28, 2009

あなたは心を合わせた祈りの友を持つのか?

使徒行伝1;12-26
そこで,彼らはオリ ― ブ という 山から エルサレムに帰った.この山はエルサレムの近くにあって,安息日の道のりほどの距離であった.彼らは町にはいると,泊まっている屋上の間に上がった. この人々は,ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ ピリポとトマス , バルトロマイ と マタイ ,アルパヨの子ヤコブと熱心黨員シモンとヤコブの子ユダであった. この人たちは婦人たちやイエスの母マリヤ ,およびイエスの兄弟たちとともに,みな心を合わせ,祈りに專念していた. そのころ,百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが, ペテロはその 中に 立ってこう 言った「兄弟たち.イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて,聖
がダビデの口を通して預言された聖書のことばは,成就しなければならなかったのです. ユダは私たちの仲間として數えられており,この務めを受けていました.(ところがこの男は,不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが,まっさかさまに落ち,からだは眞二つに裂け,はらわたが全部飛び出してしまった. このことが,エルサレムの住民全部に知れて,その地所は彼らの國語でアケルダマ ,すなわち『血の地所 』と呼ばれるようになった.) 實は詩篇には,こう書いてあるのです.『彼の住まいは荒れ果てよ,そこには住む者がいなくなれ.』また、『その職は,ほかの人に取らせよ.』 ですから,主イエスが私たちといっしょに生活された間, すなわち ヨハネのバプテスマから始まって, 私たちを離れて天に上げられた日までの間, いつも 私たちと 行動をともにした者の中から, だれかひとりが,私たちとともにイエスの復活の證人とならなければなりません.」 そこで,彼らは,バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと,マッテヤとのふたりを立てた.そして,こう 祈った.「すべての人の心を知っておられる主よ. この務めと使徒職の地位を繼がせるために,このふたりのうちのどちらをお選びになるか,お示しください.ユダは自分のところへ行くために脫落して行きましたから.」 そしてふたりのためにくじを引くと,くじはマッテヤに當たったので,彼は十一人の使徒たちに加えられた.
ガリラヤから来た弟子たちは、安息日の距離である(非常に近い教理)オリーブ山からエルサレムに帰りました。そして、彼らのしたことは「心を合わせてする祈り」でした。そして、専念することでした。私たちは、このインスタントな現代に心を合わせて祈ることをしているでしょうか?その恵みを味わっているのでしょうか。昨日は、水曜日の礼拝でなくて水曜日の祈祷会をしている韓国人教会に出席しました。忙しく、水曜日の礼拝が早く終わる傾向にある中でじっくりと祈る教会でした。少し帰るのが遅くなりましたが、とても祝福された時間がありました。特にこのように、前大統領の無くなったときに国と民族のために祈ることの重要さを感じました。また何よりも、土曜日の早朝祈祷会で前大統領のために祈っていたことを思い出し、「祈りの同士」が本当に必要であること、教会が祈ることを教育する重要性を思い出しました。そして、ペテロが最初にしたことは「イスカリオテのユダ」の事件の後始末と使徒の補充でした.聖書は失敗に見えることや、罪に対して隠したりしません。かえってアフターケアをしっかりする姿勢があります。なあなあにされる神様ではありません。神様は必ず、始末をつけられる方です。ペテロは120人の前に立ち、イスカリオテのユダの事件が聖書に預言されている事件であることと、そのことのアフターケアをします。新たに、イエスがバプテスマを受けた時から十字架と復活に全てに同行した人から弟子を選ぶことをします。この箇所は、神学的に議論がされる箇所であります。しかし、私は神様の導きと御心を求めたペテロたちの姿勢が神様の導きであることを信じます。ペテロたちは、聖霊様が下るまで、祈りに専念することと、弟子の補充問い言う大事な働きをして待ちました。時々、こういう誤解があります。祈るだけで何か行動するのは不信仰なような、気がします。また、逆に祈らずに自分の力だけを頼って行動することがあります、どちらも両極端です。100%祈って、100%与えられた時間と知恵と心と体を使って働く必要があります。今日の一日を祈って、100%行動もしていきます。

全世界で私はクリスチャンと叫べ(イエスの証人になるとこと)

使徒行伝1;1-11
テオピロよ.私は前の書で,イエスが行ない始め,敎え始められたすべてのことについて書き, お選びになった使徒たちに聖によって命じてから,天に上げられた日のことにまで及びました. イエスは苦しみを受けた後,四十日の間,彼らに現われて,神の國のことを 語り, 數多くの確かな證據をもって, ご自分が生きていることを 使徒たちに 示された. 彼らといっしょにいるとき, イエス は 彼らにこう 命じられた. 「エルサレムを離れないで,わたしから聞いた父の約束を待ちなさい.ヨハネは水でバプテスマ を 授けたが, もう 間もなく,あなたがたは聖のバプテスマを受けるからです. 」 そこで彼らは,いっしょに集まったとき, イエス にこう 尋ねた. 「主よ.今こそ,イスラエルのために國を再興してくださるのですか.」 イエスは言われた.「いつとか,どんなときとかいうことは, あなたがたは 知らなくてもよいのです.それは,父がご自分の權威をもってお定めになっています. しかし,聖があなたがたの 上に 臨まれるとき, あなたがたは力を受けます.そして,エルサレム ,ユダヤ と サマリヤ の 全土, および 地の 果てにまで,わたしの證人となります.」 こう言ってから,イエスは彼らが見ている間に上げられ,雲に包まれて,見えなくなられた.
イエスが上って行かれるとき,弟子たちは天を見つめていた.すると見よ,白い衣を着た人がふたり彼らのそばに立っていた. そして,こう言った「ガリラヤの人たち.なぜ天を見上げて 立っているのですか. あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有樣で,またおいでになります.」

使徒行伝は、ルカの福音書に続いてルカが「テオピロ」に向けて書いた内容から始まります。ただし、ルカの福音書と違い「呼称」がありません。それは、福音書を書いたときにはテオピロはクリスチャンでなく「イエス・キリスト」の福音を初めから聞く人でした。しかし、使徒行伝ではテオピロと呼ばれ、クリスチャンとなったことが推測されます。そして、使徒行伝の内容は「イエス・キリストの昇天」と「約束の聖霊をエルサレムで待つこと」の内容のQTが今月は最初に来ています。何故、私たちには聖霊様が必要なのでしょう。すぐに伝道してはいけないかったのでしょうか。
①弟子たちは「イスラエルの再建はいつですか?」とイエスに質問します。弟子たちは復活のイエスを見ても未だに「神様の国」への理解が出来ていませんでした。それは、御言葉を未だに理解できずに、霊的な目が開かれていない状態を示します。聖霊様によらないと御言葉を理解できません、自分勝手な解釈になります。聖霊様を下さるのは御言葉を理解するためです
②私たちを捨てて孤児とはしない、と言われた神様は私たちと共に住まわれる、と言われました。聖霊様は人格的な方です。決して、何かのエネルギーのようなものでなく、私たちが賜物を持って誇るために利用するものでありません。共に住まわれる神様です。聖霊様によって神様のとなる人生が始まります。私たちの人格をイエスに似せてくださる聖霊様です。
③力を受けると言われました。しかし、未だに弟子たちは「神様の国」を「イスラエルの再建」という狭い範囲に閉じ込めたり、全世界に出て行く「イエスの証人」ということを受け止めていませんでした。イエスの証人として全世界に出て行くことをわかっていませんでした。イエスの証人とするために聖霊様は下さりました。イエスに従うためにです。
④ですから、イエスが昇天しても「天を見上げ」ていたのです。ここで御使いが言うのは「ガリラヤの人たち」という言葉です。イエスはエルサレムで祈って待ちなさい、と言われました。私たちは聖書を平面的に読みがちですが、立体的に読むなら「ガリラヤからエルサレムへの移動が数日は架かること」を思いつきます。弟子たちはイエスの昇天からもう一度、十字架にかけられたエルサレムに行くのです。数日前(40日ほど)までは恐れて家の外に出れなかった弟子たちです。聖霊様が下さるとき弟子たちの弱さは取り去れました。人格が変わったのです。イエスが十字架にかかるときに逃げた弟子が、イエスが目に見えない使徒行伝では力強くあかしし、牢獄に入り、殉教していきます。イエスの生きた時代よりも、もっと多くの人が救われ教会が出来て行きました。全世界に出て行く弟子ととなりました。
聖霊様を受けるとは、自分の力でなくて、自分の命でなくて、自分の願いどおりでなくて、神様の使命に生きる喜びを受けることです。それは、自分の力では出来ません。何故なら、自分のことさえも自分で変えることが出来ない弱い私たちだからです。しかし、聖霊様を受けるときに「神様の国の支配」が私の心の中で始まります。聖霊様を受けることは、全世界で自分がどんな場所でも、どんな人の前でもクリスチャンとして、主イエスが私の人生の主人であり、王である喜びの人生を証しすることです。全世界に出て行く私の家庭、私の仕える教会になるように奉仕し、使えていきます。世界に御言葉を奉仕する弟子の集まりの教会を建て上げていきます。

水曜日, 5月 27, 2009

神様の家系図には、神様の前と愛の計画が見る

ルツ4;13-22
こうしてボアズはルツをめとり,彼女は彼の妻となった. 彼が彼女のところにはいったとき,主は彼女をみごもらせたので,彼女はひとりの男の子を産んだ. 女たちはナオミに言った.「イスラエルで,その名が傳えられるよう,きょう,買い戾す者をあなたに與えて,あなたの跡を絶やさなかった 主が, ほめたたえられますように. その子は,あなたを元氣づけ,あなたの 老後をみとるでしょう. あなたを愛し,七人の息子にもまさるあなたの嫁が,その子を産んだのですから.」 ナオミはその子をとり,胸に抱いて養い育てた. 近所の女たちは, 「ナオミ に 男の 子が 生まれた.」と 言って, その子に名をつけた. 彼女たちは,その名をオベデ と 呼んだ. オベデはダビデの父エッサイの父である. ペレツの家系は次のとおりである.ペレツの子はヘツロン ,ヘツロンの子はラム ,ラムの子は アミナダブ , アミナダブの子はナフション,ナフションの子はサルモン ,サルモンの子はボアズ ,ボアズの子はオベデ,オベデの子はエッサイ 、エッサイの子はダビデ である.

私たちが聖書を読むときに、一番読みにくい箇所がどこでしょうか?それは、家系図で無いでしょうか。しかし、家系図を読むときに驚くべき神様の計画が画されていることを知るべきです。
①神様の家系図が出てくるときには、歴史的な事実であることを示し、神様の計画は歴史の中でなされることを知ることが出来ます。決して童話でないのです。歴史の中に力強くなされる現実の神様です。私の現実に介入される方なのです。
② 神様の家系図には正直に話をしています。それは異邦人のルツがいることを示すのです。
③家系図が出てくるときには、次に登場する人を示すことがあります。士師記の後には、サムエル記の主人公であるダビデが出てきます。そこに関係するのがルツなのです。非常に面白い話で無いでしょうか。霊的な暗黒時代の士師記に、異邦人のルツを通して、ボアズの家系に祝福を与えます。
ルツも、モアブで結婚したときに子供を得たのでなく、ボアズとの結婚を通して子供を得ています。KEYは「主が彼女を身ごもらせたので」です。私たちの人生は、神様の計画のうちにあります。っそれは、神様の善なる思いと愛のうちにあります。それを認めているのでしょうか。それを聞こうと求めているのでしょうか。それに、完全な神様の計画が一つ一つあるのを信じているでしょうか。今は苦しいときかもしれません、しかし、その中で神様の計画を信じて歩んでいるのでしょうか。それとも、不平や不満を持っているのでしょうか。KEYは神様の時、神様の方法、神様の御心にあるのです。それを信じるときに、苦しい私の人生は、賛美と感謝に変わるのです。ルツも、ナオミも苦しいモアブでの人生を生きてこそ、主人や息子たちを全てを失って帰ってきてこそ、もっと大きな神様の計画がありました。もちろん、その当時は決して喜ばしくは思えなかったことでしょう。しかし、人間の想像を越える神様の計画は苦しみを超えてこそありました。私は、私たちの家族は、神様の計画を求めて、信じ、期待しているのでしょうか。今日の賛美も、人間の想像を超える祝福がまだ待っていたのです。賛美といけにえを、今日主イエスの前にささげていきます。

火曜日, 5月 26, 2009

与え、愛する人は祝福されるが、自分を守る人は外に出る

ルツ4;1-12
一方,ボアズは門のところへ上って行って,そこにすわった.すると,ちょうど,ボアズが言ったあの買い戾しの權利のある親類の人が通りかかった. ボアズは、彼にことばをかけた.「ああ,もしもし,こちらに立ち寄って,おすわりになってください. 」彼は立ち寄ってすわった.それから,ボアズは町の長老十人を招いて,「ここにおすわりください. 」と言ったので, 彼らもすわった。そこで,ボアズは,その買い戾しの權利のある親類の人に言った.「モアブの野から帰って來たナオミは, 私たちの 身內の エリメレクの畑を賣ることにしています. 私はそれをあなたの耳に入れ, ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で,それを買いなさいと,言おうと思ったのです.もし, あなたがそれを買い戾すつもりなら,それを買い戾してください.しかし,もしそれを買い戾さないのなら,私にそう言って知らせてください. あなたをさしおいて,それを買い戾す人はいないのです.私はあなたの次なのですから」すると彼は言った.「私が買い戾しましょう.」 そこで,ボアズは言った. 「あなたがナオミの手からその畑を買うときには,死んだ者の名をその相續地に起こすために,死んだ者の妻であった モアブの女ルツをも 買わなければなりません.」その買い戾しの權利のある親類の人は言った. 「私には 自分のために, その 土地を 買い 戾すことはできません. 私自身の 相續地をそこなうことになるといけませんから. あなたが私に代わって買い戾してください. 私は 買い 戾すことができませんから. 」 昔,イスラエルでは買い戾しや權利の讓渡をする場合,すべての取り引きを有效にするために, 一方が 自分のはきものを脫いで,それを相手に渡す習慣があった.これがイスラエルにおける證明の方法であった. それで,この買い戾しの權利のある親類の人はボアズ に, 「あなたがお買いなさい. 」と言って,自分のはきものを脫いだ. そこでボアズは,長老たちとすべての民に言った.「あなたがたは,きょう,私がナオミ の手から,エリメレクのすべてのもの,それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの證人です. さらに,死んだ者の名をその相續地に起こすために,私はマフロンの妻であった モアブの女ルツ を 買って, 私の 妻としました. 死んだ者の名を,その身內の者たちの間から, また,その町の門から絶えさせないためです.きょう,あなたがたはその證人です.」 すると,門にいた人々長老たちはみな言った「私たちは證人です. どうか,主が,あなたの家にはいる女をイスラエルの家を建てた ラケルとレアのふたりのようにされますように. あなたは エフラテで力ある働きをし, ベツレヘムで名をあげなさい. また, 主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって,あなたの家が,タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように. 」

恵みを受けるとは何でしょうか?一般的にクリスチャンで無い人がこの言葉を使う時には「自分の力じゃなくて天からの、もしくは運命的な」特別なプレゼントという思いがあるのでないでしょうか。神様からの恵みを受けたのは、自分の努力でも力でもなくて、神様からのプレゼントです。その恵みを受けた人の人生はどのようになるのでしょうか。否定的な側面から言うと、それは、守りに入る人生で無いと言うことです。かえって、与えるオープンな愛を持った人生になります。恵みを施すにふさわしいから注ぐのでなくて、主イエス・キリストがそうなされたように罪を犯して裁いて当然な人へ施す愛です。その人を赦すのみでなくて、回復します。その人が祝福の名前になるようにします。ボアズはまさにそのような人でした。ボアズは買戻しの権利のある親戚への礼儀を欠くことなく、「買戻しの権利とルツを妻として責任を果たすこと」を伝えます。親戚は、自分の子孫への分け前が減ることを考え、断ります。世間一般的にこれは普通のことかもしれません。しかし、恵みを受けた人は愛します。自分のものを与えることが祝福になり、愛して、注ぐことが、祝福になって帰ってくることであるからです。今週の礼拝の挨拶で忘れられない言葉があります。「毎週してもあきないのが祝福の挨拶です、祝福が自分に返ってくることを知っていますよね」というメントでした。ボアズはまさにそうしたのです、彼のささげる愛は、長老たちの祝福となりました。その祝福は、人間の予想を超えてダビデという王の家系、そしてメシアの家系となって行きます。韓国では前大統領が自殺する事件が起こりました。まさに、現政権を持った人から次の政権を持った人の復讐のシステムを見るようなときにこんな事件が起こりました。復讐は復讐を生むんだなと思いました。神様の恵みのシステムが祝福を生み、責任を持って愛する人は祝福されることを信じます。自分を守る人は祝福の主人公にはなれずに、神様の恵みを体験することが出来ないのです。恵みのシステムの中で生きます。

月曜日, 5月 25, 2009

世界の待っている男

ルツ3:10-18
すると,ボアズは言った.「娘さん.主があなたを 祝福されるように. あなたのあとからの 眞實は, 先の 眞實にまさっています. あなたは貧しい者でも,富む者でも,若い男たちのあとを追わなかったからです. さあ,娘さん. 恐れてはいけません. あなたの 望むことはみな,してあげましょう. この 町の人々はみな, あなたがしっかりした 女であることを 知っているからです. ところで, 確かに私は買い戾しの權利のある親類です. しかし, 私よりももっと近い買い戾しの 權利のある 親類がおります.今晩はここで過ごしなさい.朝になって,もしその人があなたに親類の役目を果たすなら, けっこうです.その人に親類の役目を果たさせなさい. しかし,もしその人があなたに親類の役目を 果たすことを 喜ばないなら,私があなたを買い戾します.主は生きておられる. とにかく, 朝までおやすみなさい.」 こうして,彼女は朝まで彼の足のところに寢たが,だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった.彼は「打ち場にこの女の來たことが知られてはならない」と思ったので, 「あなたの 着ている 外套を 持って來て, それをしっかりつかんでいなさい. 」と 言い, 彼女がそれをしっかりつかむうちに, 大麥六杯を量って,それを彼女に負わせた.こうして彼は町へ行った.彼女がしゅうとめのところに 行くと, しゅうとめは尋ねた.「娘よ.どうでしたか.」 ルツは、その人が自分にしたことをみな,しゅうとめに告げて, 言った「あなたのしゅうとめのところに 素手で帰ってはならないと言って, あの 方は, この 大麥六杯を私に下さいました. 」 しゅうとめは言った「娘よ.このことがどうおさまるかわかるまで 待っていなさい.あの方は,きょう,そのことを決めてしまわなければ,落ち着かないでしょうから. 」
今日のQT箇所は、昨日の夜にボアズを訪れたことの結末です。ボアズの対応は非常に真摯で、責任感のある態度です。まず、ルツが自分のところに来たことの基礎に、「若いものの後を追わなかった」と言います。それは、この世の求める若い人や、お金や状況を求めたのでない、ことを言います。また、自分の願望でなくてナオミからの提案に従ったことを知っています。結婚への価値観が違うことが「先の真実よりも後の真実に勝る」ということからが分かります。若い人が良い悪いのでなくて、神様にある価値観を持って結婚したいのか?ということを示します。そして、ボアズはルツを「町の人々はみなあなたがしっかりした女性であることを知っている」と言います。はたして、私は
Q;あなたがしっかりしている人である、と知っているのでしょうか。クリスチャンやノンクリスチャンを関係無しにです。そうでないなら、何が不足なのでしょうか?何が神様が期待されているのでしょうか?私たちへのチャレンジです。またボアズは、自分が買い戻しの責任を果たすことを願いながらも、実際問題として「私よりも買戻しの権利が強い親類がいる」ことを言います。そして、自分が「自分の元のやってきたどこにも行くことのできない女性へ」責任を果たすことを願って、行動することを決意し、伝えます。ナオミやルツはどんなに感謝であり、喜びを持ちながらも、待つ時間が落ち着かないことだったのでしょうか。今日のQTでの恵みは、「愛は責任をもってすぐに行動する」というボアズの姿勢、自分を覆ってくださいと言う決意をした女性への責任ある態度でした。このような男性はどれほど頼りがいのある人でしょうか。世界はこのような男を待っています、そのボアズからダビデが、子孫として主イエスがメシアとして来てくださいました。人々に期待される、待たれる責任のある男になって行きます。

日曜日, 5月 24, 2009

あなたの身の落ち着くところが必要です。


ルツ3;1-9
しゅうとめナオミ は彼女に言った.「娘よ.あなたがしあわせになるために,身の落ち着く所を私が搜してあげなければならないのではないでしょうか. ところで,あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは,私たちの親戚ではありませんか.ちょうど今夜,あの方は打ち場で大麥をふるい 分けようとしています.あなたはからだを洗って,油を塗り,晴れ着をまとい,打ち場に下って行きなさい.しかし,あの方の食事が終わるまで,氣づかれないようにしなさい.あの方が寢るとき,その寢る所を見屆けてからはいって 行き,その足のところをまくって,そこに寢なさい.あの方はあなたのすべきことを 敎えてくれましょう.」 ルツはしゅうとめに言った「私におっしゃることはみないたします.」 こうして,彼女は打ち場に下って 行って, しゅうとめが命じたすべてのことをした. ボアズは飮み食いして、氣持ちがよくなると、積み重ねてある麥の端に行って寢た.それで, 彼女はこっそり行って,ボアズの足のところをまくって,そこに寢た.夜中になって,その人はびっくりして起き直った.なんと,ひとりの女が,自分の足のところに 寢ているではないか. 彼は言った「あなたはだれか」彼女は答えた「私はあなたのはしためルツです.あなたのおおいをげて,このはしためをおおってください.あなたは買い戾しの權利のある親類ですから.」
ルツの報告に、ナオミはこのように答えます。それは、あなたがしあわせになるために私が身の落ち着くところを探す、という言葉でした。それは、どこでしょうか?また、私たちにとって落ち着くところは何所でしょうか。緊張しない場所、経済的な必要、友人がいる、また何よりも愛する人がいる場所でないでしょうか。それは、神様の共におられるところです。それは全能者なる方がおられる、安心と愛を受ける喜びがあります。わたしを導かれる方がいるために生きる勇気が溢れていきます。この聖書箇所は、「結婚」について多くの部分を語ってくれています。それは、ボアズと言う人と結婚の準備をしようとした時に、まず「男性が(霊的、人格的、経済的、社会的)準備の出来ている状態であった、」ということです。何故、男性が家族のリーダーシップとして神様が立てられたのか?知ることが出来る霊的な法則であります。男性が立てられていないと女性が「生き生きと美しく」生きれません。逆に、男性は愛されて勇気を得ます。そして、今日の聖書箇所で驚くべきことはルツの従順です。ボアズの所に夜行くようにナオミに押されて彼女は「言われたことはそのとおりにします」というのです。いくらやもめとして、夜に綺麗にしてたずねていくことは考えることがあるでしょう。私には出来ないと思います。彼女の従順はどこから来たのでしょうか?それは、ナオミへの愛と信頼です。自分の命をささげても大丈夫、惜しくないと思える愛なのです。しかし、それにしても命をかけての行動です。そこに、大事なポイントがあります。それはボアズが「買戻しの権利がある親戚」であることなのです。タダ単にお金が必要で、神様と関係の無い結婚でなくて、神様の下さった律法によって守られる導きをナオミは感じたの違いありません。また、ルツへの願いと要求が決して強要でなかったことを覚えます。私たちは何か人に良い提案をするときに、強要をしていないでしょうか。私の意見が通らないことに傷ついたり、相手を恨んだりしていないでしょうか。神様の願いなら必ずなります。そのために必要なことは、私たちの謙遜と愛と、相手への神様の御心がなることを祈る愛です。また、願い求める時に相手の境遇や立場を考え、平和を保つ必要があります。ルツとナオミ、そしてボアズを通したなされた神様の願いがなされる人になりますように祈ります。

土曜日, 5月 23, 2009

特別な待遇を受けたら、あなたはどう生きるのか?

ルツ2;14-23
食事のとき ボアズは彼女に言った. 「ここに 來て,このパンを食べ,あなたのパン切れを酢に浸しなさい. 」彼女が刈る者たちのそばにすわったので,彼は ·り 麥を彼女に取ってやった.彼女はそれを食べ,十分食べて,余りを殘しておいた. 彼女が落ち穗を拾い集めようとして立ち上がると,ボアズは若者たちに命じて言った「あの女には束の間でも穗を拾い集めさせなさい.あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない.それだけでなく,あの女のために,束からわざと穗を拔き落としておいて,拾い集めさせなさい.あの女をしかってはいけない.」 こうして 彼女は,夕方まで畑で落ち穗を拾い集めた.拾ったのを打つと大麥が一エパ ほどあった.彼女はそれを持って町に行き, しゅうとめにその拾い集めたのを見せ,また,先に十分食べてから殘しておいたのを取り出して,彼女に與えた. しゅうとめは彼女に言った.「きょう どこで落ち穗を拾い集めたのですか. どこで働いたのですか.あなたに目を留めてくださった 方に 祝福がありますように. 」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ,「きょう,私はボアズ という名の人の所で働きました.」と言った. ナオミは嫁に言った.「生きている者にも,死んだ者にも,御惠みを惜しまれない主が,その方を祝福されますように. 」それから,ナオミは彼女に言った「その方は私たちの近親者で, しかも買い戾しの權利のある私たちの親類のひとりです.」 モアブの女ルツは言った「その方はまた『私のところの刈り入れが全部終わるまで,私の若者たちのそばを離れてはいけない.』と 私におっしゃいました.」 ナオミは嫁のルツに言った.「娘よ.あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは, けっこうなことです.ほかの畑でいじめられなくても 濟みます.」 それで,彼女はボアズのところの若い女たちのそばを 離れないで, 大麥の刈り入れと小麥の刈り入れの終わるまで,落ち穗を拾い集めた.こうして,彼女はしゅうとめと暮らした.
今日のQT箇所は、昨日に続いて「ボアズがルツに特別によくしてあげること」内容です。はたして、ルツにとってどれほど大きな助けだったのでしょうか。生活の助け、そして外国人として暮らすときに「いじめ」に出会うかもしれない状態であったのに、それを一切守り、特別な祝福を与えました。何故、ボアズはそうしたのでしょうか。それは、神様からの特別待遇を受けたからです。その恵みを既得権を自分のためにでなく、神様は自分にそうされたように、恵みを他の人々に分かち合ったのです。果たして、私たちは神様の特別扱いの恵みを十分に享受したのでしょうか?それとも、不平や不満だらけなのでしょうか。味わっても、それを他の人に分かち合わない人生を歩んでいるのでしょうか。ルツはもらった食事をわざと残します。ナオミに与えるためであり、今日受けた恵みを分かち合います。それは、ボアズが良くしてくれたことを話すことであり、またその落ち穂の収穫を報告しています。私たちには、恵みを受けたときに透明に報告し、分かち合う友を家族を持っているのでしょうか。ルツたち家族を買い戻す権利の持つボアズであることがナオミを通して分かります。そして、ナオミの告白が痛みから「マラ」から、「生きているものにも、死んでいるものにも、恵みを惜しまれない方という賛美へ変わって行きます。買戻しの権利のある方それは、「私たちを罪の人生から十字架と言う命の代価を持って買い取ってくださった主イエス・キリスト」です。私たちはその方の買戻しを受けたでしょうか。その買戻しの恵みを分かち合っているのでしょうか。惜しんでいないでしょうか。落ち穂を拾い集めることさえも嫌がる人もいるかもしれません。外国人に親切にしていることがあるでしょうか。そのように分かち合う人はさらに祝福されます。そのような神様の下さった恵みのリーダーシップを持つ人になっているのでしょうか。そのように人々があなたと共にいたい、働きたい、というリーダーになっているのでしょうか。特別待遇をしてくださった方に賛美と感謝と期待を持ちます。その恵みを分かち合っていきます。

金曜日, 5月 22, 2009

自分のところに来た人を翼のようの守り、祝福せよ

ルツ2;1-13
ナオミには夫の親戚で, エリメレクの一族に屬するひとりの有力者がいた.その人の名は ボアズであった.モアブの女ルツはナオミに言った.「どうぞ,畑に行かせてください. 私に 親切にしてくださる方のあとについて落ち穗を拾い集めたいのです 」すると,ナオミは彼女に「娘よ.行っておいで.」と言った.ルツは出かけて行って,刈る人たちのあとについて,畑で 落ち穗を拾い集めたが,それは,はからずもエリメレク の一族に屬するボアズの畑のうちであった. ちょうどその時,ボアズはベツレヘムからやって來て,刈る者たちに言った.「主があなたがたとともにおられますように.」彼らは「主があなたを
祝福されますように.」と答えた. ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った. 「これはだれの 娘か.」 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った.「あれは,ナオミ といっしょにモアブの野から歸って來たモアブの娘です. 彼女は,『どうぞ,刈る人たちのあとについて, 束の間で落ち穗を拾い集めさせてください.』と言い, ここに來て,朝から今まで家で休みもせず,ずっと立ち働いています. 」 ボアズはルツ に 言った.「娘さん.よく聞きなさい.ほかの畑に落ち穗を拾いに 行ったり,ここから出て行ったりしてはいけません.私のところの若い女たちのそばを離れないで,ここにいなさい. 刈り取っている畑を見つけて, あとについて行きなさい.私は 若者たちに, あなたのじゃまをしてはならないと, きつく命じておきました. のどが渴いたら,水がめのところへ行って,若者たちの汲んだのを飮みなさい 」 彼女は顔を伏せ,地面にひれ伏して彼に言った.「私が外國人であるのを知りながら,どうして親切にしてくださるのですか.」 ボアズは答えて言った「あなたの夫がなくなってから, あなたがしゅうとめにしたこと,それにあなたの父母や生まれた國を離れて,これまで知らなかった民のところに來たことについて, 私はすっかり話を聞いています.主があなたのしたことに報いてくださるように. また, あなたがその翼の下に避け所を求めて來たイスラエルの神,主から,豊かな報いがあるように.」彼女は言った.「ご主人さま.私はあなたのご好意にあずかりとう 存じます. 私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに,あなたは私を慰め,このはしためにねんごろに 話しかけてくださったからです.」
今日のQTは、「エリメレクの親戚であるボアズ」の紹介から始まります。それは、主にある期待を感じさせるスタートです。そして、ルツが図らずも「落ち穂を拾い」にいくのが、ボアズの畑であるからことへつながります。ここから学べることは何でしょうか?それは、人が計画を立てても神様の計画でなければ、それはならず、神様の計画ならばその時にふさわしく美しく神様のみ業がなることです。それは、何と期待できることでしょうか。それは、神様の声を聞くのに何と敏感に生きていくことになるでしょうか。それを聞くために、聖く行きたいと思うのでないでしょうか。そして、神様への期待と愛を持って歩める人生を生きれるのでないでしょうか。また、ボアズの登場と彼の信仰と人格が素晴らしいことを感じます。働いている人へ「神様が共におられますように」と言い、働いている人は「神様の祝福があるように」と挨拶します。このように祝福をしているボアズ、神様はあわすべきルツと会わせられます。私が学ぶべき姿は何でしょうか。それは、お互いを祝福する、神様が共におられるように、という姿勢です。それはどこから来ているのでしょうか。ルツの姿を見て彼女だと知ると「彼女の信仰と献身」を知っているのです(ベツレヘムで知れわたったからもありますが、ボアズの人格が分かります)そして、「イスラエルの神様に実を避けた者に、その翼の下に報いを与えるように」という信仰があります。ボアズはその神様のようにしたのです。私たちが学ぶべきことは何でしょうか。それは、私たちの元に面倒をかける人や、弱い人がくることもあります。また、信仰を持って一生懸命歩んでいる人がいます。その人たちに神様の翼にて報いを与えるように、私も隣人や近くにいる人にそうする必要があるということです。ルツは言います。「私はそのような資格が無い」と。いいえ、渡したち全てが資格の無いものです、神様はそのような私たちに翼の陰に隠してくださいました。翼の陰に報いを与える神様の愛に行きます。そして、神様の計画に期待して歩みます。

木曜日, 5月 21, 2009

自分を捨てたルツは全能者なる主を報いとして得た

ルツ1;15-22
ナオミは言った「ご覽なさい.あなたの弟嫁は自分の民とその神のところへ帰って行きました.あなたも弟嫁にならって帰りなさい.」ルツは言った.「あなたを捨て,あなたから別れて歸るように,私にしむけないでください.あなたの行かれる所へ私も行き,あなたの住まれる 所に 私も 住みます.あなたの民は私の民,あなたの神は私の神です.あなたの死なれる所で私は死に,そこに葬られたいのです.もし死によっても 私があなたから離れるようなことがあったら, 主が幾重にも私を罰してくださるように」 ナオミはルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると,もうそれ以上は何も言わなかった. それから,ふたりは旅をして,ベツレヘムに着いた.彼女たちがベツレヘムに着くと,町中がふたりのことで騒ぎ出し,女たちは「まあ.ナオミではありませんか」と言った. ナオミは彼女たちに言った.「私をナオミと呼ばないで,マラと呼んでください.全能者が私をひどい苦しみに會わせたのですから. 私は滿ち足りて出て行きましたが,主は私を素手で帰されました.なぜ私をナオミと呼ぶのですか.主は私を卑しくし,全能者が 私をつらいめに會わせられましたのに.」こうして,ナオミは,嫁のモアブの女ルツといっしょに, モアブの野から帰って來て,大麥の刈り入れの始まったころ,ベツレヘムに着いた.
ルツ記のQTはいかがですか?いやー本当に面白いですね、聖書は読むたびに違うし、信仰が成長したり、学びをするたびに、さらに面白くなります。今日のQTはルツとナオミの態度が対照的です。
ナオミは、モアブの民に、モアブの神にもどれ、弟嫁に習って帰りなさい、と言います。もちろん、これからの苦難を考えたり、モアブの民がイスラエルで生活する大変さを考えたのでしょうが、
ルツは、こう言います「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神、死んでも離れない、死んで離れたら神様が罰せられますように」と。何とたいした女性でしょうか。自分の民を捨てて、あなたと共に行きます、そして神様を主と告白します。ルツは全てを捨てたのです、しかし、それは全能者なる神様を選んだ献身です。それは、祝福への道です。⇒弟嫁は自分を民を捨てることはありませんでした。人間的に見たら理解できることでしょう。しかし、ここで考えれるのはナオミやエリメレクは結婚した時の家族への信仰教育はどうしていたのか?という疑問があります。聖書には
①2人は両親を離れて一つとなる(創世記2章)とあります。モアブの女性が結婚したのならモアブからも離れて、新しい信仰の共同体に来るはずです。
②ルツは自分の民を離れて、出来た家族と言う共同体を選びました。それは厳しい道の選択だったはずです。それでも、家族を守り続けました。計算したら良いはずがありません。神様がおられることだけが最高の、素晴らしい要素であるだけです。
③ナオミとルツがベツレヘムに戻ってきた時に「大騒ぎ」になったとあります。町中が戻ってきたことを知ったのです。
④ナオミは全てを失って戻ったのは全能の神様によると言いました。それは、神様への傷だったのでしょうか。それとも、リビングライフの解説にある「神様が今の私に必要だから与えられたマラ」だと思ったのでしょうか。どのように受け止めるのか?それは、大きな差があります
⑤ナオミにとって主人と息子2人を失ったことは大きいでしょう。もしかしたら大金持ちだったのかもしれません。しかし、素手で帰ったと言っても普通ルツがいるのに、そういうセリフは言わないでしょう、彼女にとって一緒に帰ってくれる人はどれほど嬉しかったでしょう。
今日のルツ記は、密かに静かに御業をなされる全能者なる神様の雰囲気を、期待させながら終わります。誰も、今はその意味を知りませんが。それは、ベツレヘムの町中がナオミが戻ってきたことを知り、ルツを全ての人が知っていること(ボアズにも伝えれる)、そして「大麦の刈り入れが始まった」時に戻ってきたのです。神様の祝福のときが始まろうとしています。今朝は、このように祈りました。①ルツのように自分の民国を捨てても、苦しい、しかも、将来が目に見えないとしても全能者の神様を選ばせてください、②全能者なる神様の計画を信じ、期待します、③家族と言う共同体を選び与えてくださった神様に感謝して守れますように、ルツのような信仰を私たちの家族にも与えてください。YOU RAISE ME UP 主よ、全能者なるあなたが私の人生を下げ、そして上げてくださる方です。あなたを信じます。

水曜日, 5月 20, 2009

人生の一番大事な法則は、愛すること

ルツ1;1ー14さばきつかさが治めていたころ, この 地にききんがあった. それで,ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行きそこに滯在することにした. その人の名は エリメレク . 妻の名はナオミ .ふたりの息子の名は マフロンとキルヨン .彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった. 彼らがモアブの野へ行き,そこにとどまっているとき, ナオミの夫エリメレクは死に,彼女とふたりの息子があとに殘された.
ふたりの 息子は モアブの女を妻に迎えた. ひとりの 名は オルパ で, もうひとりの名は ルツ であった. こうして,彼らは約十年の 間, そこに 住んでいた.しかし,マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ. こうして ナオミ はふたりの子どもと 夫に 先立たれてしまった.そこで,彼女は嫁たちと連れ立って,モアブの野から帰ろうとした.モアブの野でナオミ は,主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである.そこで,彼女はふたりの嫁といっしょに,今まで住んでいた所を出て,ユダの地へ戾るため歸途についた.そのうちに, ナオミ はふたりの 嫁に, 「あなたがたは,それぞれ自分の母の家へ 歸りなさい. あなたがたが,なくなった者たちと私にしてくれたように,主があなたがたに惠みを賜わり, あなたがたがそれぞれ 夫の 家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように.」と言った.そしてふたりに 口づけしたので, 彼女たちは声をあげて泣いた. ふたりはナオミに言った.「いいえ.私たちは, あなたの民のところへあなたといっしょに歸ります.」 しかしナオミは言った. 「歸りなさい. 娘たち.なぜ 私といっしょに 行こうとするのですか. あなたがたの 夫になるような 息子たちが,まだ,私のお腹にいるとでもいうのですか.歸りなさい. 娘たち. さあ,行きなさい. 私は 年をとって,もう 夫は持てません. たとい私が,自分には望みがあると思って,今晩でも 夫を 持ち, 息子たちを産んだとしても, それだから,あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか.だから,あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか. 娘たち.それはいけません.私をひどく苦しませるだけです.主の御手が私に下ったのですから.」 彼女たちはまた聲をあげて泣き, オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが, ルツ は彼女にすがりついていた.
今日から、ルツ記のQTです。非常に興味深いQTです。「さばきつかさがおさめていたころ」士師記を背景にした聖書箇所です。この時代は霊的に暗い時代です。そんな時にききんがあり約束の地であるイスラエルからモアブに行ったのです。思わず、地図をQTの用紙に書きながら思い浮かべました。これは、約束の地であるイスラエルからいかに苦しくてもモアブの地に行くのは外れたアイデァであったわけです。モアブは、ロトの子孫でありながらもロトの娘との間違った性関係の中で生まれた子です。そして、申命記で約束の地へ入ろうとするイスラエルの民を苦しみ、戦争し、呪おうとした民族です。モアブに行ったために、一時的には助かったナオミ家族もそこで全ての家族を失うことになります。ここで、私たちが学ぶべき教訓は何でしょうか。①いかに苦しくても一時的な妥協や間違った方向性や逃亡する生活をするな、ということ。そして必ず結果も伴うことです。②次に学べることは、このようなナオミ家族を神様はそれでも愛してくださることです。決して捨てないことです。③主はイスラエルの民を顧みてパンを下さるように私たちの現実生活の必要を下さる方です。④もう一つ別の側面ですが、長い苦労は人の心を挫折させ、傷つけます。失望させます、希望を持たせないようにさせます。そして一番怖いのが神様は私を愛してない、と恐れさせます。ナオミはそのような状態にありました。私たちを愛することを決して止めないことを宣言しないといけません。
そして、今日一番気になったことは「何故、ルツはナオミと共にイスラエルの行ったのか?」ということです。彼女は必ずしもイスラエルに行かないといけない理由は無いのです。新しい人生をもアブですることもオプションとしてあったはずです。しかし、そうしませんでした。何故でしょう。黙想しました。
①ナオミが姑として置いていけなかった
②ナオミは嫁たちをイスラエルの神によって祝福し、恵みを伝えます。彼女の信仰はモアブ人の嫁たちにも伝えられたでしょうし、この信仰はもしかすると嫁への必修だったかもしれません。
③神様への信仰を持った。それにしても、苦労が待っているのは分かっている問題です。
それでもナオミについっていったのは、何故でしょうか。それは愛以外にありません。ナオミを愛した以外にありません。愛することは、従順に従うことが意識せずになされます、というよりは愛すると従うことが喜びです。
ルツは偉大なダビデの家系の先祖となります。しかも、その子孫としてイエス・キリストが生まれます。それは、ルツが意図したり、計画したので成った人生でなくて、神様の計画の中を歩んだのです。その秘訣は何でしょうか。神様を、ナオミを愛して生きたのです。その結果が神様に用いられる人生となったのです。私たちはそのような人生を歩んでいるでしょうか。ルツを用いられ、愛された神様と同じ神様を信じる私は、神様を愛する、そして詩篇のような賛美ささげる人生を送れるように祈ります。

火曜日, 5月 19, 2009

御言葉に聞き従う人は、さらに大胆に祈れる

詩篇86;1-17
主よ.あなたの耳を傾けて,私に答えてください.私は惱み,そして貧しいのです. 私のたましいを 守ってください.私は神を恐れる者です.わが神よ.どうかあなたに信賴するあなたのしもべを救ってください. 主よ.私をあわれんでください.私は一日中あなたに呼ばわっていますから.あなたのしもべのたましいを喜ばせてください.主よ.私のたましいはあなたを仰いでいますから.主よ.まことにあなたはいつくしみ深く,赦しに富み,あなたを呼び求めるすべての者に,惠み豊かであられます. 主よ.あなたの道を私に敎えてください.私はあなたの眞理のうちを步みます. 私の心を一つにしてください.御名を 恐れるように. わが神主よ.私は心を盡くしてあなたに感謝し,とこしえまでも,あなたの御名をあがめましょう. それは,あなたの惠みが私に對して大きく,あなたが私のたましいを,よみの深みから救い出してくださったからです. 神よ.高ぶる者どもは私に逆らって立ち,橫暴な者の群れは私のいのちを求めます.彼らは,あなたを自分の前に置いていません. しかし主よ. あなたは,あわれみ深く,情け深い神.怒るのにおそく, 惠みとまことに 富んでおられます私に御顔を向け, 私をあわれんでください.あなたのしもべに御力を與え, あなたのはしための子をお救いください. 私に,いつくしみのしるしを行なってください.そうすれば, 私を憎む者らは見て,恥を受けるでしょう.まことに主よ.あなたは私を助け,私を慰めてくださいます.

神様の奇跡を体験した人は、大胆に祈ることが出来ます。羨ましい話で無いでしょうか。そのようなりたくないでしょうか。それは、神様の恵みとまことに富んでいる事を体験することです。その時に全てのことに感謝することが出来ます。思えば、私の人生を救い出してくださった神様は私の人生の全てをささげても足りない恵みを下さいました。その神様に言われることを喜んで生きることを願わずにいられないのでないでしょうか。神様のみ言葉に聞き従わないけない、とかでなくて、神様を愛するなら聞きたくて仕方が無いの無いでしょうか!真理のうちに歩め、とか言われなくても歩みたくなるので無いでしょうか!何よりも、神様のみ言葉に聞き従ったら「神様は憐れみ深い」と体験したら、その方への性質をもって祈るのでないでしょうか。「神様を私の前におく」人生を歩んでみたら、このように導かれ、守られたことを体験するなら、どうでしょうか。今朝、私に与えられた恵みは詩篇の記者が非常に神様の性質に信頼して祈ることをすること、そして非常に謙遜にへりくだっていること、まるで全ての弱さをさらけだして、自分の卑しさをさらけだして祈っています。それは、神様への信頼と自分の真の姿を知って、認めての祈りです。今朝、このように祈ります。神様、私を憐れんでください、あなたは、はしための子を救われる方です。あなたの恵みとまことを持って導いてください。あなたの道を教えてください。あなたにあって私の心が一つになりますように。

月曜日, 5月 18, 2009

神様にある人生はJOY

詩篇85:1-13
主よ.あなたは,御國に惠みを施し, ヤコブの捕われ人を,お返しになりました. あなたは,御民の咎を赦し, 彼らのすべての罪を,おおわれました. セラ あなたは,激しい怒りをことごとく取り去り, 燃える御怒りを, 押しとどめられました. われらの救いの神よ. どうか,私たちを生き返らせ,私たちに對する御怒りをやめてください. あなたは,いつまでも, 私たちに對して怒っておられるのですか.代よに至るまで,あなたの御怒りを引き延ばされるのですか. あなたは,私たちを再び生かされないのですか.あなたの民があなたによって 喜ぶために.主よ.私たちに, あなたの惠みを示し,あなたの救いを私たちに與えてください. 私は,主であられる神の仰せを 聞きたい. 主は, 御民と聖徒たちとに平和を告げ, 彼らを再び愚かさには 戾されない. まことに御救いは主を恐れる者たちに近い.それは,榮光が私たちの國にとどまるためです.惠みとまこととは, 互いに出會い,義と平和とは,互いに口づけしています. まことは地から生えいで,義は天から見おろしています. まことに,主は,良いものを下さるので,私たちの國は,その産物を生じます. 義は,主の御前に先立って行き,主の足跡を道とします.
神様は与えてくださることが好きな方です。私たちに良いものを与えたい、最高の人生を生きてほしいというのが願いです。しかし、私たちに神様の恵みを願い求める心が無かったり、謙遜に求める心が無かったら、あたえることができません。また、何よりも神様の御心にしたい求める心が無かったり、罪を犯していくなら与えることが出来ません。私たちが罪を悔い改めるなら、かみさまは回復してくださいます。私たちは、神様の回復をヤコブの繁栄を元通りにしていただくことを願っているでしょうか。神様の怒りに対して、謙遜に悔い改めて、神様に生かせていただく人生を得ようとしているのでしょうか。それとも、自分の力で生きようとしているのでしょうか。そして、自分の力で生きようとし苦しんでいないのでしょうか。神様の与えてくださる恵み、まことを受ける人の人生は喜びです。私は、神様のお教えを聞いているでしょうか。それとも、他の世の声や、自分の声を聞こうとしているのでしょうか。クリスチャンは賢く人生を行きえるチャンスを持っています。しかし、神様の教えを聞こうとしないなら、それはせっかく語られる神様の声を聞き損ねることになります。何よりも、義の道、神様の道を歩み損ねます。日ごとに神様の救いを求め、期待しているでしょうか。苦しくても主である神様の仰せが聞きたい、と謙遜に告白しているでしょうか。神様の救いこそが唯一の救いであり、神様の栄光を求める人生が最高の価値であると歩んでいるでしょうか。神様の喜びの人生を祈りをもってGETしていきます。

日曜日, 5月 17, 2009

泉の湧く人生

詩篇84;1-12
万軍の主.あなたのお住まいはなんと,慕わしいことでしょう.私のたましいは,主の大庭を戀い慕って絶え入るばかりです. 私の心も,身も,生ける神に喜びの歌を歌います.雀さえも,住みかを 見つけました.つばめも, ひなを入れる巢, あなたの 祭壇を 見つけました.万軍の主.私の王,私の神よ.なんと幸いなことでしょう.あなたの家に住む人たちは.彼らは,いつも,あなたをほめたたえています.セラ なんと幸いなことでしょう.その力が,あなたにあり,その心の中にシオンへの大路のある人は. 彼らは淚の谷を過ぎるときも,そこを泉のわく所とします.初めの雨もまたそこを祝福でおおいます. 彼らは,力から力へと進み,シオンにおいて,神の御前に現われます.万軍の神,主よ.私の祈りを聞いてください.ヤコブの神よ.耳を傾けてください. セラ 神よ.われらの盾をご覽ください.あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください. まことに,あなたの大庭にいる一日は千日にまさります.私は惡の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです. まことに,神なる主は太陽です.盾です.主は惠みと榮光を授け,正しく步く者たちに,良いものを拒まれません. 万軍の主よ.なんと幸いなことでしょう.あなたに信賴するその人は.
苦しくても、苦境の中でもその人のそばにいくと幸福な感じを受ける人はどんな人でしょうか。その人のそばに行きたくなる人はどんな人でしょうか。それは、その人が幸福であることは間違いないでしょう。しかし、その人はお金もちだから幸福なのでしょうか。その人が問題が無いから幸福なのでしょうか。聖書は、本当の幸福な人は問題が無いからでなくて、こういう人だと言います。
①神様の家に住むことを望む人
②祭壇を持つ人⇒それは、主を礼拝することを喜んでいる人なのです。
③神様を賛美することが幸福な人です。
④サタンの天幕に住むよりは、神様の宮の玄関に建つことが素晴らしいという価値観を持つ人です。
私たちは、神様の宮に住むことを「たとえ苦しくても」選んでいるでしょうか。それが素晴らしいと本気で思っているでしょうか。涙の谷を過ぎるところも、祝福で覆えます。自分が傷ついても癒されます。そして、他の人を癒す人に、祝福する人になります。自分が受けた傷で他の人を傷つけたり、その傷で縛られたりしません。そして、神様の力から力を受けて進みます。その人は神様からの泉を受け続けて、他の人にも流し続けます。神様の顔はその人に注がれます。恵みと栄光を授けます。
栄光なる、太陽なる、神様を探し続けます。神様を礼拝すること喜びます。苦境の中であっても、神様の門口に立つことを願います。

土曜日, 5月 16, 2009

祈りのクライマックスは何か?(何故、神様が沈黙しないでと祈るか)

詩篇83;1-18
神よ.沈默を續けないでください.默っていないでください.神よ.じっとしていないでください.今,あなたの敵どもが立ち騒ぎ,あなたを憎む者どもが頭をもたげています. 彼らは, あなたの民に對して惡賢いはかりごとを巡らし,あなたのかくまわれる者たちに惡だくみをしています.彼らは言っています.「さあ,彼らの國を消し去って,イスラエルの名がもはや覺えられないようにしよう. 」 彼らは心を 一つにして惡だくみをし,あなたに逆らって,契約を結んでいます.それは,エドムの天幕の者たちとイシュマエル人,モアブとハガル人, ゲバル と アモン , それに アマレク , ツロ の住民といっしょにペリシテもです. アッシリヤ もまた, 彼らにくみし,彼らはロトの子らの腕となりました.セラ どうか彼らを, ミデヤンや, キション川でのシセラとヤビンのようにしてください. 彼らは,エン · ドルで滅ぼされ, 土地の肥やしとなりました. 彼らの貴族らを, オレブとゼエブのように,彼らの君主らをみな,ゼバフとツァルムナのようにしてください.
彼らは言っています. 「神の牧場をわれわれのものとしよう. 」 わが神よ.彼らを吹きころがされる枯れあざみのように,風の前の,わらのようにしてください. 林を燃やす火のように,山¿を燒き盡くす炎のように, そのように, あなたのはやてで, 彼らを追い, あなたのあらしで彼らを恐れおののかせてください. 彼らの顔を恥で滿たしてください。主よ.彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください. 彼らが恥を見, いつまでも 恐れおののきますように. 彼らがはずかしめを受け, 滅びますように. こうして彼らが知りますように. その名,主であるあなただけが, 全地の上にいますいと 高き方であることを.
何故、神様が沈黙しているかのような現実の状態に「答えてください」と祈るのでしょうか。もちろん、私の現実に必要を満たすこともあるでしょう。今日のQTにあるように、世間の力にさらされ、厳しい状況にある教会への助けを求めることあるでしょう。また、時に教会の中の痛みに祈ることもあるでしょう。どれも絶対に必要です。しかし、究極的に必要なのは「神様の栄光が汚されたり、落ちることが無いように」という祈りです。神様の民として、神様を愛するものとして、偉大な神様のみなが全世界で唯一の頼るべき、力のあるみなであることを現われしてください。神様の栄光を現してください、全世界の主であることを現れしてください。という祈りと願いになるのです。そこには私が出てきません。神様と一つの願いになっていきます。今日の詩篇は
①牧場の羊への特別な導きがあることをイスラエルの民は、クリスチャンは知っています。神様の民としての特別な導きと保護を失うことが無い様に祈ります。
②主だけが全世界の主であることを知るように祈ります。
③エドムの天幕、アモン、アマレク、ロトの子らがイスラエルの民を攻撃します。彼らはエソウ、ロトの子孫です。彼らはイスラエルの民を、選ばれた民を応援するのでなくて、攻撃し続けます。彼らの侵略から守ってください、そして神様に逆らう民へ神様の裁きがあるように祈ります。ここで、気をつけることは
④自分(人間)の裁きでなくて、人間の感情でなくて正しい裁き主なる神様からの裁きなのです。私たちは自分で裁こうとします。自分で判断します、自分の敵か?見方かをまず考えます。そうでなくて、神様の敵には神様からの裁きがあることを祈るのです。
⑤神様の敵はイスラエルを無くすために一致して契約を結びます。私たちは一致して祈っているのでしょうか?神様の栄光のために、主イエス・キリストの十字架の契約によって一つになって歩んでいるのでしょうか。
⑥イスラエルの名前がこの世が消えるように悪の勢力は働きます。しかし、神様の国は永遠です。それを宣言してください、具体的に働いてください、と祈るです。
⑦名前とはアイデンティそのものです。イスラエル「戦う神」私たちのために共に、日々悪と戦い勝利を下さる方なのです。その方の名前があがめられますように、と祈ります。
⑧炎のような裁きがあるように祈ります。神様の栄光を示してくださいと祈るのです。神様の裁きはいい加減なものでありません。恐れるべき方です。神様の裁きはないとかそんなことはあありません。はっきりとした裁きがあります、逆に、神様を信じ愛するならば、その者たちへの神様の愛と祝福は大きいのです。
今日、神様の栄光のために私の人生の中に介入してください、と祈ります。


金曜日, 5月 15, 2009

あなたは気高い王のことして生きているのか?

詩篇82:1-8
神は神の會衆の中に立つ.神は神々の眞中で,さばきを下す.いつまでおまえたちは, 不正なさばきを行ない,惡者どもの顔を立てるのか. セラ 弱い者とみなしごとのためにさばき, 惱む 者と 乏しい者の權利を認めよ. 弱い者と貧しい者とを助け出し,惡者どもの手から救い出せ. 彼らは、知らない.また,悟らない.彼らは,暗やみの中を步き回る.地の基は,ことごとく揺らいでいる.わたしは言った. 「おまえたちは神々だ.おまえたちはみな,いと高き 方の子らだ. にもかかわらず, おまえたちは, 人のように死に,君主たちのひとりのように 倒れよう. 」 神よ.立ち上がって,地をさばいてください.まことに,すべての國¿はあなたが, ご 自分のものとしておられます

クリスチャンは、全ての人が神様の子であります。それなら、神様の子らしく生きているでしょうか?もしかして、全然違う人のように生きていないでしょうか?それをあたかも自由のように勘違いして生きていないでしょうか。もしも、世界的に有名なある映画俳優がごみ捨て場で眠っていたらどうででしょうか。しかも、毎日です。せいしょは、神様は神様の子供として生きる素晴らしい人生を贈り物としてくださっているのにもかかわらず、反対の生き方をしていることがあります。今日の詩篇は、「おまえたちは神々の子だ、お前たちはいと高き方の子だ」と言います。しかし、それと違う生き方をしている地上の王様に言われるのです。「人のように死に絶えよう」と。何故そのような生き方をしているのでしょうか?王様として、神様の子なら絶対に逃してはいけない人生の祝福です。
①神様を怖れないからです(1節で神々の中にたたれる、裁きの真ん中に立たれる方)を怖れて生きるなら、正しい権威に守られ、人を恐れることが無く、真意の勇気を持って生きます。
②不正な裁きをして、悪者の顔を立てる人生には平安がありません。
③貧しいものや弱い者への愛を失った権威はいつか崩され、神様の裁きが来ます。そして、何よりも愛と信頼を失った人生を歩みます。
④神様は貧しいものや弱いものの救いを言われます。福音は貧しい人や弱い人にも、強く語られています。もちろん、豊かな人や強い人に語られていますが、特に弱い人に福音は強く語れています。
⑤その結果は、暗闇を歩む、基礎が揺れ動くような人生を歩みます。
私の人生は、神様の子供として歩んでいるでしょうか。神様の子供としての権威を守って歩んでいるでしょうか。正しい裁きを神様を怖れて、行っているでしょうか。愛と正義を持って使えているでしょうか。また、神様は必ず弱いものを貧しいものを救い出してくださいます。その期待があるでしょうか。神様の前に貧しいものとして、神様が子供としてくださる人生を期待して歩みます。

木曜日, 5月 14, 2009

賛美で輝ている人の秘密

詩篇81;1-16
われらの 力であられる 神に喜び歌え.ヤコブの神に喜び叫べ. 聲高らかにほめ歌を歌え.タンバリンを打ち鳴らせ. 六弦の琴に合わせて,良い音の立琴をかき鳴らせ.われらの祭りの日の, 新月と滿月に,角笛を吹き鳴らせ.それは,イスラエルのためのおきて, ヤコブの神の定めである. 神が, エジプト の地に出て行かれたとき, ヨセフの中に, それをあかしとして授けられた. 私は,まだ知らなかったことばを聞いた.「わたしは, 彼の肩から重荷を取り除き,彼の手を荷かごから離してやった.あなたは苦しみのときに,呼び求め,わたしは,あなたを助け出した.わたしは,雷の隱れ場から,あなたに答え,メリバの水のほとりで,あなたをためした. セラ 聞け.わが民よ. わたしは, あなたをたしなめよう. イスラエルよ. よくわたしの 言うことを聞け.あなたのうちに, ほかの神があってはならない. あなたは,外國の神を拜んではならない. わたしが, あなたの 神,主である. わたしはあなたを エジプトの地から連れ上った. あなたの口を大きくあけよ わたしが,それを滿たそう.
しかしわが民は,わたしの聲を聞かず, イスラエル は, わたしに 從わなかった.それでわたしは, 彼らをかたくなな 心のままに 任せ, 自分たちのおもんぱかりのままに步かせた. ああ,ただ,わが民がわたしに聞き從い,イスラエルが,わたしの道を步いたのだったら. わたしはただちに, 彼らの敵を征服し,彼らの仇に,わたしの手を向けたのに.」 主を憎む者どもは, 主にへつらっているが, 彼らの刑罰の時は永遠に續く. しかし主は,最良の小麥をイスラエルに食べさせる. 「わたしは岩の上にできる蜜で,あなたを滿ち足らせよう. 」

何故、賛美するのでしょうか?神様が素晴らしいからです。何故、礼拝するのでしょうか?偉大な神様を礼拝せずにいられないからです。その神様が私の神様であることが嬉しすぎるからです。私の声を聞いてくださるのが嬉しいからです。私の願いを聞いてくださるからです。すると、もっと賛美せずにいられません。今日のQT箇所のスタートは賛美する人は、賛美はまぶしすぎると感じさせられました。神様を純粋に愛する人は賛美を輝いてします。なぜなら、神様は賛美の中に住まわれます。栄光の中に臨在されます。神様の力がそこにあります。苦境の中にあるときはどうでしょうか?賛美しやすいでしょうか。今日の聖書には、「あなたを最良の小麦で食べさせ、あなたに手を向けて」とあります。また「あなたに知らないことを語る」といわれます。私への神様の計画は秘密計画で、人間の創造をはるかに超えたものであるのです。しかも、ワンダフルな神様なのです。それを信じているのでしょうか?「あなたの口をあけよ、私はそれを満たそう、⇒岩の上で蜜を与える」とあるのです。まるで、お父さんが子供にくれるようにしてくれるのです。子供はお父さんなる神様が口に入れてくれるのを疑いません、信じて楽しみにしています。私はそのような思いがあるのでしょうか。主なる神様を信じ、したがっているならそうなのです。そういう人には、賛美が溢れます。最高のものが口を開けて入れれるのです。しかも、秘密のワンダフルなことがなされようしているのです。期待するしかありません。今日、賛美の輝きの中に、お父さんに口を差し出します。

水曜日, 5月 13, 2009

神様の決定打を引き出せ!

詩篇80:8-19
あなたは,エジプトから,ぶどうの木を携え出し,國¿を追い出して,それを植えられました. あなたがそのために, 地を切り開かれたので,ぶどうの木は深く根を張り,地にはびこりました.山¿もその影におおわれ, 神の杉の木もその大枝におおわれました. ぶどうの 木はその枝を海にまで, 若枝をあの川にまで伸ばしました. なぜ,あなたは,垣を破り,道を 行くすべての者に,その實を摘み取らせなさるのですか. 林のいのししはこれを食い荒らし,野に群がるものも,これを食べます.万軍の神よ.どうか, 歸って 來てください. 天から 目を注ぎ, よく見てください.そして, このぶどうの木を育ててください. また, あなたの右の手が植えた苗と,ご自分のために强くされた枝とを. それは火で燒かれ,切り倒されました. 彼らは, 御顔のとがめによって, 滅びるのです.あなたの右の手の人の上に,御手が, ご 自分のため强くされた人の子の上に,御手がありますように. そうすれば, 私たちはあなたを裏切りません.私たちを生かしてください. 私たちは 御名を 呼び 求めます.万軍の神,主よ.私たちをもとに返し,御顔を照り輝かせてください.そうすれば,私たちは救われます.

アサフは今までイスラエルをエジプトから導き出し、約束の地を与えてくださった神様の恵みを再告白します。しかし、イスラエルの民の罪のために神様は裁き、辱めを与えます。そこで、イスラエルの民は、神様の民の共同体は、アサフは悔い改めと回復と恵みを求めます。しかし、長く祈りが答えられない、神様の怒りがとどまっている時期への祈りです。このような時に私たちはどうしたら良いのでしょうか?アサフはとても良い示唆を与えます。それは、私たちは真実でなかったとしても神様に立ち返るなら、真実な神様は必ず答えてくださること、を教えてくれます。そうです、私たちは長く祈りに答えられない時には、真実な神様のことを忘れてしまいがちでないでしょうか。もしくは、祈りに答えられる時には神様の愛を感じたり、真実を信じるのは簡単です。ですが、苦境のときこそ「罪を犯した私たちのために涙を流し裁かれる父なる神様の愛」それは決して滅亡のためでなく、悔い改めと回復のためなのです。今の苦しみは、神様ともっと深く出会い、神様のために再献身する時間なのです。真実な神様は決してそれを忘れることはありません。それは、神様が私の人生をささげても、とんでもない計算の祝福を下さる方であることを覚えます。アサフは神様の顔を見ることを求めます。顔を見るとはどういうことでしょうか?顔を見合わせても恥ずかしくない関係です。お互いに不自由なことや関係が悪ければ、顔を見ることは出来ません。しかし、罪の取り除かれた関係はお互いに顔を見ても大丈夫な関係です。また、神様の顔を見ても死ななかったエジプトから脱出するシナイ山における長老のことが思い出されます。神様の顔見る関係に戻してください、というのです。神様の御顔の光が輝くなら、今まで、それ以上に私たちは輝くことが出来ます、というのです。神様のいわれることに従うこと、神様の側に立つことです。神様の側に立つ献身の祈りをします。
神様が回復を伸ばしておられるのは、もっと素晴らしい計画があるからです。旧約聖書そして聖書の預言が無い時間を通り過ぎてこそ、新約聖書ではイエス・キリストが来られることが待っていました。今日、わたしは神様の秘密兵器、計画を引き出す献身を持って進みます。

火曜日, 5月 12, 2009

告白できる関係になれ!


詩篇80;1-7
イスラエルの牧者よ.聞いてください. ヨセフを羊の群れのように導かれるかれる方よ.光を 放ってください.ケルビムの上の御座に着いておられる 方よ.エフライムとベニヤミンとマナセ の 前で,御力を呼びさまし,私たちを救うために來てください.神よ私たちをもとに返し, 御顔を 照り 輝かせてください. そうすれば,私たちは救われます.万軍の神,主よ. いつまで, あなたの民の祈りに怒りを燃やしておられるのでしょう. あなたは彼らに淚のパンを食べさせ, あふれる淚を飮ませられました.あなたは, 私たちを隣人らの爭いの的とし,私たちの敵は敵で,私たちをあざけっています. 万軍の神よ.私たちをもとに返し,御顔を照り輝かせてください.そうすれば,私たちは救われます.
アサフは長く祈り続ける人へのモデルであります。また、罪を犯し神様の怒りを受けるに当然である民がどのように歩むべきなのか?見せてくれます。それは、祈りの具体的な答えがすぐに来ないことを示唆する部分があります。それは、何よりも「関係の回復」を求めておられるのです。罪を犯したときに、多くの人間関係は壊れ、お互いに会おうともしません。しかし、罪を犯したアダムを探したように、私たちを神様は捜し求めておられます。それは、裁いて審判して終わるためでなくて、回復するために、私たちを捜し求めておられるのです。また、罪を犯した場合でなくても、長く祈りが答えられない時があります。それは、何よりも神様を信頼し、神様の計画を求めて行く時となります。ますます、神様の関係が強く、熱くなるときなのです。私にとって、今朝の神様は私の人生を照らす輝かす、導かれる神様でした。心から神様へ回復を求めます。神様に関係を告白できる祝福を感謝します。また、共同体に臨む神様への告白を求めます。あなたを愛します。私を神様にあるもとの位置に戻してください。

月曜日, 5月 11, 2009

神様のみながあがめられる人生を歩め

詩篇79;1-13
神よ.国々は,ご自身のものである地に侵入し,あなたの聖なる宮をけがし,エルサレムを廢墟としました. 彼らは,あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし,あなたの聖徒たちの肉を野の獣に與え, 聖徒たちの血を,エルサレムの回りに,水のように注ぎ出しました.彼らを葬る者もいません. 私たちは隣人のそしりとなり,回りの者のあざけりとなり笑いぐさとなりました.主よ.いつまででしょうか.あなたは,いつまでもお怒りなのでしょうか.いつまで, あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか. どうか, あなたを 知らない国々に,御名を呼び求めない國の上にあなたの激しい憤りを注ぎ出してください. 彼らはヤコブを食い盡くし, その住む所を荒らしたからです. 先祖たちの咎を、私たちのものとして,思い出さないでください.あなたのあわれみが,すみやかに,私たちを迎えますように.私たちは,ひどくおとしめられていますから.私たちの救いの神よ. 御名の榮光のために,私たちを助けてください. 御名のために、私たちを救い出し,私たちの罪をお 赦しください.なぜ,国々は, 「彼らの 神はどこにいるのか 」と 言うのでしょう. あなたのしもべたちの,流された血の復讐が,私たちの目の前で,国々に思い知らされますように.捕われ人のうめきが御前に屆きますように.あなたの偉大な力によって,死に定められた人々を生きながらえさせてください.主よ.あなたをそしった, そのそしりの七倍を,私たちの隣人らの胸に 返してください. そうすれば, あなたの民,あなたの牧場の羊である私たちは, とこしえまでも, あなたに感謝し,代¿限りなくあなたの譽れを語り告げましょう.
アサフは、自分たちの罪の悔い改めと神様のみなが蔑まれないように、神様の民が憐れみによって回復するように祈ります。神様の栄光が蔑まれないようにです。私たちの人生はどうでしょうか?神様の前に謙遜に祈っているでしょうか?あなた以外に頼る方はいないとひざまずいているでしょうか?自分の罪を認めているでしょうか?そして、神様が何所にいるのか?という世の中の人々の声に対して、「神様は私と共にいる」と宣言しているでしょうか?暗闇のような痛みにいるときに、私たちを捕らえるのは、「神様はあなたを愛している、必ず祝福する」という声よりも、世の中の「神様はそんなことに関わらないよ、もうあなたは終わりだ」という声で無いでしょうか。それでも、わたしは神様のみな栄光にかけて祈っているでしょうか。神様の栄光のために、あなたの牧場の羊を回復して、主の栄光と素晴らしさを現せるようにしてください、と祈って期待しているでしょうか?あなたの栄光の証を言いふらす、言い表す人にしてください、と祈っているでしょうか。また、いつまでですか?と正直に祈っているでしょうか。祈っていても長く答えが無いときに恐れが来ます。この世の敵の勢力が、まるで神様より強いような気がします。私の罪はそれほどまで大きいのだ。しかし、今日のアサフはわたしたちに教えてくれます。死に定められた人を救ってください、と。流された血の7倍を復讐してください、と祈ります。そして、代よ限りなくあなたの素晴らしいみなを褒め称えさせてください。私たちの人生において暗闇の時に必要な祈りで無いでしょうか。神様のみなを永遠に褒め称えさせてくださる人生を歩ませてください。私たちを回復させてください。回復は礼拝から始まります。

日曜日, 5月 10, 2009

その時を期待できる理由

詩篇78:56-72
それなのに,彼らはいと高き神を試み,神に逆らって,神のさとしを守らず, もとに戾って,彼らの先祖たちのように 裏切りをし, たるんだ弓の矢のようにそれてしまった. また彼らは,高き所を築いて神の怒りを引き起こし,刻んだ像で,神のねたみを引き起こした. 神は,聞いて激しく怒り,イスラエルを全く捨てられた. それで,シロの御住まい,人¿の中にお建てになったその幕屋を見放し,御力をとりこに,御榮えを敵の手に, ゆだねられた. 神はまた,御民を劍に渡し,ご自分のものである民に對して激しく怒られた. 火はその若い男たちを食い盡くし,その若い女たちは婚姻の歌を歌わなかった. その 祭司たちは劍に倒れ, やもめたちは泣き悲しむこともできなかった. そのとき主は眠りから目をさまされた. ぶどう酒に醉った勇士がさめたように. その敵を打ち退け, 彼らに 永遠のそしりを與えられた. それで, ヨセフの天幕を捨て, エフライム族をお選びにならず, ユダ族を選び,主が愛されたシオンの山を,選ばれた. 主はその聖所を,高い天のように,ご自分が永遠に基を据えた堅い地のように,お建てになった.主はまた, しもべダビデを選び,羊のおりから彼を召し, 乳を 飮ませる雌羊の番から彼を連れて來て,御民 ヤコブ とご自分のものである イスラエル を 牧するようにされた. 彼は,正しい心で彼らを牧し,英知の手で彼らを導いた.
神様が逆らうイスラエルの民を裁かれ、捨てられる箇所が最初にあります。しかし、神様が捨てたのでなくて、神様の愛の召しにも関わらず、神様の回復の声に関わらずに、神様の警告にも関わらずに、それに逆らった末に、神様の忍耐にもかかわらず、神様の裁きを受けることになったのです。たるんだ弓のように的を外れたとあります。罪とは的外れな人生です。行くべき人生でなくて、神様の計画の外れた人生を自分勝手に歩んでいくことです。私たちは自分勝手な人生を歩んで目的のずれた人生を歩んでいないでしょうか。その結果は永遠の辱めです。
しかし、今日のQT箇所は「そのとき主は」再びイスラエルの回復のために立ち上がられます。それには、順序があります。①礼拝の回復からなされるのです、それは具体的な人生のターニングポイントなのです。②神様のリーダーを立てられます。ダビデを立てられて、その子孫として主イエス・キリストが来られたのです③神様のリーダーによって神様の民、クリスチャンは牧されて歩んで生きます。 この時は、ヨセフの一族(エフライム)でなくて、人間的には強く多く集まったいた部族でなくて、創世記から出エジプトまで用いられた部族でなくて、ユダ部族が用いられました。時に、神様のなされることが人間的には分からないことがあるかもしれません。しかし、私を愛され、回復され、用いられる方は真実です。その神様に、私は、日ごとに神様の御言葉によって、教会によって養われているのでしょうか。神様に養われたものこそが、正しい心を持って牧者として仕え、導くことが出来ます。その時にこそ、正しい目的に従った人生を、その結果を得ることが出来ます。

土曜日, 5月 09, 2009

神様の民になるのか?裁きを待つのか?選択せよ

詩篇78:43-55
神が,エジプトでしるしを, ツォアンの野で奇蹟を行なわれたことを. 神がそこの川を血に變えられたので,その流れを飮むことができなかった. 神は彼らに,あぶの群れを送って彼らを 食わせ,かえるを送って彼らを滅ぼされた。また, 彼らの 作物を, 油蟲に, 彼らの勤勞の 實を,いなごに與えられた. 神は,音で,彼らのぶどうの木を,いなずまで,彼らのいちじく桑の木を滅ぼされた.神は彼らの家畜を,音に,彼らの家畜の群れを,疫
に渡された. 神は,彼らの上に,燃える怒りと激しい怒り, 憤りと苦しみ, それに, わざわいの御使いの群れを 送られた. 神は御怒りのために道をならし, 彼らのたましいに死を免れさせず,彼らのいのちを 疫に 渡された. . また,エジプトのすべての初子,ハムの天幕の彼らの力の初めの子らを打ち殺された. しかし神は,ご自分の民を,羊の群れのように連れ出し,家畜の群れのように 荒野の中を連れて行かれた.
今日のQTをする時に、「何が自分にとって得か損か?考えてごらん」と言われるなら、間違いなく神様の民となることを選ぶことを思います。神様の怒りは必ずあること、裁きがあり、滅亡があるならそれを怖れ、受けたくないはずです。しかし、大人になると従順に従うことへ悪いイメージがあります。これはサタンの策略です。従うことは私に良くして下さる、愛してくださる方、完全に良い計画で導かれる方なら、考えることも無く、言われる通りにしたいし、したくて仕方が無いはずなのです。世の中の無理やりの従うことや、人間関係上にやむえず従う、お金のために、生活のために従う出なく、心から従う祝福を得れるのです。神様の民になるなら、
①罪から、私たちを神様の怒りから救い出してくださいました。しかもご自分の十字架と言う犠牲を通してです。私の何か功績があったからでありません。恵みです。
②神様を礼拝するものとして呼ばれたのです。この世から、今まで慣れ親しんだことへの人生、価値観から離れる(LEAVE)があります。そして、本当に価値のある自分らしい人生へ呼ばれたのです。この世から離れる必要があります。
③神様の共同体へ呼ばれました(信仰は個人で呼ばれたのでなく、神様の民として、現代的に言うと教会へ呼ばれたのです)信仰の真価は人間関係の中で育てられます。
④神様の使命の人生へ、目的のある人生へと呼ばれたのです。そして、神様に導かれる人生には、恐れが無く、勇気があります。生きがいがあります。
神様の民となるのか?従うのか?それは、なあなあにする選択するとか出なく、したくてする選択なのです。神様の民として共同体に仕えていきます。

金曜日, 5月 08, 2009

あなたは忘れても、神様は忘れない

詩篇78:34-42
神が 彼らを殺されると,彼らは神を尋ね求め,立ち返って,神を切に求めた. 彼らは,神が自分たちの岩である。しかしまた 彼らは, その口で神を欺き,その舌で神に僞りを 言った. 彼らの心は神に誠實でなく, 神の 契約にも 忠實でなかった. しかし,あわれみ深い神は,彼らの咎を赦して,滅ぼさず,幾度も怒りを押え,憤りのすべてをかき立てられはしなかった. 神は,彼らが肉にすぎず,吹き去れば,返って來ない風であることを心に留めてくださった. 幾たび彼らは,荒野で神に逆らい,荒れ地で神を悲しませたことか. り, いと高き神が自分たちを 贖う方であることを思い出した.彼らはくり返して,神を試み,イスラエルの聖なる方を痛めた. 彼らは神の力をも,神が敵から贖い出してくださった日をも, 覺えてはいなかった.
もしも、神様が憐れみ深い方でなかったら、わたしは一瞬に滅んだことでしょう。私は救われながら、どれほど神様のことを忘れ、高慢に陥ったことでしょう。しかし、神様はそんな私を忘れずに心に留めてくださり、神様の愛のサインをくださいます。どれほど、神様に感謝と悔い改めしないといけないことでしょう。これだから、生きていけるのです。今朝のQTの御言葉はただ私が忘れることに悔い改め、そして神様は私を忘れない憐れみの方であることに感謝と、この方をもっと愛していきたい、そして忘れない神様を伝え続けたい、こんな私の信仰告白を何度も聞いてくださり、あなたの告白はうそ臭いといわずに、受け取ってくださる神様に賛美しながら生きて行きたいと思います

木曜日, 5月 07, 2009

今日、天国のマナを味わうと明日が変わる

詩篇78;23-33
しかし神は,上の雲に命じて天の戶を開き, 食べ物としてマナを,彼らの上に降らせ,天の 穀物を 彼らに與えられた. それで人々は御使いの パンを食べた.神は飽きるほど食物を 送られた. 神は,東風を 天に 起こし, 御力をもって, 南風を 吹かせられた. 神は彼らの上に肉をちりのように,翼のある鳥をも海邊の砂のように降らせた. それを宿の中,住まいの回りに落とした. そこで彼らは食べ, 十分に 滿ち 足りた. こうして 彼らの 欲望を, かなえてくださった. 彼らがその欲望から 離れず,まだ,その食べ物が口にあるうちに,神の怒りは彼らに向かって燃え上がり,彼らのうちの最もがんじょうな者たちを殺し,イスラエルの若い男たちを打ちのめされた. このすべてのことにもかかわらず, 彼らはなおも罪を犯し,神の奇しいわざを信じなかった. それで神は,彼らの日をひと息のうちに, 彼らの齡を,突然の恐怖のうちに,終わらせた.
昨日に引き続き、「私たちの現実のパンを満たせないであろう」もしくは「現実は別さ」と考える人間の不信仰にマナを与えてくださる神様のみわざです。神様の下さるマナは天国のものです。御使いの食べるものでした。しかも、豊かに飽きるほどに与えてくださる方でした。また、肉を与えてくださる方でした。それでも、人間は悔い改めることをせずに、感謝を知らずに、全く神様との関係を持つことが出来ずにいました。私にとって、マナとは何でしょうか?それは、私の人生の全ての領域で全ての必要を例外なく与えてくださる神様との関係を教えてくださるものです。マナが重要でありますが、それよりも重要なものは「私と神様の関係」なのです。イスラエルの民は、もしくはクリスチャンは マナを与えられても「私の全てを満たす神様の関係を」知ることが学ぶことがありませんでした。
私にとって、マナとは何でしょうか?
①日常の全てを例外なく、豊かに満たす方が下さる現実の糧、
②天国から朝ごとに降る霊的な糧(これなしに生きることがあってなりません)
③マナをいただく人生は、神様が私の主であることを告白することです
④感謝と悔い改めをするもの
⑤天国のものを豊かに味わうなら、明日への人生が変わります。
⑥日ごとの心配から解き放たれ、豊かに与える神様の愛を伝えずに入れません
霊的な人生を準備する今日を生きます。私の日常を豊かに満たす神様の愛を受けて、明日を準備します。

水曜日, 5月 06, 2009

口にしないダブルスタンダード

詩篇78:12-22
神は,彼らの先祖たちの前で,エジプトの地,ツォアンの野で,奇しいわざを行なわれた. 神は海を分けて彼らを通らせ,せきのように水を立てられた.神は,¿は雲をもって,彼らを導き,夜は,夜通し炎の光で彼らを導いた.荒野では 岩を 割り, 深い 水からのように豊かに飮ませられた. また,岩から數¿の流れを出し、水を川のように流された. それなのに,彼らはなおも神に罪を犯し, 砂漠で,いと高き方に逆らった.彼らは 欲するままに食べ物を求め, 心のうちで神を試みた.そのとき彼らは神に逆らって,こう言った.「神は荒野の中で食事を備えることができようか. 確かに,岩を 打たれると,水がほとばしり出て流れがあふれた. だが, 神は, パン をも 與えることができようか.ご自分の民に肉を備えることができようか 」 それゆえ,主は,これを聞いて激しく怒られた. 火はヤコブに向かって燃え上がり,怒りもまた,イスラエルに向かって立ち上った.
これは,彼らが神を信ぜず,御救いに信賴しなかったからである.
私たちクリスチャンにとって、神様は私の救い主として信じている方のはずです。しかし、無意識のうちにもしくは、口にしなくても、神様の救いは霊的なことや、大きなことに関してなされて、自分の現実生活やお金儲けには関係ない、と2つの基準を持っていることは無いでしょうか。イスラエルの民が葦の海を、神様が分けてくださり、渡った奇跡のように、私の人間の力で渡ることの出来ない、出来なかった人生の海を、分けてくださった神様の奇跡を体験しながら、私のパン問題、生活の問題、お金の問題は別であるとしていることがあるのでないでしょうか?私の人生の問題は、いと高き方の右の手が変わったことにある、というアサフの信仰告白とは大きな違いであるのです。果たして、いと高き方が私と共に同行される、という喜びや安心を味わっているのでしょうか?大人になればなるほど、自分が子供のように神様の前に、人の前に出るのは難しくなります。しかし、父なる神様の心はどうでしょうか?父の心は、①自分の子供に最善のものを与えたい、②父の心はもっと素晴らしい完全な人生を歩んでほしい、それは子供がどのような子供であってもそうです、③父なる神様は私が苦しむなら、共に苦しみ、助けを願うなら喜んで与えてくださる方です。逆に助けを求めずに、試みるなら神様の助けが注がれるよりは、怒りが注がれます。④問題は神様にあるのでなくて、父なる神様の全能の力と愛を信じない私にあるのです、子供は父の能力を信じないことがあるでしょうか?それなら大変なことになります。まさに、父がいても孤児状態なわけです。今日、私にとって与えられたのは経済的な助け、福音を伝えることで生活をささえてくださる神様に正直に祈ることです。父なる神様の心と寄り添う一日を歩みます。父なる神様の願われる人のところに私を遣わしてください。

火曜日, 5月 05, 2009

神様を伝える使命に命を書かける理由

詩篇78;1-11
私の民よ.私の敎えを耳に入れ,私の口のことばに耳を傾けよ. 私は,口を開いて,たとえ話を語り,昔からのなぞを 物語ろう. それは, 私たちが 聞いて, 知っていること,私たちの先祖が語ってくれたこと. それを 私たちは彼らの子孫に隱さず,後の時代に語り告げよう. 主への贊美と御力と, 主の行なわれた奇しいわざとを. 主はヤコブのうちにさとしを 置き, みおしえをイスラエルのうちに定め, 私たちの 先祖たちに 命じて, これをその子らに敎えるようにされた. 後の世代の者, 生まれてくる子らが, これを知り,彼らが興り, これをその 子らにまた 語り 告げるため, 彼らが神に信賴し,神のみわざを忘れず, その仰せを守るためである. また 先祖たちのように, 彼らが, かたくなで,逆らう世代の者,心定まらず, たましいが 神に 忠實でない世代の者とならないためである. エフライムの人々は、矢をつがえて弓を射る者であったが,戰いの日には退却した.彼らは神の契約を守らず,神のおしえに從って步むことを 拒み,神の数々のみわざと,神が見せてくださった多くの奇しいこととを忘れてしまった.
神様のみ言葉を聞いたときの反応はどのようなものでしょうか?それは、感動からです。黙っていられない感動から、賛美となります。それを黙って伝えずにいられない賛美と宣言となるのです。今朝の詩篇はまさにそうです、そして、それは苦難の中で神様を体験すればするほど、詩篇を賛美せずにいられないのです。神様の奇跡を見たのに黙って座っていられないのです。それを伝えずにいられないのです。それを聞かない人生は以下に損で、危険な人生で、不安な人生なのであるのか?そして、神様から離れた人生は、罪へと向かう人生であるのことを覚えるときに、心が霊が定まれない人生であることを時に、それを伝えずに応えません。また、心が定まり、霊が定まる人生を生きるときに、そうでなかった過去の自分がどのようであったのか、はたして想像も出来ないことです。神様のことを伝える人生は、1:神様を賛美せずにいられない、2:神様の奇跡を体験するなら、3:伝える以外ありえない、という人生です。神様に信頼することはだまっている人生でなくて立ち上がる人生です。神様のために立ち上がり伝えていきます。

月曜日, 5月 04, 2009

望みを本当の望みにするために


詩篇77:10-20
私たちの望みなる主イエス・キリスト。しかし、苦しみや心配や答えが長く待つときはどうしたらいいのでしょうか。望みが新しくなる、と今日のリビングライフにありました。それは、どういう意味でしょうか。神様以外に頼る方がいないこと、その方にのみ頼って立ち上がることです。今日の神様の道は聖であり、そして海の真ん中に道を造られるとあります。海の中に道があるでしょうか?それは、任人間には見たことの無い、奇跡の道でしかない、という意味なのです。私の望みは人間的に頼ることでなく、神様にだけ頼ることを教えられる望みなのです。私たちは、ひごとに神様の救いの望みを新たにしないといけません。なぜならスグに忘れるからです。キリストの十字架の救いは奇跡であったのです。今まで、私を導いてくださった神様の御手は奇跡であったからです。望みは、神様に会って新しく、そして本物の望みになります。主の海を開かれる御手がなされることを信じ、祈ります。

日曜日, 5月 03, 2009

眠れない夜の友に

詩篇77:1-9
私は神に向かい聲をあげて,叫ぶ. 私が神に向かって聲をあげると, 神は聞かれる. 苦難の日に,私は主を尋ね求め,夜には,たゆむことなく手を差し伸ばしたが,私のたましいは慰めを拒んだ.私は神を思い起こして嘆き,思いを潛めて,私のは 衰え果てる. セラ あなたは,私のまぶたを閉じさせない. 私の 心は 亂れて, もの 言うこともできない. 私は,昔の日¿,遠い昔の年¿を思い返した.夜には私の歌を思い起こし,自分の心と語り合い, 私のたましいは 問いかける. 「主は,いつまでも拒まれるのだろうか. もう 決して 愛してくださらないのだろうか. 主の惠みは,永久に絶たれたのだろうか. 約束は,代々に至るまで,果たされないのだろうか. 神は,いつくしみを忘れたのだろうか. もしや,怒ってあわれみを 閉じてしまわれたのだろうか.」 セラ
私たちの人生には、苦しみがあります。いや、その連続かもしれません。しかし、そのような夜の友がいます。それは、主なる神様です。長い忍耐と沈黙をされているような感じを受けるその方が友に私たちと涙を流し、愛し、そして私たちの最高に整えられた時に、その答えをくださいます。いや、神様ご自身が答えなのです。眠れない夜の友は主なる神様ご自身なのです。眠れない夜には、私たちは何所に行くのでしょうか?誰のところに行くのでしょうか?仮の慰めをする人や、代理満足させる人のところや、下手をしたら神様と逆の方向に行くので無いでしょうか。もしかしたら、嫌になって罪を犯す方向に行っているのかもしれません。眠れない夜には、私は神様に叫ぶほどに祈っているのでしょうか。眠れない夜に苦しんでいる人のそばで涙を流して祈ってあげているのでしょうか!神様の御心は何か聞きたいと叫び、祈っているのでしょうか?眠れない夜の友である神様に祈り、賛美し、友に涙を流していく友になります。

土曜日, 5月 02, 2009

信仰の冒険が出来る秘訣

詩篇76;1-12
神は ユダ において 知られ, 御名は イスラエル において 大きい.神の假庵はシャレムにあり,その住まいはシオンにある. その所で神は弓につがえる火矢,盾と劍,また戰いを打ち ¿かれた. セラ あなたは 輝かしく, えじきの 山¿にまさって 威嚴があります. 剛膽な者らは略奪に會い,彼らは全く 眠りこけました. 勇士たちはだれも, 手の 施しようがありませんでした.ヤコブの神よ. あなたが, お 叱りになると, 騎手も馬も,深い 眠りに 陷りました.あなたは,あなたは,恐ろしい方. あなたが 怒られたら, だれが御前に 立ちえましょう.あなたの宣告が天から聞こえると,地は恐れて沈默を守りました. 神が, さばきのために, そして 地上の 貧しい 者たちをみな, 救うために,立ち上がられたそのときに. セラ まことに,人の憤りまでもが, あなたをほめたたえ,あなたは,憤りの余りまでをも 身に 締められます. あなたがたの神、主に、誓いを立て,それを果たせ.主の回りにいる 者はみな, 恐るべき 方に,贈り物をささげよ. 主は君主たちのいのちを 絶たれる. 地の 王たちにとって, 恐ろしい方.
私たちにとって、信仰を持っての冒険が出来るのは何故でしょうか?人生に大きなチャレンジがあっても、揺るがない理由は何でしょうか?今日の詩篇には、このようにあります。「神はユダにおいて知られ」とあります。神様はユダを特別に知る関係にされ、「イスラエルにおいて御名は大きい」とされるのは、神様の力、そのみなの持つ力を体験し、霊的な神様が私の中に住まわれる体験をするからです。そして、神様の裁きを怖れてきよく生きるからこそ、神様の特別な保護を体験します。すると、まるで映画インディジョーンズのように(いや、それ以上に)絶壁の谷間に飛び込んだ瞬間に橋が架かるように奇跡を体験できるのです。私はまだまだそのような神様の奇跡を体験しながらも、まだまだ神様の奇跡を知らない気がします。神様が私の中に住まわれている時に、飛び込む勇気が無いからです。神様の奇跡を体験する、私が神様にささげる体験をしたい、と思います。いや、もともと神様の下さったものであります。神様の特別な保護と神様を怖れ、ささげる人生を歩みたいと思います。その時にこそ、神様の冒険する人生が開かれることを信じます。

金曜日, 5月 01, 2009

信仰の実力を養え

詩篇75;1-10
私たちは,あなたに感謝します. 神よ. 私たちは感謝します. 御名は, 近くにあり, 人々は, あなたの奇しいわざを語り告げます. 「わたしが,定めの時を決め,わたしみずから公正にさばく.地とこれに住むすべての者が揺らぐとき,わたしは地の柱を堅く立てる. セラ わたしは,誇る者には,『誇るな.』と言い,惡者には,『角を上げるな. おまえたちの角を, 高く上げるな.橫柄な態度で語るな』と言う. 」 高く上げることは,東からでもなく,西からでもなく,荒野からでもない. それは,神が,さばく方であり,これを低くし,かれを高く上げられるからだ. 主の御手には,杯があり, よく混ぜ合わされた,あわだつぶどう 酒がある.主が,これを 注ぎ出されると, この世の惡者どもは, こぞって, そのかすまで飮んで, 飮み干してしまう.しかし私は,とこしえまでも告げよう.ヤコブの神を,ほめ歌おう.惡者どもの角を,ことごとく切り捨てよう.しかし,正しい者の角は,高く上げられる. 私たちの一番感謝できることは何でしょうか?それは、神様が私と共にいることです。どんな苦しみがあっても、私を捨てない神様がおられることです。どんなに状況が変わっても変わらない神様がおられること、私を永遠の愛で愛してくださることを得ていることです。そして、この状況を変えて、作り変えてくださる方、私を高く上げるのは東でも、西でもなく、神様によるのです。私は本当に神様と共にいることを喜んでいるのでしょうか?その価値を知っているのでしょうか?そのために、どのようなことをしているのでしょうか。また、私を上げるのは東でも西でもなく、神様であることを信じているのでしょうか。東や西の人に、自分の何かに頼っていないでしょうか。また、人間的に高められることを期待していないでしょうか?神様の高められることは十字架の死によるのです。それがあってこそ、復活の命を生きることが出来ます。また、神様のなされる定められる時に、期待しているのでしょうか?それとも、自分の時を願っているのでしょうか?神様のなさる時はベストタイミングです。神様のタイムスケジュール、方法に反応できる進行の実力を養っているのでしょうか?自分の方法、タイムスケジュールにこだわっていては神様の時、方法に反応できません。神様のときに信頼して今日を過ごしているのでしょうか?期待しているのでしょうか?今日、私は神様への感謝と賛美をささげ、主に祈っていきます。